花より男子/シロツメクサ(29)


「結婚式があるの?」

 もっと黒字が増えないか、机上の数字と睨めっこをしていたつくしに、わぁ、と感嘆の声が聞こえてきた。マルクとのあれこれで、放置されたままになっていた優紀の結婚式の招待状を発見したらしい。

「友達のね。でも、行きませんよ」

「あら、どうして?」

 きょとんと目を丸くして、あんは持っていた招待状を元に戻した。
 杏はつくしとよく背格好の似た、ロシア人に嫁いだ日本人である。つくしが最初にこのホテルを案内されたとき、椿が紹介してくれた。
 知っている人は知っているが、表向き、このホテルの経営者はこの杏になっている。その方が、いろいろと都合がよかった。

「会いたくない人が来るからです」

「えー、そんな理由でー?」

 呆れた、と言わんばかりの杏に、つくしは、ぐ、と声を詰まらせる。

「そんなの、結婚する友達には関係ないじゃない」

「まぁ。それは、そうなんですが……」

 まっすぐ過ぎる杏の言葉が、つくしに突き刺さる。正論すぎて、返す言葉もない。

「恋人? その、会いたくない人って」

「……違います」

 会いたくないのは、類と司だ。司は婚約者だったが、今は違う。つくしが一方的に放棄した。類とは、ただの友達のはずだった。その均衡を破ってしまったのも、つくしだ。類は付かず離れず、その距離を保っていてくれたのに。

「行かなきゃ、一生後悔すると思うわよ」

「……」

 杏の言葉に、つくしはペンを置いて、頭を抱えた。
 優紀の結婚式には行きたい。行って、優紀の花嫁姿を見たいし、優紀を嫁に選んだ総二郎に、ありがとうを言いたい。総二郎の結婚式だから、きっとウエディングドレスではなく白無垢だろうなぁと想像したら、尚更見たくなった。優紀に白無垢。うん、絶対似合う。

 思って、ぶるぶると首を振る。類と司から逃げたつくしが、今更、どの顔下げて会えるというのだろう。

 黙ってしまったつくしに、じゃあさ、と杏が閃いたようににんまりと微笑んだ。

「こっそり、見れば?」

「え?」

 杏が言うには、どうどうと出席するのではなく、裏方からこっそりと盗み見ればということらしかった。
 なるほど。それなら、総二郎にありがとうは言えなくとも、優紀の花嫁姿を見ることは叶う。

 けれどそう簡単に行くもんかと顔を上げれば、ノックされたドアが、返事を待つことなく開かれた。

『ツクシ、日本へ帰るって本当!?』

 蒼い顔をしたマルクが、言いながらつくしの元へ寄ってくる。

『さっき、ツバキがそう話してるの聞いたんだ。僕のせいなら謝るから、日本へ帰るなんて言わないで! ずっと、僕のそばにいてよ!!』

 ある程度の単語は聞き取れるとはいえ、あまりに早口だと理解ができなくなる。
 つくしは脳内に疑問符を浮かべながら、マルクによってがくがくと動かされる頭に吐き気が芽生えそうだった。

 それを、杏が間に入って宥めてくれる。

『ちょっと、落ち着いて、マルク』

『アン……』

 マルクは、目尻に涙を浮かべている。つくしはまだ、内容が理解できていないままだ。

『ツクシが日本へ帰るっていうのも気になるけど、僕のせいって、なに? あなた、ツクシになにかしたの?』

『な、なにかって……。キスしか、してない』

『キス、しか?』

 目の前で繰り広げられる杏とマルクの会話についていくことはできないが、杏の表情が変わったのはわかった。ごごご、と怒りが込み上げているようだ。

『日本の女性にそんなことしちゃだめだって、前に教えたでしょう!?』

『だって、僕はツクシが好きなんだ! 好きな人にキスして、なにが悪いの!?』

『相手の了承がなきゃ、そんなことしちゃだめなのよ!』

 杏のひと言に、マルクは瞬時に顔色を変える。顔面蒼白になって、口をパクパクと開きなにかを言いたそうにしているが、言葉にならないようだ。
 とにかく、と杏は深くため息を吐く。

『一度、頭を冷やしなさい。ツクシが日本へ帰るかどうかは、これから……』

「つっくしちゃ~ん♥」

 ドアがノックされることなく、またいきなり開かれる。入ってきたのは、すこぶるご機嫌の、椿だった。
 つくしは慌てて立ち上がると、一礼する。

「お姉さん、お久しぶりです」

「いや~ん、つくしちゃ~ん♥ 元気にしてた~?」

 ぎゅう、と抱き締められ、つくしはその胸に顔を押し付けられる。息ができなくなって椿の身体を叩くと、ようやく解放してくれた。
 杏とマルクは椿の登場に、そそくさと室内から出ていく。つくしの執務室に椿が来たときは席を外すよう、教育されている。

「総二郎の結婚式の招待状、貰った? 相手は、つくしちゃんの親友なんでしょう?」

「そうなんですっ」

 椿の言葉に、つくしはぱぁっと花が開いたように笑みを浮かべた。

「優紀、ずっと西門さんのことが好きで。西門さんが優紀を受け入れてくれたことが、本当に嬉しくって」

 自分のことのように喜んで涙を浮かべるつくしの頭を、椿がよしよしと撫でてくれる。

「もちろん、出席するでしょう?」

「……え」

 笑顔でそう問われ、つくしは固まった。椿のそれは、当然、出席すると思っての言葉だ。
 けれどつくしにはまだ、心の準備ができていなかった。いつになればできるのかは不明だが、たかだか一年で司の傷が癒えるとは到底思えない。まだ、二人の前に現れるわけにはいかないのだ。

 それに、先日あきらに言われた言葉が頭から離れない。

 類が親友である総二郎の結婚式に、婚約者である芹香を連れてこないなんて、どうしてわかる? 連れてこない、かもしれない。けれどもし連れてきていたら、二人が一緒に並んでいるところを見なくてはならない。
 類は、婚約なんてしないと言ってくれた。けれど、その言葉を反故にするようにいなくなったのはつくしだ。つくしが急に姿を消して、そのあとに婚約した類を今更、嘘吐きと罵れるはずもない。

 表情を曇らせたつくしに、椿がまた、頭を撫でてくる。

「あのね、つくしちゃん。つくしちゃんがここにいる間は、決意なんてできないわよ」

「……」

 椿の言葉に、そうかもしれないと素直に思う。
 つくしは類と司から逃げるように、ここへ来た。時間が経てば経つほど、二人に会いにくくなるのは当然だ。なにかきっかけでもないと、日本へ戻る気にはなれない。

 今回の総二郎と優紀の結婚式は、そのいいきっかけになるのではないだろうか。

「司と類に会えってわけじゃないの。ただ一度、日本へ戻って日本の空気を吸って、やっぱりこっちが落ち着くなら、戻ってきても構わないのよ」

 つくしのことを気にかけてくれる椿に、本当に申し訳ない。
 日本から逃げるようにロシアの地に足を踏み入れて、日本にはいつ戻っても構わないと。ここには杏がいるから、経営云々の話ならなにも現地でする必要もない。手紙なりメールなり電話なり、いくらでも手段はある。

 類の隣に芹香が笑っているかもしれないと思うと眩暈がしそうではあるが、そんな感情だけで、人生の節目と言われる結婚式に出席しないなんて親友としてどうかと思う。ましてやつくしは、ロシアに来てから優紀に一切連絡を取っていない。優紀がつくしを心配していないわけはないのに。

 逃げるのは、らしくない。つくしは、どういう植物だ? 踏まれても踏まれても立ち上がる、そんな強い雑草なのに。今のつくしは、完全に名前負けしているじゃないか。

 類のことも司もことも大事で、会えばどうすればわからないから今まで逃げていた。けれど、それを終わりにしてもいいのかもしれない。
 たとえ類の隣に誰がいても、逃げたのはつくしなのだから、どうこう言えるわけがない。

 つくしは腹を括り、椿をまっすぐに見つめた。

「お姉さん。私、一度日本へ帰ります」

 はっきりと言葉に出せば、同時に涙がこぼれた。
 ああ、つくしはこんなにも、日本に焦がれていたのだ。帰りたくても帰れない、戻りたくても戻れない日本に。

 日本へ帰って、優紀の結婚式を見て、それからまたロシアに帰ってこよう。ここは、傷ついたつくしを癒してくれた、大切な場所だ。誰も、つくしからここを取り上げたりはしない。

 類に会って、ちゃんとおめでとうって言えるよう、今から心を入れ替えよう。グジグジ逃げていたって、つくしはなにも変わらなかった。
 だったらここらへんで、ちゃんと類への気持ちに終止符を打ってもいいのかもしれない。前に進むために。

 つくしは椿の前だからと、涙を我慢することはしなかった。椿もそれがわかったのか、静かにつくしの頭を撫でてくれる。

「怖かったら結婚式に出席しなくても、同じ空気を吸ってくるだけでもいいわ。頑張りましょう」

 当日は私も行くから、と椿の声が耳に届く。

 椿に、あきらに、みんなに支えられている自分は一体なにさまなのだろうかと叱責したくなる。

 司と婚約中でありながら類を好きになってしまい……、いや違う。
 司よりも類が大事だと気付いてしまった。

 類は、つくしを受け入れてくれた。それなのにつくしは、司と類が仲違いをするところを見たくないから逃げたのだ。自分を守るために。親友になにも告げることなく。

 なんて情けない人間なんだろうと思う。
 自分だけではすぐに見つかってしまうから、椿を頼り、こうして一年も姿をくらまして、それでもまだ待っていてほしいと願ってしまう。
 こんなにも自分勝手で我儘な人間なんだと、今初めて思い知った。



 つくしが一度日本へ帰省することは、椿の口から全社員へ伝えられた。
 つくしはロシアへ戻ってくるつもりではあるが、椿から念のためと身辺整理をするように言われ、結婚式までの半年間でそれをしてから日本へ行くことを決めた。とはいうものの、今までも杏と連携して業務を行っていたため、業務に関する引継ぎ等は殆ど必要ない。

「ツクシ……」

 いつものようにデスクに向かって数字を見ていると、マルクが肩を落として声をかけてくる。

「なに?」

「……」

 つくしが手を止めてマルクを見るが、マルクはなにも言わない。訝しんでみていると、言いたいことをまとめていたのが整理がついたらしく、ツクシ、ともう一度名前を呼んでくる。

『僕、ツクシ、好き。愛してる。日本、行かないで』

 つくしに伝わりやすい単語で、懸命にそう訴えてくるマルクに心が絆されそうになる。
 ここにもまたつくしを必要としてくれる人がいることが、素直にありがたいと思った。

 つくしは立ち上がり、マルクの両手を自身の両手で包むと、ありがとう、と感謝の言葉を述べた。

「私、日本に好きな人がいるの。だから、マルクの気持ちには応えられない」

 ごめんね、としゃべれないロシア語を無理に使わずゆっくりと日本語でそう言葉にする。ちゃんと伝わったかはわからないが、マルクの表情は沈んだままなので恐らくつくしの気持ちは伝わったのではないかと思う。

 ロシアに来てからずっとつくしを支えてくれたマルクに、情がないわけではない。
 どんなに離れていても、心は常に類のそばにある。忘れたいのに、なかなか忘れさせてなんてくれない。こんなにも心に住み着いて離れないのは、類以外にいないのだ。
 たとえ、今はもう誰かの婚約者だったとしても。

『……ツクシ、帰ってくる?』

『うん、そのつもり』

 その言葉に安心したのか、マルクは沈んでいた表情を少しだけ浮上させると、つくしに抱きついてきた。

『愛してる』

『……ありがとう』

 マルクの気持ちが、温かい。
 日本で傷ついて帰ってきても、こうして迎えてくれる誰かがいるのなら頑張れるかもしれない。

 これからの半年は、つくしが思うよりもずっと早く過ぎるだろう。
 日本へ滞在するのもあっという間に過ぎてしまえば、今こうして悩んでいるのも馬鹿みたいに思えてくる。

 マルクの体温を感じながら、つくしは窓から空を眺める。
 この広い空の下のどこかにいる類への気持ちに、ちゃんと終止符を付けて帰ってこよう。そうすればつくしも、前を向ける。

 類への想いに、決着をつける。ずっと逃げていたはずなのに、いざそのときが近づいてきたら思いのほか気持ちはすっきりしていた。
 どうしてもっと早く行動に移せなかったのかといえば、移す気がなくて逃げていただけなのだと思い、自嘲気味に笑いがこぼれる。
 急に笑い出したつくしにマルクは不思議そうな顔をしていたが、なんでもないよ、と言えば、またつくしにその身を寄せてきた。

 マルクをそういうふうに見ることはできないけれど、つくしに思いを寄せてくれるマルクを前向きに考えてみてもいいのかもしれない。
 つくしは澄み切った青空に、そういう未来も少なからず選ぶことができるのだと思った。
 マルクとともに歩く未来なんて、今はまだ全然想像もできないけれど。