花より男子/シロツメクサ(27)


「にし、か……っ、んっ……」

「黙って」

 優紀に喋る隙を与えないように、総二郎は休む間もなく優紀の身体に触れていた。
 総二郎が動く度に、優紀の意識が飛びそうになる。けれど意識を失いかけると、総二郎に声をかけられて。

 何度も身体を重ねてきたけれど、こんなに乱暴に抱かれたことは一度もなかった。

 やがて優紀を抱くことに満足したのか、疲れたのかはわからないけれど、ぐたっとベッドに寝そべる優紀の隣に同じように総二郎も横になった。今までの行為が嘘のように優しく、躊躇うように優紀の髪に触れてくる。
 閉じていた目を開ければ、申し訳なさそうな表情で優紀を見つめる総二郎の顔が映った。

「……大丈夫ですか?」

「それは、俺の台詞じゃない?」

 優紀の言葉に、ふ、と総二郎が口元を綻ばせる。
 こんなにめちゃくちゃに抱いてしまったのに、総二郎を気にする理由がよくわからなくて。
 ただ、どんなときでも総二郎のことを気にかけてくれるのだと思ったら、尚更優紀のことが愛おしく感じられた。

「なんだか……、いつもと違って。泣きたい気持ちを、吐き出してるんじゃないかって思って」

 言われ、優紀の髪を撫でていた総二郎の手が止まる。思わず、目を大きく見開いた。

(泣きたい? 誰が? 俺が?)

 言葉の意味はわかるのに、理解できなくて。動揺を隠せず、総二郎は言葉を詰まらせた。

 そんな総二郎に、優紀も口にしてはいけないことだったのかもしれないと眉根を寄せた。触れてはいけなかった部分なのかもしれない。こんな風に、動揺させようと思ったわけではなかったのに。

「あ、あの……。ご、ごめんなさい……」

 蒼くなって、優紀は一言謝罪する。そうして身体を起こしても、総二郎は変わらずベッドに身体を横たえたままで。
 優紀の髪に触れていた手が、はたりとベッドに音もなく落とされる。
 これは、たぶん。

「あたし、帰ります」

 一緒にいたくないのかもしれない。優紀を捕まえないというのは、そういうことだろう。
 そばにいてほしいとき、総二郎は優紀を腕の中に捕らえたまま放そうとはしないから。

(なんだか久しぶりに、泣きそう)

 だが総二郎の前では、絶対に涙を流すことはできない。そういう優紀を、総二郎は好きではないから。

 呆けたままの総二郎を見ないように、優紀はそっとベッドから抜け出る。そうして床に散らばった衣類の中からブラジャーを手にし、腕を通す。背中のホックを掛けようとするが、手が震えて上手く引っかかってくれない。
 自分でも思っている以上に、総二郎を怒らせてしまったかもしれないという恐怖に優紀は襲われていた。

 何度か挑戦していると、後ろから優紀の手に添えるように温もりを感じ。言わずともそれが総二郎だとわかり、温かいはずの総二郎の手に何故か優紀は背筋が冷たくなるのを感じていた。

「……泣きたい、とは、少し違うかもしれない」

「え?」

 ぽつり、呟きながら、総二郎の手がそのまま優紀の胸へと滑ってきて、首筋に総二郎の唇を感じたと同時、優紀は抜け出たばかりのベッドへと引き戻された。

 そうしてまた、優紀がなにも言わないのをいいことにがむしゃらに優紀の身体を貪ったあとで、もう無理、と優紀が気を失ったことで総二郎も我に返り。やりすぎたなと反省しながら、優紀をちゃんとベッドに寝かせてやると、窓際へと足を向けた。

 月のある空を眺め、総二郎は息を吐く。部屋のベッドには、安らかな寝息を立てて眠る優紀がいて。

 初めてだったかもしれない。あんなに誰かを乱暴に抱いたのは。それなのに、優紀は恨み言一つ言わなくて。総二郎を気遣ってくれた。
 ありがたいと素直に思う。

 優紀の眠るベッドに行き、総二郎はそっと腰かける。そうして軽く、触れるようにこめかみに口付ければ、優紀がゆっくりと目を開けた。

「……あたし、寝てました?」

「少しね」

 ごめんなさい、と慌てて起き上がろうとする優紀に、総二郎は馬乗りになる。そのまま首元に顔を近付けると、くす、と優紀が笑みをこぼした声が聞こえた。

「なに?」

「ごめんなさい。あれですね、西門さんて。意外と、甘えん坊……」

 口にしたあとで、はっとした。総二郎の目が、驚くほど丸くなっている。
 優紀がやばいと感じたときには、もう遅くて。総二郎が、にっこり、微笑んだ。

「俺が? 甘えん坊? 優紀ちゃん、言うようになったね?」

「え、えと、違うんです。そういうつもりじゃなくて、ええっと……」

「甘えさせてくれるんだね? 甘い気分を、俺にくれるんだよね?」

「に、西門さ〜ん……」

 段々と顔が近付いてくる総二郎の胸に手をやり、押し退けようとするが。当然、力では勝てるわけがなく。恐怖とは別の意味で、怖い。

 ちゅ、と音をさせ、啄むように総二郎が口付けてくる。何度かそれが繰り返されると、優紀も諦めたように、総二郎を押しやっていた手の力を抜いた。

「……一度しか言わないから、聞き逃さないで」

 優紀の耳元に口を寄せて、総二郎が呟く。唾を飲み込む音さえ聞こえる距離に、総二郎の唇が寄っている。

「俺がこの先、弱音を見せるのも、甘えるのも。優紀ちゃんだけだから。これから先は、襲名とかなんとかで、優紀ちゃんのそばにいられる時間が少なくなると思う。それでも一日の終わりは、優紀ちゃんの顔を見て終わりたい。優紀ちゃんに触れたい。優紀ちゃんに、おやすみなさいって言ってほしい」

「に、し……」

 総二郎は身体を起こし、優紀をまっすぐに見つめた。優紀の目には、今にもこぼれんばかりの涙が浮かんでいる。

 言われると、言ってもらえるとは思ってもみなかった。こんなに嬉しい言葉を。今の総二郎の表情を見たいのに、涙が邪魔で、それが見えなくて。

「『西門さん』は、卒業しよう?」

 優紀の左手を取り、総二郎はそっとその薬指に口付ける。その行為が、まるでその場所を予約してくれたかのようで。
 涙が、止まらなかった。

◇ ◇ ◇


「優紀さん、違うっ」

「はいっ」

 肩を、ピシッと扇子で叩かれ、優紀は瞬間的に背筋を伸ばした。手元で活けていた花が、がくり、と崩れて、咄嗟に手を出せば手に剣山が突き刺さり、う、と顔を顰めるも、その顔を見逃してはくれず、もう一度、鋭い扇子が優紀を襲う。

「もっと真剣に、おやりなさい」

「……はい」

 ふぅ、と心底呆れたようなため息が、千鶴子の口から漏れるのを聞き、ぐ、と涙が込み上げてくる。

 ああ、まただ、と優紀は唇を噛み、なんとか涙がこぼれないよう必死に耐えた。

「今日はここまでにします」

「あ、ありがとうございました」

 ぴしゃり、自分の手のひらに扇子を叩きつけ冷たく言い放ったあと、千鶴子が出て行った途端、ぼろっと大粒の涙が畳の上に落ちる。

「な、泣くなっ」

 ぐい、と涙を拭えば、ぴり、と指先が痛んだ。剣山で怪我をしたのを思い出し、情けなくなる。
 どうしてこんなにも、飲み込みが悪いのだろう。千鶴子が呆れ返るのも、仕方がない。

 総二郎が優紀を選んでくれ、当たり前にそばにいられるようになってから早3ヶ月。総二郎の自宅にある離れで、優紀は総二郎と一緒に暮らしていた。
 とはいうものの、総二郎は帰りも遅ければ、朝も早く、まともな会話をしたのはいつだっただろう、と思い悩まされる。

 茶道はもちろんのことながら、ある程度の知識は必要だと、花や踊りなどあらゆる作法を叩き込まれる。花嫁修業頑張ってね、と総二郎は軽く言っていたが、とてもそんなに簡単なものではない。
 もともと、優紀がお嬢様だったならば、こうはならなかったかもしれないが、庶民である優紀には、この年齢になってつめ込まれることが多く、なかなかついて行けない。

 総二郎に話を聞いてもらいたい反面、惨めな自分を見られたくないのも事実。義母は厳しく、屋敷内にいるお手伝いも、優紀に優しくしてくれる人はいない。

 実家を離れ、誰も頼れなくて。せめて、もう少し飲み込みがよければ、こんな思いをすることもなかったかもしれない。

「……っ、泣くなってば」

 総二郎のそばにはいたいのに、辛い。どうすればいいのかって、悩んだところで、優紀が頑張ればいいだけの話。辛いなら、逃げればいい。ただ、二度と総二郎の前には現れることなどできないだろう。

 それがわかっているから、逃げ出したくても逃げられなくて、我慢して頑張るしかないのだ。

「泣いたら、だめ……」

 ひっ、と嗚咽を漏らしながら、優紀はもう、涙を止められなかった。一度溢れ出した涙は、堰を切ったように止めどなく流れ出て、着物の裾を濡らしていく。
 こんなところ、千鶴子に見られたらなにを言われるかわからない。早く泣き止まなければ、と思うのに、涙が出るのに任せ、もう止めるのを諦める。
 どうせなら、ここで泣いて、明日からまた頑張ろう。だから今だけは、どうか、誰も来ないでほしい。優紀の涙が、枯れるまで。



「俺のお嫁さんを虐めるの、やめていただけますか?」

 部屋をあとした千鶴子に、総二郎はそうやんわりを声をかけると、あら、と千鶴子は鼻で笑い、手に持っていた扇子を口元に当てた。

「虐めだなんて、人聞きの悪い。あくまでも、花嫁修業の一環です」

 でも、と千鶴子は、今しがた出て来たばかりの部屋の障子を、ちらりと視界に入れる。

「あまり、器用な子では、ないわね」

「そうですね」

 それには総二郎も納得し、ふ、と口元を綻ばせる。

「器用ではありませんが、まっすぐな子ですよ」

「……そうね」

 それは認めます、と心なしか嬉しそうに笑い、千鶴子はその場から離れ、それを見届けると、総二郎は音を立てないよう、そっと障子を開けた。

 優紀の背中が、泣いている。声を我慢して嗚咽を漏らす優紀にゆっくりと近付くと、総二郎は、背中から頭を撫でた。

「! そ、総二郎さんっ」

 気配に気付かなかった優紀は、がばっと振り返り総二郎を確認すると、慌てて視線を外し、裾で顔を覆った。そうして背中越しに、手元を片付け始める。

「び、びっくりしました。今日は早かったんですね」

「たまにはね」

 泣いている姿を見られただろうか、とビクビクする優紀は、手が震え、道具を片付けようにもガチャガチャと音が響き、上手く進まない。
 それでも決して覚られまいと、優紀は不器用ながらも教えてもらった手順どおり片付けを始めれば、後ろから、ぐ、と身体を引き寄せられた。

「そ……っ」

「泣いてもいいよ」

「――」

 耳元で、そう総二郎が囁くのに、まだ枯れ切っていなかった優紀の涙が、ぶわっと溢れ出してくる。

 はたはたとこぼれ今度は総二郎の服を濡らしていくが、総二郎はなにも言わず、ただ後ろから優紀を抱きしめてくれた。
 その温もりが、ずっと優紀が欲していたものであり。やっと、総二郎のそばにいるための花嫁修業なのだと実感することもできた。

 総二郎もそばにいなくて、一体誰のために、なんのために花嫁修業をしているのか、よくわからなくなっていた。優紀が結婚したいのは総二郎であって、西門ではないというのに。

「う、く……」

「疲れた?」

 よしよし、と頭を撫でながら聞けば、ブンブンと勢いよく首を振られる。

「つ、つかれ……、じゃな……、くて……」

「わかった、わかった」

 今は話しても無理そうだな、と宥めるのに専念しようとすれば、優紀は総二郎の腕から逃れ、きちんと総二郎の目の前で正座をし、私は、と口を開いた。

「私は、総二郎さんのお嫁さん、なんですよね?」

 決して、西門の嫁ではないんですよね、と確認の意味を込めて言えば、目を丸くした総二郎が、次の瞬間には、ははっと声を上げて笑い出した。

「面白いこと言うね、優紀ちゃん」

「……総二郎さん?」

 これは、どちらに取ればいいのだろう。そもそも、総二郎の嫁になるという認識が間違っていたということなのだろうか。

 だとすれば、優紀はこれから、花嫁修業に立ち向かう気力がなくなる。

 愕然として青くなる優紀に気付き、総二郎は、あのね、と膝の上に置かれた手を取る。

「この俺が、産まれて初めてプロポーズした相手なんだよ、優紀ちゃんは。もっと、自信を持っていいよ」

「自信、ですか」

 そうだよ、と総二郎が頷くのに、優紀は眉を八の字に下げたまま、口を噤んだ。
 自信を持てと言われても、どうすればいいのかわからない。

「たとえばさ、優紀ちゃんから俺に迫ってみるとか」

「……えぇ!?」

 思ってもみないことを言われ、優紀は正座したまま、器用に後退る。顔を真っ赤に染め上げて、ぱくぱくと開いた口が塞がらない様子だ。

「そういう特権があるってこと。普通の女に迫られたって足蹴にするだけだけど、優紀ちゃんにはそんなことしないよ」

 だからさ、と近付いて、総二郎は軽く、触れるだけのキスを優紀に送る。

「とりあえず、さっさと片付けて、離れに帰ろう?」