花より男子/シロツメクサ(5)


 ――つらくて苦い恋があって、人を成長させる。

 着付けをされながら、ふと思い出す総二郎の言葉。

 ――次は、間違わないよ。

 仕上がっていく自分の姿を鏡に見ながら、いつだったか、茶室に通されてお茶を点ててもらったことを思い出した。苦くて、とても飲めた物ではなかったけれど。

(本当に、今あたしは間違っていない……?)

 鏡に映し出された自分の姿を見つめ、優紀は嘲笑してしまった。今更、思うことではない。
 着付けが終われば、優紀は修の待つ部屋へ向かわなければならない。結納のために。もう、後戻りなんてできないのだ。

「終わりましたよ。大変、お綺麗ですね。この度は、誠におめでとうございます」

「……ありがとう、ございます」

 祝福の言葉を、すんなりと受け入れることができない。
 そんな優紀の様子を察するでもなく、す、と襖が開いた。廊下へと一歩を足を踏み出し、修が待つ部屋へと向かう。

 ぎし、と床の軋む音がする度に、それがまるで時計の針のように時間が迫っている錯覚に陥った。早くしろ、と急かされているような。

「あれ、優紀ちゃん?」

 声をかけられて振り向いた優紀は、愕然としてしまった。今、最も会いたくなかった男性が、そこにいたからだ。

「すげー偶然。ビックリした」

「に、西門さん……」

 それはこっちの台詞だ、と思ったが、名前を呟く以上に何を言うこともできなくて。ただただ驚いて、優紀は目を丸くしていた。

「今日、ここで茶会があってさ。それに出席してきたところなんだ。優紀ちゃんは……、随分と、綺麗な格好してるけど。もしかして、お見合い?」

 優紀の顔を覗き込むように、総二郎は悪戯な笑みを浮かべる。ばっと顔を伏せて、優紀は答えた。

「えっと……。結納、なんです」

「結納?」

「は、はい。この間、プロポーズされて……」

「……」

 言いながら、語尾が弱くなるのがわかる。
 総二郎にだけは、知られたくなかった。いつかは知られてしまうことだとしても、まだ知らないでいてほしかった。無事に、結婚式を終えるまでは。

 それなのに、まだこんなにも想っていたのだ、と。目の前に姿を見つけて、忘れていたはずの想いが溢れ出してくる。純粋に、ただひたすらに総二郎を想って追いかけていた懐かしい日々の思い出。

 総二郎を好きにならなければよかった、なんて思ったことはない。総二郎を好きになったからこそ、初めて知り得た想いもある。
 その想いがあったからこそ、総二郎を好きになった。そのことに、後悔なんてない。もし後悔があるとすれば、もしかしたら。

 総二郎への想いを抑えつけて修との結婚を決めた、あのときかもしれない。



「この間のこと、なんですけど……」

 大きく息を吸い込み、優紀は思い切って口を開いた。

「お受けしようと、思って」

「……本当に?」

 驚き立ち上がった修に、優紀は小さく頷く。

「はい。こんなあたしで、よかったら」

「優紀……」

 心底嬉しそうな表情をした修を、今でもはっきりと覚えている。
 自分と結婚することでこんなに喜んでくれる人がいてくれるのだ、と差し出された手を、ありがたく握り締めた。



「優紀?」

 瞬間、優紀は現実に引き戻される。総二郎の後ろから、優紀を待ち侘びていたであろう修の声がした。

「……失礼します」

 なるべく、総二郎の顔を見ないように。俯いたまま会釈をして横を擦り抜けて行こうとした優紀の腕を、総二郎が掴んだ。
 驚いて見上げれば、鋭い目をした総二郎がいて。びく、と優紀は肩を震わせた。

「また、間違うつもり?」

「……っ!?」

 いつか言われた総二郎の言葉が、頭を巡る。

 ――次は、間違わないよ。

 あのとき言われた言葉を、ずっと胸に抱いていた。総二郎への想いは、間違いではなかったと信じている。でも、届かない想いを寄せ続けるのにも限界があって。
 やっと、踏ん切りをつれたと思ったのに。

「その人は?」

 不安そうな面持ちで、修が優紀と総二郎を交互に見つめた。総二郎の手を振り切って、修のところへ行くのが筋かもしれない。
 そう、頭では理解しているのに。心が、それを否定している。総二郎の腕を振り払うことを、身体が嫌がっている。

「許可もなく勝手に人のオンナに手を出すの、止めてくれない?」

「に、西門さん……!?」

 修に冷たく言い放って、総二郎は優紀の腕を掴んだまま歩みを進めた。そうして引き摺られるようになった優紀を離して、2、3歩足を進めたあとで振り返る。

「おいで、優紀ちゃん。正しい道は、こっちだよ」

「……」

 破顔し、総二郎は優紀にそう手を差し出す。
 正しい道なんて、自分で導き出すものだと思っていた。誰かに言われて、導いてもらえるなんて。思ってもみなかった。

「優紀!?」

 修の声が、遠くから聞こえてくる。すぐ、そこにいるはずなのに。心は、すぐ隣にいたはずだったのに。

 理由なんてない。理屈なんて、どこにもありはしない。ただその目に導かれるように、自ずと身体が動いた。

 差し出された手を握り、総二郎とともに走り出す。それはまるで、映画のワンシーンのようであり。
 この手を離すことなんて、到底できはしないのだ、と。今更ながら、気付いてしまった。

◇ ◇ ◇


 優紀は車に揺られながら、窓の外を眺めていた。景色が流れていく度に、修への裏切りが深まっていく気がする。
 きゅ、と手に力を入れて拳を作ると、それを大きな手で包まれた。

「大丈夫だよ」

 総二郎は、そう言うが。
 一体、何が大丈夫だというのだろう。結納をすっぽかしたりなんかして、きっと家に帰れば両親から雷が落ちてくることは間違いない。修とも、別れざるをえない。

 少しずつ積み上げていった幸せが、一瞬にして崩れてしまった。
 その元凶とも言えるこの手を、どうして振り払えなかったのだろう。何故、差し出された手を掴んでしまったのか。

「今、俺とここにいることは、間違った道じゃないよ」

「え?」

「だから、何も心配しなくていい。黙って俺について来て」

「……はい」

 その言葉は、すぅ、と吸い込まれるように優紀に呑まれていった。

 総二郎の行動は、正直言って理解できない。でもこの手を信じていたら、何も恐れることはないのかもしれないという錯覚さえ芽生えてしまう。

 ゆっくりと車が停車して、ドアが開かれた。気付けば、もう西門邸の前まで来ており。降りようとした優紀の前に、素早く反対側から降りてきた総二郎が手を差し伸べてくれた。その手を取って、優紀は車から降りる。そうして手を引かれたまま、優紀は総二郎とともに西門邸に足を踏み入れた。

「そこ、段差あるから気を付けて」

「あ、はい。……きゃっ」

 言われた先から、優紀はつまづいて転びそうになってしまった。

「す、すみません」

 総二郎に全体重を預けてしまい、優紀は慌てて総二郎から離れる。すると、ぷ、と噴き出した総二郎の笑い声が聞こえてきて、優紀は顔を上げた。

「本当、そそっかしいね、優紀ちゃんは」

 惜しみなく笑う総二郎の顔に、優紀の胸が躍る。
 総二郎の何に惹かれたのかなんて、もう覚えていない。でも確実に、この笑顔も含まれていた。少年のように笑う彼を前にしたら、自分の気持ちに目隠しをすることなんてできない。

「……西門さん、あたし」

「優紀ちゃん」

 優紀の言葉を遮って、総二郎は優しく優紀を見つめる。

「ごめんね。話なら、あとでゆっくり聞くよ。ここにいて親に見つかると面倒だから、早く俺の部屋に行こう」

 有無を言わさず優紀の手を引いて、総二郎は足早に自分の部屋へ優紀を案内した。



 初めて入る総二郎の部屋からは、やはりというべきか、ほんのりと香が漂っていた。和室かと思いきやフローリングの床であることに、優紀は少しだけ顔を綻ばせる。

「どうかした?」

「いえ。てっきり、畳だと思ってたから」

 ああ、と同じように口元を緩ませて、総二郎はベッドに腰を下ろす。

「家中がそうだから、その反動なのかもね。自分の部屋だけは、どうしてもフローリングがよくてさ」

 言って、総二郎は優紀に手を差し伸べた。
 訝しげに首を傾げながら、優紀はその手に自分のそれを重ねる。にこ、と一笑して、総二郎は口を開いた。

「俺、すげー寒ぃの。温めて?」

 本当に、どういうつもりなのだろう、総二郎は。
 きっと、優紀が断れないのを知っている。知っていて、わざとそういうふうに笑顔を見せるのだろう。
 ズルい人。そう思うのに、優紀の中での答えは一つしかなくて。

「あたしで、よければ」

 返事とともに、腕を引かれて。優紀の唇は、総二郎の柔らかいそれで包まれた。
 不安でしかない先行きも、この腕の中では安心に変わる。修への罪悪感も、何もかも投げ捨てて。

◇ ◇ ◇


「……ふぅ」

 重苦しい息を吐き出し、司は首を鳴らした。机上に散乱する書類を集め、それを整えてから自室をあとにする。
 向かっているのは、道明寺財閥代表取締役会長である、母・楓のところだ。楓に書類を提出し、いつもならそれで終わるはずだった。わざわざ好きでもない母と会話をするのは億劫でしかないし、話すこともなかったからだ。

 だが今日は、少しばかり違う。司は、ある決心をしていた。

 コンコン、とノックをして、扉の向こうから声が返ってきたのを確認し扉を開く。楓は、奥の机に座って書類を眺めていた。

「これ、今日の分です」

「わかりました。目を通しておきます」

「……」

 事務的な、まるで親子とは思えない会話。
 いつもならそれで終わるのだが、なかなか動こうとしない司を怪訝に思い、楓はかけていた眼鏡を少しだけずらして司を見上げた。

「来月頭、総二郎の誕生パーティがあります。日本へ帰国する許可を下さい」

「……」

 楓は徐に眼鏡を外し、力強い瞳孔で司を捉える。それに負けじと、司もじっと楓を見据えていた。

「今請け負っているプロジェクトの進捗は?」

「2、3日、僕が空けても可能なほど順調です」

「そう」

 司の言葉に頷きながら、楓は立ち上がり外を眺める。

「いいでしょう。許可します」

「ありがとうございます。それから、もう一つ。来月末、牧野つくしの誕生日が……」

「話が終わったのなら下がりなさい。私は忙しいのです」

 それ以上何も聞く耳は持たないというふうに、楓はまた机に向かって眼鏡をかける。つくしの名前を出すと、いつもこれだ。
 だが今回は、司にだって退けない理由がある。

 ばん、と司は楓が眺めている書類ごと、机に手をついた。

「俺はこの4年間、無駄に過ごしてきたわけじゃねぇ。全部、牧野のためだ。牧野との未来のために、がむしゃらに働いてきた」

「……」

「牧野の誕生日、俺はあいつをニューヨークへ連れてくる。俺の婚約者として」

「……」

 何も言わない楓が肯定していると受け取ったのか、司は踵を返してノブに手をかけた。
 待ちなさい、と低い楓の声がして、司は振り返る。

「牧野つくしのことは、これを見てから考えなさい」

 言いながら、楓は分厚い封筒を司に差し出した。訝しげに、司はそれを受け取る。

「何だよ、こりゃ?」

「見ればわかります。あなたが懸命に働いていた理由はもうないと、それでわかるでしょう」

「……」

 その分厚い封筒を手に、司は会長室をあとにしたのだった。

 自室に着くなり、司は早速、楓に渡された封筒の中身を取り出した。

「これは……」

 中に入っていたのは、大量の写真であり。どれもこれも、写っているのはつくしである。

「くそババア。変なことしやが……」

 楓に対し、悪態吐こうとした司は。まるで、つくしと対になっているかのような親友の存在に気付いた。

「――…る、い」

 写真を握る手に、自ずと力が入る。

 何百枚とある写真のすべてが、つくしを照準としたものであった。つくしの髪型や服装から、それがここ数ヶ月の間に撮られたものでないことは容易に想像できたのだが。
 そのすべてが、つくしと類の仲を確認するためのものである気がした。自分が日本にいたときよりも、その距離は縮まっているように感じる。

 司が多忙で連絡を取れなかった間、ずっとつくしのそばには類がいて。お互いが、司の前では決して見せないような笑顔で微笑み合っていた。類は、こんなふうに笑う男だったか。つくしは、こんなに可愛らしい女の子だっただろうか。

 がく、と足の力が抜け、司はその場に膝をついた。前回会ったのは、たしか類の誕生日だった。
 5分だけ帰国して、碌に挨拶もできないままニューヨークに戻ってきた。あのときは、会話をする余裕さえなくて。類と、話して。またな。つくしに対しては、その3文字発しただけだった。

 思えば、いつからつくしの笑顔を見ていないだろう。最後につくしと笑い合ったのは、いつだったのか。
 そんな些細なことさえ思い出せないほど、司はつくしと離れていた。そこに愛があれば、それでも大丈夫だと思っていたのに。

「……」

 類と微笑み合うつくしを見たら、そう思えなくなってしまった。

 ――あなたが懸命に働いていた理由はもうないと、それでわかるでしょう。

 楓が言いたかったのは、きっとこれのことだろう。
 つくしと類の間に流れる、友人以上の空気。目の当たりにしなくても、写真だけでも伝わってくるほどの愛情。恋人同士ではないという方が不自然なくらい、自然に写っている二人。

 もともと、つくしは類を好きだった。そのとき、類は幼馴染みである藤堂静を好きで。その傷心につけ入るように、司はつくしに想いをぶつけ続けた。

 つくしは司のその想いに応えてくれただけで、類への想いがなくなったわけではない。
 もしかしたらつくしもまた、類への恋愛感情が蘇っているのではないだろうか。もし、そうだとしたら。司に、勝ち目はないかもしれない。

 司は、ポケットの中にある携帯を、ぐ、と握り締める。

(信じて、いいんだよな……?)

 そう祈りながら、携帯を開くのだった。