花より男子/シロツメクサ(28)


「ん、ぁ……っ」

 はあ、と息を吐きながら総二郎にしがみつけば、笑んでキスが降ってくる。それが嬉しくて、優紀はもっととせがむように、総二郎の名前を呼んだ。

「そ……じろ、さ……」

 切れる言葉にも、総二郎は意図を理解してくれ、ちゅっとわざを音をたてながら、優紀の唇や首筋、胸元にキスを降らしてくれる。そうしてときどき、ピリと痛みを走らせては、愛の証がそこにあるように跡を残し、優紀の涙腺を緩ませていく。

 総二郎は基本、キスマークなんて絶対に付けない。実際、優紀も今まで、そんなもの、付けられたりはしなかった。
 それを知っているから、優紀は総二郎がくれるキスマークが涙が出るほどに嬉しいのだ。

 総二郎にとって、それはまるで一種の決意のようで。その決意の先に自分の存在があるということが、なによりも喜ばしいのである。

 一からすべてを学ばなければならない現実は、正直、優紀にはつらい。けれど総二郎がそこにいなくても、このキスマークを見れば頑張れる気がした。

「優紀ちゃん」

 耳元で総二郎の声がして、ぞくり、背筋に走るものを感じる。声だけで人を感じさせるなんて、一体、どんな特殊能力だろう。

 優紀はきっと、一生総二郎には敵わない。
 でも、それでいいのかもしれない。

 絡ませている手に、一瞬だけ総二郎が力を入れて優紀の中で果てたと同時、なだれ込むように優紀に覆い被さってくる。
 総二郎の荒い呼吸と同じように優紀も短く息を吐き出して、ふと、いつもとは違うことに気が付いた。

「……総二郎さん」

「……なに?」

 低く響く声にぞくりとしながらも、優紀は疑問に思ったことを口に出す。

「今日、着けました?」

「……」

「総二郎さん?」

「……」

 なにも言わない総二郎に、優紀は蒼くなる。

 待って待って、生理きたの、いつだった!?
 避妊もしないで中に出したら、子供ができてしまうかもしれないなんて、そんなの、知らないはずないのに……!

「総二郎、さん……」

「……」

 そう。総二郎が、そんな初歩的なことを知らないはずがない。ましてやいつもが、完璧な人だから、尚更。

「優紀ちゃんが、悪い」

「ええ!?」

 いきなり責任転嫁!? と文句を言いそうになって総二郎を見れば、少しだけ不貞腐れた表情で軽くキスを落として、優紀と繋がったままぎゅっとその腕に抱き締めてくる。
 こんな総二郎は、知らない。

 どうして、と不安そうに見るも、総二郎は優紀の髪に顔を隠したまま、優紀を見ようとはしない。

「無責任に、こんなことしないから。俺の行動を、自信に変えて。俺の奥さんは、優紀ちゃんだけなんだって」

 ちゃんと、自覚して。

 呆然と総二郎の頭を見つめていると、サラサラな黒髪の隙間からわずかに覗いた耳が、真っ赤になっているのが見えた。

 総二郎は、面倒なことが嫌いだから。優紀が我儘を言ったら嫌がられるのはわかっていたけれど、耐えきれなくて漏らした言葉を、ちゃんと受け止めてくれていた。
 優紀との結婚を決めた瞬間から、総二郎には優紀だけだった。それに気付かずに、一人で不安になって、苦しくなって、泣いて、困らせて。

 だから、一人でも頑張れるように、その『跡』をつけてくれたのだ。
 優紀の肌だけでなく、内側にまで。

「……っ」

 不器用な人。けれどその優しさは、十分、優紀に伝わった。

「また泣くの?」

 ため息交じりの声が聞こえ、優紀は、ぶんぶんと首を振り、ぎゅっと思い切り総二郎にしがみ付く。

「これは、嬉し涙だから、いいんです」

 ありがとうございます、と涙をはたはたとこぼしながら、優紀は総二郎にそう訴える。
 大丈夫、頑張れる。総二郎がくれたものを、ちゃんと受け止めて、頑張っていける。

 優紀は改めて、総二郎の婚約者という立場にあること、また、妻になる立場にあるのだと実感し、それを心地いいと思った。
 千鶴子に厳しく言われても、こうして総二郎が甘やかしてくれれば、すべて払拭される。そうやってバランスを保ちながら、西門の嫁としての立ち居振る舞いを学んでいければ、いいのかもしれない。

 今日のことで、子供ができてもできなくても、どうせ優紀は総二郎から離れるつもりはないのだから、だったらしっかり、総二郎の妻として、恥じない程度の作法は覚えよう。

「総二郎さん」

 優紀が呼べば、ん? と笑顔で返してくれる。

 優紀が欲しかったものは、自分に向けてくれる、この笑顔だ。

 ――優紀ちゃんから俺に迫ってみるとか。

 ふと、そんな言葉を思い出し、優紀がゆっくりと触れるだけのキスをすれば、総二郎は優しく、それを受け入れてくれたのだった。

◇ ◇ ◇


「ふーん。いいね、幸せそうで」

 類はそう言って渋い表情をする。おまえなぁ、と総二郎が文句を言おうとすれば、嘘、とあどけない笑みを浮かべた。

「おめでとう。幸せにね」

「……サンキュ」

 照れ臭そうに、総二郎は俯いて頭を掻いた。

 伸ばし伸ばしになっていた結婚式披露宴の日取りがようやく本決まりし、早速作った招待状を渡した総二郎は、安堵の息を吐いた。祝福してくれるだろうと思っていた親友が、まさか不貞腐れるとは思ってもみなかったので、少し焦りはしたが。

「牧野から、音沙汰ねぇの?」

「全然。一体、どこで生きてるんだろうねぇ」

 呆れたように言いながら、類は首にかけているチェーンを指に引っかけて、トップを目の前に持ってくる。勝手にペアで作り、誕生日プレゼントにと渡したそれが、今は類の手元にある。類のものが手元にないのは、きっとつくしが持って行ったからだと信じたい。部屋中、どこを探しても、類のものは見つからなかった。

 つくしが類の前から姿を消して、一年が経とうとしていた。それらしい情報もなく、時間だけが過ぎていく。
 一度、ロシアにそれらしい人物がいるとの情報を掴んだのだが、日本人の女性というだけでまったくの別人だった。

「司も捜してるんだろ? それで見つからないってところが、怪しいよな。誰か匿ってんじゃねぇの?」

「誰かって?」

「……あきらとか?」

 不意に話を振られて、あきらはぎくっとその身を固くする。つくしの話題については触れないよう、己の存在を消していたのに。
 身に覚えがありすぎて、動揺してしまったのがばれなかったのは幸いかもしれない。

「なんで俺なんだよ」

『一番無難そうだから』

 類と総二郎が、声を揃える。

 つくしが類と司から逃げたいと手を借りるとすれば、あきらしかいないと思った。総二郎は無理だ。絶対に首根っこ捕まえて、すぐに類と司の前に差し出すだろう。
 けれどあきらは優しいから、つくしが逃げたいと言えば、手を貸してくれる。そうして誰の目にも届かないよう、匿ってくれるだろう。

「あいにく、俺も知らねぇよ」

 知ってたらとっくに言ってる、と嘘を付け加える。
 つくしのいるロシアに類が訪れたときは、さすがに焦った。予め替え玉を用意していたので事なきを得たが、これでつくしの所在がばれてしまっては、元も子もない。心の準備ができていないつくしが類と司の前に出ていったとしても、また同じことを繰り返すだけだ。

「そういえば、あきら、今橘芹香と付き合ってるって?」

 本当か、という総二郎の言葉に、類は目を丸くした。嘘でしょ、と言葉は出ていないが、顔が言っている。

「何度か一緒に食事しただけだろ。なんでそうなるんだよ?」

「うちの使用人が、そんな話をしてるのを聞いたんだって。すげー興奮して、聞いてきたから」

 あきらかにそこに第三者が介入している口振りに、誰がだよ、と突っ込みたくなるが、きっと優紀なのだろう。
 優紀と婚約してから、総二郎は優紀の呼び方を変えている風だった。本人の前では言えているのだろうが、あきらたちの前ではまだ照れ臭いのだろう。固有名詞を出すことなく、会話を成り立たせようとする。それを汲んであげるのも、親友の役目なのだろう。

「一緒に食事ができるのが、すごいよ」

 俺には絶対無理だから。言葉には出さずとも、顔でそう表現できるのは素晴らしい類の長所だと思う。言葉には出ていないから、相手を直接傷つけることはない。あくまでも、勝手に類の表情から想像して、そう言われている気がするだけなのだから。

「あいつは、すげー類に執着してたから、ちょっと行きすぎたところがあっただけで、本質は悪い人間じゃねーよ」

 だから、そこまで邪険にしてくれないでほしい。あれだけ好きだった類にそこまで嫌われているとしたら、さすがに同情する。
 まぁ、あそこまで類に嫌われる行動を取っていた芹香にも責任がないわけではない。類も、まだ忘れることはできないのだろう。

「……あれをちょっとで片付けられるあきらは、やっぱり優しいとしか言いようがないね」

 類は大きな瞳を更に大きくして、感心したようにそうこぼした。

◇ ◇ ◇


 コンコンとドアをノックする音が聞こえて、つくしはどうぞの意味を込めて、はい、と返事をした。カチャ、とドアを開けて入ってきたのは、つくしの補佐をしてくれているマルクだ。

『手紙。日本から』

『ありがとう』

 だいぶ話せるようになったとはいえ、まだ流暢に話すことのできないつくしに、マルクはわかりやすく単語で話してくれる。仕事の話をするときには通訳をしてくれる女性がいるのだが、今は席を外している。緊急時にはつくしの代理を務めてくれる、優秀な女性だ。

 マルクから渡された封筒には差出人は載ってないが、封が切られている。ちらりとマルクを見ると、確認した、と言わんばかりに頷かれた。

『危険なもの、よくない』

『わかってる』

 つくしがロシアへ来た頃、差出人不明の手紙の中に、剃刀が入っていたことがあった。日本人を好かないロシア人からのもので、それは暗につくしに日本へ帰れと言っていた。
 もちろん、そんなことでつくしがへこたれるわけがない。嫌がらせを糧に伸びるのが、つくしである。

 だがその一件があってから、差出人のない手紙は一度マルクが開封してからつくしの手に渡るようになった。何度かマルクの手に包帯が巻かれていたことがあるので、差出人不明の素敵な手紙は一度や二度ではなかったのかもしれない。

「!」

 真っ白な封筒から出てきたのは、一回り小さいサイズのピンクの封筒だった。こちらには差出人の名前がある。
 つくしは、震える指で差出人の名前をなぞる。よかったね、と心からそう思う。

 手紙は、総二郎と優紀の結婚式の招待状だった。

 招待状を胸に、ぎゅっと愛おしそうに抱き締めると、ツクシ、とマルクに呼ばれて顔を上げる。ふわっと唇に触れたマルクのそれに、つくしは目を丸くした。

『ツクシ、行かない』

「え?」

『消える、嫌』

「……」

 不安そうな面持ちで、マルクはつくしを抱き寄せた。つくしが、どこかへ行ってしまうと思ったのだろう。
 だがあいにく、つくしにはここ以外に身を寄せるところがない。日本に家族はいるが、元気でやっていることはあきらが教えてくれる。会いたくないわけではないが、類と司から逃げるように日本を離れたつくしが、おいそれと日本に帰れるはずもない。

『大丈夫』

 つくしは抱き付いてきたマルクの肩を、ぽんと叩く。

『ここにいる』

 そう言って微笑めば、マルクはまた、触れるだけのキスをつくしに送った。
 マルクはよくつくしに近すぎるスキンシップを図ってくるが、つくしはそれが苦手だった。というよりも、慣れない。外国の文化でキスはあいさつなのかもしれないが、つくしは日本人だ。やめてくれと言ってもなかなかやめてくれないマルクからのキスは、諦めることにした。これは、キスじゃない。つくしの知っている、愛情のキスは。
 思い出し、つくしはそっと自分の唇に指を触れる。

 会いたいけれど、会えない。そばにいたいけれど、いれない。
 つくしの身体は、もう類の熱を忘れてしまった。忘れないと、とてもじゃないが立っていることもできなかったから。

 知らずにこぼれていた涙を、ペロリとマルクが舐める。猫みたいだなと思いながら、つくしが擦り寄ってくるマルクの頭を撫でたとき、デスクに置いてある電話が鳴り響いた。ちっと舌打ちをし、マルクが受話器を上げる。

『はい。……わかった、繋いで』

 ツクシ、とマルクがつくしへ受話器を向ける。仕事モードに気持ちを切り替えると、電話口から穏やかな声が聞こえてきた。

『招待状、届いたか?』

 あきらの声に、つくしはまた気持ちをオフにする。慣れ親しんだ日本語に、心が和む。

「いきなりだったから、びっくりした。西門さんも、とうとう観念したんだね」

 くすくすと笑いながら言えば、あきらも電話の向こうでつくしと同じように笑う声が聞こえた。

『飛行機のチケットも、入ってただろ?』

「ああ、うん……」

 ピンクの封筒に添えられるように入っていたのは、あきらの言うそれだった。結婚式の、前日の。

 もちろん、行きたい気持ちはある。行って、ちゃんと祝福してあげたい。けれどそうなると、必然的に遠ざけている人物に会うことにもなってしまう。
 親友の結婚式に、来ないわけはない。

 あとな、と言いづらそうに口籠りながら、あきらが衝撃の言葉を口にする。

『婚約したんだ、橘芹香と』

「――…え?」

 頭を、なにかに割られたような気がした。

 久しぶりに聞いた、その名前。もちろん、忘れるわけがない。類の、婚約者の名前だ。
 どくんどくんと心臓が激しく動く。

 この一年、何度も忘れようと思った。類とのあの幻の一夜を心に秘め、すべてをなかったことにできたら、と。
 忘れたふりをすることで、つくしは雑念を払って仕事に没頭してきた。それなのに。

 あきらの、たったひと言で。こんなにも、つくしを動揺させる。まるで昨日のことのように、類との熱を思い出させる。

 つくしは胸元に潜ませている類との思い出を、ぎゅっと握り締めた。チェーンに通した、類の指輪。
 とっくに婚約したものと思っていたのに、どうして今更。今になって、つくしに思い出させるのだろう。

『聞いてるか?』

 牧野、とつくしを呼ぶあきらの声に応えようとすると、いきなり、マルクがつくしにキスを迫ってきた。両手でつくしの頬を掴み、いつものフランクなキスとは違う濃厚なそれに、つくしは目を見開いた。

「……っ!?」

 マルクの胸を押しやろうとするが、男の力には敵わない。こんなのは嫌なのに、抵抗しても無理だと言わんばかりに、マルクは右手でつくしの両手首を握る。
 それでも暴れ続けていると、ようやく、マルクは離れてくれた。マルクとつくしの唇の間に繋がれた糸を断ち切るように、ぱんっと乾いた音が室内に響く。

『出て行って』

 それだけ言うのが、精一杯だった。怒りか恐怖かで震える身体を悟られまいと、つくしはマルクに背を向ける。顔も見たくない。マルクの頬を叩いた右手が、じんじんと痛む。ぐっと握ると、ツクシ、と打って変わって労るような声音で、マルクがつくしの肩に頭を寄せた。

『ツクシがどこかへ行ってしまいそうな気がして、急に怖くなったんだ。ごめん。愛してるから、嫌いにならないで』

「……」

 よほど焦っているのか、いつもの片言でないそれを、どうして聞き取れてしまったのかわからない。耳がロシア語に慣れてしまったのなら、残念だ。聞き取りたくはなかった。

『ごめん、出て行って』

『……』

 つくしの背中で震えるマルクに、それでも冷たく言い放つ。マルクは名残惜しそうにつくしから離れると、静かに部屋から出て行った。

 マルクが出て行った瞬間、どっと疲れが押し寄せてきて、つくしはその場にしゃがみ込んだ。マルクに好かれているとは思っていたが、まさか友情以上の感情があるとは思わなかった。
 つくしに、もう誰かを好きになる資格なんてありはしないのに。