花より男子/シロツメクサ(3)


「はー……。いい天気」

 学園内で一番陽当たりのいい場所に、つくしはいた。芝生の上に体操座りをして、空を仰ぐ。春の暖かな陽差しが、なおさら、つくしの眠気を誘った。
 うとうとと、正につくしが眠りにつこうとした刹那。

「つーくしチャン♪」

「ぎゃあっ!!」

 背後から、ぎゅう、と抱き締められて。それは、普段なら絶対にありえない人物だったから、余計につくしは驚いた。

「に、西門さん!?」

 類ならまだしも、総二郎がこのような行為に及ぶことは今まで一度もなかった。肩を抱くことはあっても、背後からいきなり抱き締めるなんて。
 何故、急にこのような状態になっているのか。理解不能である。

「こんなとこで日向ぼっこ? 類みたいだな」

「放っといてよっ」

 総二郎の腕の中でジタバタ暴れてみるが、総二郎は腕を緩める気配がない。
 どうしたものか、と考えていると。

「あ。牧野が浮気してる」

 総二郎の更に後ろから、類の声がして。総二郎の腕の中で振り向けば、そこには類とともにあきらも立っていた。

「珍しい光景だな、おい」

 まじまじと、あきらがつくしに引っついて離れない総二郎を見る。それで正気を取り戻したかのように、つくしは改めて総二郎の腕の中で暴れ出した。

「い、いい加減に離れてよ、西門さんっ」

「いいじゃねーか、別に。司が戻ってきたら、こうして触れ合うこともできなくなるんだし」

 名前を出されて、ぴたっとつくしの動きが止まる。
 公共の電波を使い、4年後に迎えに来ると司はつくしに約束した。間もなく、その約束を交わしてから4年。約束の日は、もう目前に迫っていた。

 はぁ、とつくしが諦めにも似た息を吐き出す。すると閃いたように、類は携帯を取り出した。

「写メって、司に送ってやろ♪」

「!?」

 ときどき、天使のような類が悪魔に見えるのは気のせいではないかもしれない。F4の中で、一番敵に回したくない人物である。

「司の奴、飛んで帰ってくるぜ、きっと」

 くっくっ、と笑いながら、あきらが類の肩に手を置いた。笑い事ではない、と声を張り上げたいのを、つくしは何とか堪える。

「そういや。聞いたぜ、類」

「何を?」

 総二郎が、つくしを腕に抱いたまま類を見ると、きょとん、とした表情で類は聞き返した。

「橘コンツェルンの令嬢と、婚約だって?」

「え?」

 ドクン、とつくしの心臓が波打った。

(花沢類が、婚約……?)

 目を大きく見開いて、つくしは類を見つめる。だがそんなつくしの様子を察するでもなく、類は目を伏せた。

「どうでもいいよ、そんなの」

「だよな。俺らにとっちゃ、婚約も結婚も決められた相手とだからな。自分が望んだ相手となんて、よほどの覚悟がなきゃできねぇよな」

 言いながら、総二郎はつくしに視線を向けた。司も、その例外ではなかったとでも言いたいのだろう。だが今のつくしには、そんなことはどうでもよくて。

 つくしは、ぎゅっと手を握り締めた。確実に、時間は動いている。
 類の隣につくしの知らない女性が立つ日は、そう遠くないのかもしれない。

「牧野?」

 急に黙してしまったつくしを、訝しげに類が覗き込む。はっとして、つくしは回された総二郎の腕を退けた。

「あ、あたし、ええと……、そうだ、バイト。バイトがあった、ような気が、しないでも、ないような……」

「は?」

 急にシドロモドロになったつくしに対し、類とあきら、そして総二郎は思い切り顔を顰める。

「だから、その……。用事が、あるの。だから、ええと……。ま、またね!」

 つくしは立ち上がり、三人と目を合わさないように慌ててその場を去っていった。
 その姿を呆然と見送っていた総二郎が、ぽつり、と口を開く。

「ありゃ、かなり動揺してんな」

 同じように呆気にとられていたあきらも、総二郎の言葉に大きく頷いた。

「ま、わからないでもねぇけどな。類が婚約したって聞いて、冷静でいられるわけない、か」

「どうして?」

 総二郎とあきらの言葉に、類は理由を問う。司と付き合っているであろうつくしが、類が婚約をすることで動揺する意味がわからない。

「牧野にとって、類は特別だからな」

「その類が、牧野から離れて行っちまうんだ。たとえ、不本意だったとしてもな」

「でも、俺は牧野にふられてるんだよ?」

 珍しく、類は動揺していた。つくしへの想いは、一方通行なのだと思っていたのだが。もしかすると、つくしの想いは二つあり。
 一つは、かねてからわかっている通り司へのもので。もう一つは、類に対するものなのかもしれない。そんな自分勝手な考えが頭を過り、類の脳を侵していく。

 そんなこと、あるはずがない。わかっているのに、自分にとって都合のいい考えが段々と重みを増していった。

「初恋は、特別なんだよ」

 物思いに耽るように、総二郎が口を開く。

「類だって、静は特別な存在だろ? それと同じで、牧野にとって類は特別なんだよ。ましてや、司がいない間、ずっとそばで支えてくれていたのは類だ。寂しいのは当然だと思うぜ」

「何だよ、総二郎。いやに実感籠ってんじゃねぇの?」

「バーカ」

 茶化すように言ったあきらの言葉を、総二郎は軽くあしらう。そんな二人の様子を目に入れるでもなく、類は急く鼓動を抑えるのに必死だった。

 司の恋人であるつくし。そうと知っていながら、類はつくしを好きになってしまった。決して手に入るはずがないと、諦めていた。
 それなのに、何故だろう。このまま司が約束の4年を終えて迎えに来るのを、指を咥えて見ていられない気持ちになるなんて。

 悶々と考える中、突如類の携帯が鳴り始めた。画面には、見知らぬ番号が記されており。訝しげに類が電話に出た瞬間、その顔色が変わったのをあきらは見逃さなかった。



「あ、たし……ったら」

 ぐぐ、と胸を押さえて、つくしはその場に座り込んだ。

「なに……うろたえてんのよ」

 火照る頬と、急く鼓動。どうしたって、その二つを鎮めることはできなくて。

 ぎゅ、と固く、目を瞑った。

 ――橘コンツェルンの令嬢と、婚約だって?

 総二郎の言葉が、つくしの脳裏をぐるぐると回っている。
 類だって、ああ見えても次期社長というポストが待っている後継者である。司に滋という婚約者がいたように、類にだって婚約者がいても不思議ではない。
 頭では、そう理解している。納得しているはずなのに、心がそれを拒否しているなんて。

「は、花沢類には、花沢類の人生があるのよ。あ、あたしは、それを……黙って、祝福……」

 思いながら、段々と苦しく締めつけられていく心臓。こんなの、おかしい。間違っている。

「……ひゃっ!?」

 刹那、つくしのスカートが震え出した。正確にはスカートの中に忍ばせてある携帯なのだが、今のつくしには、それを携帯だと認識するのにも時間がかかってしまう。

 慌てて、つくしは携帯を取り出し通話ボタンを押した。

「も、もしもし」

『つくし? 今、大丈夫?』

 携帯から聞こえてきた声に、つくしは安堵の息を漏らす。ほぅ、と息を吐いて、うん、と大きく返事をした。

「大丈夫だよ。どうしたの、優紀?」

 それは、無二の親友からのものであり。狼狽していた心が、だんだんと落ち着いていく。

『うん、あのね。どうしても、つくしに話しておきたいことがあって……。今日、会えないかな?』

 遠慮がちな優紀の声に、つくしはそれを吹き飛ばすかのように大きく返事をする。

「今日はバイトが入ってるから、来週の……ええと、木曜日でもいい?」

『来週……。うん、わかった。じゃ、そのときにね』

 少しだけ優紀は声を曇らせたのだが、今のつくしにそれは伝わらず。それからしばらく他愛のない話をして、携帯を切った。

 はー、と大きく息を吐き出して、つくしはその場にゴロンと寝そべる。青い空に浮かぶ、白い雲。その白い雲の中に、4つ、仲がよさそうに固まっているものがある。付かず離れず、ずっとくっついて。それはまるで、F4のようであり。
 思った瞬間、つくしの脳裏を類と司が横切る。思わずぎょっとして、つくしは身体を起こした。

 4年間、つくしは司を待っていた。最初はそばにいられなくて寂しかったはずなのに、今ではあまり寂しさを感じなくなっていた。
 それというのも、その寂しさを紛らわすために、いつもF3がそばにいてくれたからであり。その中でも、類は特に一緒にいてくれた気がする。類だけは、ずっとそばにいてくれるものだと思い込んでいた。

 ――自分が望んだ相手となんて、よほどの覚悟がなきゃできねぇよな。

 類が、望んだわけではないと。そう、信じたい。
 今、つくしがそう思うこと。それが司に対する裏切りに繋がるのだと、このときはまだ気付いていなかった。

◇ ◇ ◇


 静かな喫茶店の中、類は深く息を吐き出す。

「俺の番号は、誰に聞いたんだ?」

「おじ様♥」

 にっこりと微笑む芹香とは対照に、類はうんざりした顔付きだった。
 先日の見知らぬ番号からの電話は、芹香からのものであり。正式に婚約発表をする前に一度会いたい、と言われ、仕方なく今日に至る。

「俺、忙しいんだけど。用件なら、手短に……」

「うん♥」

「……」

 煩わしい、と言わんばかりに、類は大きくため息を吐く。

「用がないなら、帰る」

「類を見ていたいのよ」

 がた、と椅子を鳴らして立ち上がりその場を離れようとした類に、芹香が声をかけた。

「好きな人って、見てるだけで幸せを感じない?」

 それは、少しだけ類にも理解できることだった。つくしと同じ空間にいるだけで、心が癒される。安らげる空間を、つくしは類にくれる。

「次はいつ会える?」

 だが、それはそれとして。
 つくしは、類といることを嫌がってはいないと思う。類は、芹香といるのに煩わしさを感じている。

「俺には、あんたに会う理由なんてない」

「だって、私は会いたいんだもの。パパだっておじさまだって、そうしなさいって言ってくれたわ」

 芹香の言うパパとおじさま。花沢物産の存続が危うい中その二人の名前を出されれば、今まで好き勝手に過ごしてきた類に断ることなどできなくて。
 仕方ない、というふうに、大きく息を吐くのだった。

「あのね、類。私、ずっと類に会って、こうしてしゃべってみたかったの。ずっと憧れてた類と結婚できるなんて、まるで夢みたいだわ」

 俺にとっては悪夢でしかないよ、と類は思う。口には出さずとも、そう表情には出てしまっていたかもしれない。
 だが芹香はそれに気付いても何も言わず、類に悪魔のような笑顔を向けるだけだった。

「忘れないでね、類。あなたは、私と結婚するの。逃れられないのよ」

 芹香の唇が『類』と動く度、類に虫唾が走る。馴れ馴れしい女は大嫌いで、普段なら会話さえしないところだ。
 だがそうできない理由が、この芹香にはあって。言わせたいことだけ言わせて、類は我慢することしかできないのである。

「私、新しいネックレスが欲しいの。今度、一緒に買いに行きましょう」

 芹香が言うのは、お願いではなく強制であり。類は自分を強く押し殺したまま、何も言わずにその場を立ち去ったのだった。

「本当、類ってば可愛い」

 くすくすと笑いながら、芹香は店を出て行く類を見送っている。頬杖を突いて、幸せそうに微笑んで。次回のデートの日程を確保するため、鞄からスケジュール帳を取り出すのだった。