花より男子/シロツメクサ(30)


 優紀と総二郎の結婚式は、有名な格式のある神社だった。さすがに西門の跡取りとしては、そこまで簡易的な式にはできないのだろう。遠目からでも、優紀に疲れが見え隠れしているのがわかる。それでも優紀に気を遣ってか、幾分、招待客が少なく感じる。

(頑張って)

 本当に遠くから、つくしはそう応援していた。

 結局、結婚式に出席するともなにも返事をしないままつくしは日本に帰国し、結婚式に向かった。当然、そんなつくしのために席が用意されているとは思えず、椿に頼み込んで従業員に扮装させてもらい、後ろの方から親友の姿を眺めている。ちゃんと参列できれば尚よかっただろうが、今この場にいれるだけでも、つくしは幸せだった。

 つつがなく式は進み、総二郎と優紀が退場していく。背筋をぴんと伸ばして総二郎の隣を歩く優紀は、誰がみても西門の跡取りの相手に相応しい女性だ。決して、つくしの色眼鏡ではないと思う。

 はらりと涙がこぼれ、つくしはポケットからハンカチを取り出した。あんなに堂々と歩けるなんて、きっと苦労しただろうなと思う。つくしもその昔、歩き方を訓練したのを思い出した。だいぶ昔のことだ。懐かしい。

 涙を拭って、つくしはまた優紀を見る。正面からちゃんと見れないのは残念だが、十分だ。優紀が貼り付けている笑顔が本物かそうじゃないかくらいはさすがにわかる。優紀は今、幸せなのだ。

 ふと、残された参列者の中にひと際目立つ一角を見つけ、つくしは少しだけ壁に身を寄せた。

 少し、大人になっただろうか。穏やかな表情で隣の類と喋る司がいる。類は、髪を伸ばしているようだ。後ろで一つに結んでいる。その隣には……。
 つくしは胸の前で、ぎゅっと手を握った。

 頭の中にあきらの言葉が思い出され、きつく目を瞑る。ちゃんと祝福しようと思って、ここまで来たのに。頭を振って、前を見る。類と、その隣にいる芹香を。
 声を出さずに、おめでとうと口を動かしてみる。瞬間、唇を噛んだ。泣きたくないのに、類が滲んでくる。しっかりと目に焼きつけて、現実を思い知れ。これは、他でもないつくしが招いた結果なのだ。

 手が、震える。カチカチと歯がぶつかる音が耳に触って、固く目を閉じた。
 ふーと身体中の酸素を出すように、息を吐く。ゆっくりと視界を明るくして、もう一度、おめでとうと口を動かした。今度は、涙は出なかった。

◇ ◇ ◇


 つくしは、先ほどまで優紀が立っていたところに静かに佇んでいた。ちらり、誰もいない隣へ視線を送ってから前を向く。普段は決して足を踏み入れることなどできないこの場所に立てるのは、椿のおかげだ。類たちに見つからないよう話をしたときに、許可をもらってくれた。

 目を閉じて、優紀と総二郎の式を思い出す。そうして目を閉じたまま、つくしは優紀と総二郎を自分と類に置き換えた。自分でそうしておいてなんだか恥ずかしくなるが、今しかできないことだからと頬を赤らめて、ゆっくりと目を開ける。
 斎主の言葉と優紀がしていたことを思い出して、そのとおりに動いてみる。頭を下げて、目の前にはちゃんと盃があるように手でお椀を作ってみる。それを飲む真似をしてから、じっと目の前の祭壇を見つめた。

「私は、花沢類を愛しています」

 今も昔も、変わらず。これからも、きっと愛し続ける。

 誰もいない空間に、神さまにだけ向かってつくしは言葉を発する。そうすることで、モヤモヤしていた気持ちが晴れていった。
 司と付き合っても類と離れても変わらなかったこの想いは、これからも変わることはない。だから心の奥深くに沈めて、蓋をしてロシアへ帰ろう。

 つくしは首の後ろに手をやってネックレスを外すと、指輪を手に取った。掌にぎゅっと握り締め、開いてからそれに口付けを落とす。
 この指輪は、つくしがもう持っていてはいけないものだと、類と芹香を見て思った。

 本来なら玉串が置かれるそこへ、そっと指輪を置く。誰かが見つけて、処分してくれるとありがたい。つくしには、処分することなんてできないから。

 つらいとき、この指輪がつくしを支えてくれた。泣きたいとき、この指輪を見れば、類が慰めてくれる気がした。
 この指輪はいつだって、つくしに勇気をくれた。だから、最後までつくしに勇気をくれてほしい。この指輪を手放す、勇気を。



「――やっぱり、あんたが持ってたんだね」

 そっと、つくしが置いた指輪の隣に、揃いの指輪が並べられた。嘘でしょ、とつくしは目を瞠る。

「探しても見つからないから、きっと持ってるんだと思ってた」

「……っ」

 ビー玉の瞳に慌てて逃げ出そうとすれば、手を引かれて、そのまま類の腕の中に捕らわれた。

「やっと、捕まえた」

「……」

 言葉が出ずに、愕然とする。誰もいないのを確認して、入ってきたのに。結婚披露宴の最中だからと油断していた。
 よりによって、類に見つかってしまうなんて。

「俺も、牧野を愛してる。だから、誓いの詞だけ置いて、逃げたりしないで」

 ひとりごとのように呟いた言葉をしっかり聞かれていたのだと恥ずかしくなる。聞かれたくなかった。一生、言うつもりもなかったのに。

 つくしは大きく息を吐き出すと、笑顔を貼り付けた。大丈夫、言える。自分に言い聞かせて、つくしを捕まえている類の腕を、ぽん、と叩いてみる。

「逃げないから、これ、外して」

 類は言われるまま、ゆっくりと腕の力を緩めた。ふぅ、と息を吐いて振り返ると、つくしは大好きなビー玉の瞳を見る。

「……久しぶり」

「うん」

 つくしの言葉にオウム返しをするでもなくただ頷く類。ああ、好きだなぁ。ふんわりとした心地をくれるこの人の独特の空気は、芹香と婚約しても変わらず健在のようだ。

「急に、びっくりした。どうしてここにいるってわかったの?」

「司の姉ちゃんが、教えてくれた」

「お姉さんが……」

 ちゃんと決着をつけてこいということなのだろう。椿の判断に、文句は言えない。

 つくしは言葉を探しながら、類を見る。類は落ち着いた表情で、つくしを見つめている。

「指輪、持って行っちゃってごめん。ずっと、お守りにしてたの」

「もういらないの?」

「……だって、私が持ってたら、だめでしょう?」

 理由を言わせないでと唇を噛む。つくしの思いに反して浮かんできた涙を見られまいと、さっと下を向けば、そうだね、という類の納得した言葉が聞こえ、頭をハンマーで叩かれたような衝撃がつくしを襲った。瞬間、ぼろりと大粒の涙がこぼれる。

「代わりに、これを持ってて」

 言いながら類はつくしの手を取って、あろうことか、つくしの左手の薬指にいつかのようにつくしにぴったりの指輪を嵌めた。冗談じゃない、と顔を上げれば、ふわりと類の香りとともに唇に柔らかく押しつけられるものがあって、目を丸くする。一年前と変わらない類の唇を、つくしはまだ覚えている。いや、思い出さされた。

「俺のは、返してもらうね」

「……」

 つくしにはもう、類がなにを考えているのかわからなかった。考えたくても、思考がまとまらない。考えることを放棄するようにぼろぼろと涙が溢れてきて、つくしの顔をぐしゃぐしゃにする。

「……ッ」

 言葉を発しようとするが、涙がそれを邪魔してできない。そんなつくしを、類が優しく抱きしめてくれる。赤子をあやすように背中を擦って、心地よい体温をつくしに分け与えてくれる。

 けれど今、類がそれをしていい相手は、つくしではない。

 はっと思い出したように、つくしは両手を伸ばして類の胸を押す。そうして類と距離を取ったあとで顔を伏せ、涙をごしごしと拭った。

「俺に触れられるのは、嫌?」

「わ、私じゃなくて、それは、そっちのほうでしょ!?」

「……?」

 類は首をこてんと傾げて、つくしを見る。類がつくしを見る目は昔と変わらず、穏やかだ。

「キスは、好きな人としなきゃって、前、言ったじゃんっ」

 いつだったかそう類に言ったことを思い出して言えば、類は不思議そうに笑った。

「俺がキスしたくなるのは、いつだって牧野だけだよ。俺は、牧野が好きだから」

「だって、芹香さんがいるのに!」

「うん?」

「――…ッ」

 ああもう、と文句を言ってやりたい。なんだってこんなに、話が通じないのだろう。そんなにはっきり言わないと、わからないのだろうか。

 つくしは大きく息を吸うと、類に背を向けた。

「芹香さんと婚約したって聞いた。それなのに、だめだよ。私に……キスしたら」

 言いながら、声が震えているのがわかった。言いたくないことをここまで言わせるなんて、類はここまで意地悪な人間だっただろうか。それとも、つくしがそうさせてしまっているのか。
 これから先離れて暮らすのだから、別にどちらでも構わない。今日を乗り越えれば、明日からはまた類がいない生活が始まる。

 じゃあね、と振り返ることなく立ち去ろうとしたつくしの腕を掴み、類が引き寄せた。そうしてつくしの耳元に唇を寄せる。

「橘芹香と婚約したのは、あきらだよ」

「……え?」

 思ってもみなかった台詞に、つくしの思考が止まった。
 だって、あきらが教えてくれたのに。芹香が婚約したと。

 あきらの言葉を思い返して、ふと考える。そういえばあきらは、『誰が』とは言わなかったかもしれない。

「俺との婚約が白紙になったあと、二人で食事をするようになって。そのまま流れで、そういうことになったらしいよ」

 俺には考えられないけど、と昔を思い出してか渋い顔をしながら、類が言う。

 つくしがいなかった一年の間にあった変化は、どうやら優紀と総二郎だけではなかったらしい。あきらもまた、相手を見つけて婚約していた。その相手が、類の元婚約者である芹香だとは思いもしなかったけれど。

 どうにもつくしは、思い違いをしていたようだ。
 足が震えて倒れそうになると、類が一緒にその場に座り込んでつくしの背中を支えてくれた。

 類はつくしの背中から、左手を取って薬指に嵌められている指輪を見ると、くす、と笑んだ。

「俺が好きなのは、牧野だけ。あんたとの約束を、俺は守ってるよ」

「……やく、そく?」

 うん、と頷いて、類はつくしの左手を口元に寄せると、そっとそこへ口付けた。

「婚約なんてしないでって、言ったよね」

「……」

 確かに、言った覚えはある。けれどその直後つくしは逃げてしまったのだから、そんな約束なんて無効になっていると思っていた。それに、その場の勢いで言ってくれただけだと。律儀にそれを守ってくれたなんて、思ってもみなかった。

 驚きで止まっていたはずの涙が、またぼろぼろと溢れてくる。一年間、一体つくしはなにをしていたのだろう。類はずっとつくしを待ってくれていたのに、勝手に逃げていなくなって。ちゃんと話をすれば、司だってわかってくれたはずなのに。

 でも今ここに、類がいるということは、もしかしたらそういうことなのかもしれない。椿が類にだけつくしの所在を教えたのかはわからないけれど、司ではなく類が来たということは、司も類とつくしとのことを認めてくれているからなのだろう。
 親友の結婚披露宴を抜け出して、不思議に思わないわけがない。

 ずっと、忘れようと思っていた。忘れられない想いに蓋をして、ロシアに帰ろうと思っていた。
 けれどそんな必要なんて、なかったようだ。

「牧野」

 後ろから類の手が伸びてきて、つくしを振り向かせる。
 類の、つくしを呼ぶ声が好きで。つくしを見つめる目に焦がれて。コーヒーの湯気のように温かい存在に、癒されて。
 これから先もその温もりのそばにいられることが、なによりも幸せで。

 涙で濡れた唇に触れるだけのキスをすると、しょっぱい、と言って類は笑った。


花より男子/シロツメクサ■END