花より男子/シロツメクサ(4)


「あのね、つくし。あたし、大事な話があって」

「大事な話?」
 つくしは、優紀と約束した木曜日の夕方、松岡家へ来ていた。そこで優紀が用意してくれた紅茶を飲みながら、他愛のない話をしていて。不意に、そう切り出された。

「うん。あたし、結婚しようと思って」

「結婚?」

 驚いて聞き返したつくしの言葉に、優紀は少しだけ頬を染めた。

「先週プロポーズされて、ずっと悩んでたんだけど。昨日OKしたの。本当は、返事をする前につくしに会いたかったんだけど」

「ご、ごめん。あたし、バイトが……」

「ううん、いいの。それでね、今度の日曜日、彼の両親と会うことになったんだ」

 そう言う優紀は幸せそうに見えるのに、何故だろう。どこかしら、哀愁を漂わせている感もある。

「……西門さんのことは、もういいの?」

 聞かずには、いられなくて。思わず聞いてしまったつくしの言葉に、ぴく、と優紀の手が反応する。そうして目を伏せて、優紀は頷いた。

「想っていても、決して届かない人だから。あたしもそろそろ、現実を見なくちゃいけないなって」

 ――想っていても、決して届かない人だから。

 優紀のその言葉で、どうして類が浮かんでしまったのだろう。司と交際している立場にありながら、決して想ってはいけないことだ。
 考えを打ち消すように、つくしは思い切り首を横に振る。

 高校卒業後、優紀は保育士の専門学校に2年通っていた。そこで知り合った講師と卒業と同時に付き合い始めて、もうすぐ1年になる。

 心に総二郎がいながら結婚するなんて、大丈夫なのだろうか。優紀がつらくないのなら、つくしにあれこれ言う権利などないのだが。

「本当に、後悔しない?」

 念を押すように、つくしは優紀を見る。

「……しないよ」

 呟いた優紀の頬に、一筋の涙が伝った。

 総二郎のことが好きで。好きで好きで仕方がないのに、それは決して届かないから。諦めなければならないこともわかっているから。

 結婚を決意したのは、容易ではなかったのかもしれない。それを改めて聞くなんて、無粋でしかない。

 つくしは、そっと優紀を抱き寄せた。総二郎への儚い想いが、優紀の心を突き抜けてつくしに伝わってくるようだ。
 どんなにかまだ総二郎を想っているということが、ひしひしとつくしに響く。それと同時に、つくしの中に浮かんでしまった人物。

 ――牧野。

 いつだって、つくしのことを気にかけてくれていて。そんな類に、つくしも心が癒されて。

 いつか、類の隣に立つ女性を紹介される日が来るのだろうか。
 類の幸せを願う一方で、そんな日が来なければいいのに、なんて虫がよすぎる。類にだって、幸せを掴む権利があるはずなのに。

◇ ◇ ◇


「……はぁ」

 一人でウィンドウショッピングをしながら、つくしは思わず大きなため息を吐いた。
 すべてのアルバイトが休みで、ゆっくり羽を伸ばせる日曜日。いつもならウキウキ気分のはずなのに、何故か今日のつくしの心は曇り空。

 今頃、優紀は結納の最中だろうか。
 あれこれ考えても、選ぶのは優紀なのだ。つくしが口を挟む問題ではない。

 雑念を振り払うように大きく首を横に振って、つくしは前を見た。
 すると、目の前にあるジュエリーショップから出てきた一人の青年に目が止まる。見間違えようのない、薄茶の髪を持つ青年。

「はな……」

 声をかけようとして、思わずつくしは止めざるをえなくなった。
 類の後から出てきた女性が、何の違和感もなく類の腕に手を回したのだ。そうして腕を絡めながら、類を見つめている。

(もしかして、あれが……)

「牧野?」

「ぎゃっ!!」

 締めつけられそうな思いで、女性の正体を思った刹那。ぽん、と肩に手を置かれて、つくしは心臓が口から飛び出そうなほどに驚いてしまった。

「そんなに驚くなよ」

「み、美作さん……」

 後ろにいたあきらの姿を確認して、もう一度類に視線を移す。見たくはないのに、目を逸らすことができなくて。
 その女性が誰かなんて、聞かなくてもわかる。きっとあれが。

「橘芹香。類が婚約する相手だな」

 つくしの視線の先に気付いたあきらが、わざわざ紹介してくれる。聞きたかったわけではないのに、と思ったが、つくしは何も言わなかった。声を出すことさえ、今は上手くできる自信がない。
 それくらい、類が別の女性と歩いている光景はつらすぎて。

「牧野、今日バイトは?」

「え?」

 戸惑うつくしの頭に手を乗せて、あきらが問う。

「バイトないんなら、飯でも食おうぜ」

「あたし、お金ないってば」

「誘ったんだから奢ってやるよ。行こうぜ」

「……うん」

 気を遣ってくれているのだというのが、じん、と伝わる。あきらのいいところは、こういうところかもしれない。何も聞かずにいてくれる。

 あきらはつくしの肩を抱いて、近くのファミリーレストランに足を向けた。そうしてつくしの肩を抱いたまま、類に視線を戻す。
 驚いた表情でこちらを見ているのは、紛れもなく類だ。あきらがつくしの肩を抱いていることが、まるで信じられないとでもいうような表情をしている。だがあきらも、今はそんなことに構っていられなかった。

 司の彼女という立場にありながら、つくしは今、類への想いで揺れている。崩れ落ちそうなほど、芹香の存在にショックを受けている。
 人一倍思いやりがあるあきらに、放っておけという方が無理だった。



「類?」

 ぐ、と芹香に腕を引かれて、類はようやくはっとした。

「誰か、知ってる人でもいたの?」

「……別に」

 絡められた腕を離そうとしてみるが、強くそれを絡められているために外れない。はぁ、とあからさまに嫌なため息を吐いて、類は歩き出した。
 置いていかれまいと、芹香は絡めた腕に更に力を込めて歩調を合わせる。

「ねぇ、もう少しゆっくり歩いてよ」

「……」

「聞いてるの、類?」

「……」

 芹香の訴えを無視して歩いていると、不意に芹香は類の腕を掴んだまま立ち止まった。腕を引かれて、思わず類もその場に止まる。

「ねぇ、類。私の話、聞いてる?」

「他人の話に、興味ないよ」

 ばっ、と強く腕を振り払い、類は芹香に背を向けて足を動かし始めた。

 目を瞑ると、浮かんでくるのは先ほど見た光景。あきらが、つくしの肩を抱いていた。

 どうして、あきらがつくしと一緒にいたのだろう。いや、一緒にいただけならまだ理解できる。
 何故、肩を抱いていたのか。それが、どうしても理解できなくて。

 モヤモヤとした悪感が、類の中で蠢いていた。一緒にいたのが司なら納得できる。今までだって、そうだったから。
 それが、何故急にあきらなのだろう。たまたま偶然会っただけならば、肩を抱く必要なんてない。じゃあ、何故。

「類」

 背中からかけられた芹香の声に、類は足を止めた。

「わかっているでしょう? あなたが私との縁談を断れば、花沢がどうなるかって」

 カツン、と芹香の履いているヒールが地面を蹴る嫌な音が響く。その足音が近付く度に、どんどんつくしが遠退いていく気がする。

「あなたは、私から離れられないのよ」

 絡んでくる腕が、まるで蛇のように纏わりついてくるのが気持ち悪い。
 魔女の手のひらの上で操られていた司の気持ちが、今ならわかる気がした。

「たとえ、このままあんたと結婚することになったとしても、俺の気持ちは変わらない」

 芹香の手を掴んで、類は引き剥がすようにして芹香を見る。

「俺があんたの隣にいたとしても、心は常に離れてる。心があんたのそばにいることだけは、絶対にありえない」

「牧野つくし?」

 その名前に、ぴく、と類が反応する。

「親友の婚約者に想いを寄せているなんて、親友に対する裏切り行為でしかないわね」

「――余計なお世話だよ」

 ぞくっとするような物言いに、芹香は思わず身震いした。

 類の素行を探っていると、必ずと言っていいほど つくしの存在があった。つくしと一緒にいるときの類は、いつも笑顔で。一人のときにはいつも神経を張りつめている表情をしていたのに、つくしといるときだけはそれが解けていて。
 何をしてもいいから、この笑顔のそばにいたい。そう願っていた矢先、橘と花沢との間に決裂の兆しが見えた。

 今しかない。そう思って、芹香は父に類との縁談を持ちかけたのである。
 当然、娘が可愛い父は二つ返事でそれを承諾してくれて。類を手に入れた。そう、思った。

「……」

 類は、一人の少女しか見ていない。背中越しでも、それが伝わる。類の心には、芹香が入る隙間など微塵もないのだ。

「嫌よ、そんなの」

 ぐ、と握った手に力が入る。

「認めないわ、絶対に」

 今まで、望んだものが手に入らなかったことなど一度もなかった。今回も、そう。必ず、身体だけではなく心も手に入れてみせる。

 たとえ、何を踏み台にしたとしても。

◇ ◇ ◇


「美作さん。あのね、あたし……」

「心配すんな」

 震える肩を、あきらは、ぎゅ、と抱いていた。

「俺は、何があってもお前の味方だよ。俺だけは、お前の味方でいてやる」

 あきらの言葉に、すぅ、と吸い込まれるように心が落ち着いていく。

 類と、芹香のこと。口には出せないけれど、すごくショックで堪らなかった。
 隠し切れないその想いは、ちゃんとあきらに伝わっていて。あきらの言動がなければ、きっとあの場で立ち竦むだけだったかもしれない。

「なんか、不思議な感覚なんだよね」

「何が?」

 とりあえず入った、あきらにしてみれば質素なファミリーレストラン。だが今のつくしには、そこで休息を摂ることは必要だったと思う。

 ウェイターに案内されるまま、あきらは空いている席へつくしを座らせた。コーヒーを2つ注文し、向かい側にあきらも座る。

「居心地がよすぎて。ずっと、花沢類と一緒にいられるって勘違いしてた。あたしが誰と結婚しても、花沢類だけはずっとそばにいてくれるって。……そんなわけ、ないのにね」

 はは、と微笑しながら、つくしは言うが。その笑顔が無理に作ったものだと、すぐにわかる。

 つくしの言葉は、きっと類にも言えることだろうと思う。類も、たとえつくしが結婚したとしても、今以下にはならないと思っているだろう。

「まき……」

「今日、西門さんは? 珍しく一緒じゃないのね」

 そのことを伝えようと言いかけたあきらを遮って、つくしは聞いた。
 今は、触れてほしくなくて。きっと、あきらはつくしの気持ちに気付いている。だからこそ、核心をついてほしくなかった。

「お待たせ致しました」

 運ばれてきたコーヒーを、つくしはすぐに手に取る。わずかに震えているのを察し、あきらは、ふぅ、とため息を吐いた。わかったよ、と言わんばかりの表情だ。

「茶会だよ。次期家元のお手前を見せてもらいたいんだとさ」

「見せてもらいたいって、誰が?」

「総二郎の見合い相手」

「え?」

 コーヒーを持つ手が、思わず滑ってしまった。かちゃん、とカップとソーサーが当たる音が響く。

「西門さんが、お見合い?」

「そ」

「……」

 つくしは、驚きを隠せなかった。

 類に婚約者が出現するくらいなのだから、総二郎が見合いをするのも不思議ではない。優紀だって、結婚を決めている。

 つくしだけが、いつまでも子供のままでいられると甘えていた。先に進むことを恐れて、このままでいたいと願っていた。

 そんな儚い願いが、音を立てて崩れていく。導かれるように差し出されたあきらの手さえ明日は掴めるかわからない状況なのだ、と気付いてしまったときには、もうすべてが遅かったような気がした。

「類も総二郎も、望んでることじゃねぇよ」

 落ち込み、沈んでしまった表情のつくしを慰めるように、ぽんぽん、とあきらが頭を撫でてくれた。類とは違うあきらの優しさが、身に沁みる。

「類と総二郎だけじゃねぇ。俺だって、いつかは誰かと結婚する。お前だって、司と結婚するんだろ?」

「そんなの、まだ決まったわけじゃ……」

 言いかけて、つくしは口を噤んだ。別に、司と結婚するのが嫌なわけではない。ただ、そう決まっていると思われることが嫌で。
 自分の人生を自分の好きなように決められないことが、窮屈で堪らない。

 F4は、確かに決められたレールの上を歩いていかなければならないのかもしれないが、つくしは違う。普通に学校に通って、普通に恋愛をして、普通の結婚をしたかった。ずっと、普通を求めていたのに。

 司と結婚をすれば、普通の生活はできなくなる。そのことだけは、何年経っても消えない、つくしの中で隔たっている壁だった。

「……来月、総二郎の誕生日だな」

 ぽつり、とあきらが口を開く。はっとして、つくしは顔を上げた。

 気付けば、11月半ば。司と約束した4年は、もうすぐ終わりを告げようとしていた。

「今回は、基本、男しか招待しないらしいぜ。但し、パートナー同伴」

「パートナー?」

 毎年、F4の誕生パーティには必ずつくしは招待されていた。だがF4にとっては普通以下かもしれないそのパーティも、つくしにとっては豪華絢爛でしかなくて。
 息が詰まるからという理由で、つくしがパーティに参加することはあまりなかった。

「お前は……、司が来なきゃ、類が誘うだろうと思ってたけど。もし誰にも誘われなかったら、俺に言えよ。俺と一緒に行こうぜ」

「……うん」

 一瞬、顔を曇らせてから、つくしは頷いた。

 もしも、司にも類に誘われなかったら。司は、単に帰国できなかったで済むだろう。
 だが、類は。類に誘われなかったとしたら、それはきっと、類が『彼女』を誘ったからということになる。類が婚約者という立場にある芹香をパートナーにするのは、当然である。

 頭では理解しているのに、どうにも納得できない自分がいて。
 類が、自分以外の女の子を誘うなんて。それを信じたくないなんて、ありえない。

 ふと、二人が腕を組んで歩いていた先ほどの光景が頭に浮かんでしまった。それを吹き飛ばすように、つくしは頭を左右に振る。また、あの二人が並んでいる姿を見なくてはならないのかと思うと。眩暈が、しそうだった。