花より男子/シロツメクサ(26)


「優紀ちゃん!」

 タッタッタッと軽快に足音を響かせながら、総二郎は優紀に駆け寄った。

「ごめんね、待った?」

「いえ、今来たところです」

 優紀が微笑むと、ごく自然に、総二郎は優紀の手を取って歩き出す。それだけで、なんだかドキドキしてしまうのは、きっと優紀だけだろう。

「ごめんね、せっかくの休みに」

「全然。暇してますし」

「ちょっと、一人で会うのが躊躇われてね」

 神妙な面持ちの総二郎に、優紀も何故か顔付きが強張る。心なしが、繋ぐ総二郎の手に力が入った気がした。

「今から会われる方って……」

「俺の兄貴」

「え?」

 さらっと流すように優紀に答えたが、内心、総二郎の心臓は穏やかではなかった。

 医者を志し、西門家の長男・秀一郎しゅういちろうは家を飛び出した。
 当然、跡目を失った両親の矛先が、二男である総二郎に向いたのは言うまでもない。

 兄弟とはいえ、できるならあまり会いたくはなかった。憎しみを、思い出したくはないから。

「百合さんの家庭教師だった男っていうのが、俺の兄貴の恋人の兄貴だったみたいでね」

 秀一郎との待ち合わせ場所までの道すがら、総二郎は、ぽつりぽつりと優紀に説明してくれた。

「俺の兄貴が医者になろうと思ったのも、彼女の兄貴を救うためだったらしい」

「救うためって、一体……?」

「……」

「……」

 言葉を選んでいるのか、言うのを躊躇っているのか。
 どちらとも取れない総二郎を急かすでもなく、優紀は総二郎と歩調を合わせていた。

「あまり、気分のいい話じゃないんだけど」

 ふー、と大きく息を吐き出して、総二郎は立ち止まり、優紀に顔を向ける。はい、と頷いて、優紀も総二郎を見つめた。

「百合さんと、その家庭教師との間柄が、バレて。当然、二人は別れさせられて。……それだけなら、普通のこと、なんだけど」

「……」

 別れさせられるのが普通とは決して思わないけれど。それでも、つらそうに言葉を探す総二郎を見ていたら、優紀は何も言えなくて。
 黙って、総二郎の口から紡がれる言葉を待った。

「二度と、彼女に触れられないように、両手を。二度と、彼女の元へ来ないように、両足を」

「……ま、さか」

 ぞくっ、と背筋が凍った。

「ヤクザが指詰めするわけじゃないんだからって思うよね、本当。堅気の人にそこまでする必要なんか、ないと思うんだけどね」

「……」

 あのとき、泣き叫んだ百合の言葉を思い出す。

 ――私が、先生を……! 先生を、殺してしまったのよ……ッ!!

 生きているよりも、つらかったかもしれない。その家庭教師の先生も、百合も。

 想像を絶する恐怖に、優紀の瞳からも涙が溢れ出す。

 ただ、人を愛しただけなのに。身分が違うからといって、相手の未来まで奪ってもいいのだろうか。

「百合さんね、優紀ちゃんのことを心配してたよ」

「え……?」

「彼と、同じ目に遭わされるんじゃないかって」

「……」

 可能性は、ゼロではない。途端に、総二郎と一緒にいることが、怖くなってくる。
 ガタガタと震え出す優紀の手を取って、総二郎は自分の頬を包むように触れさせた。

「怖い?」

「……」

 返事が、できない。怖くないと言ったら、嘘になる。だからと言って、今更総二郎と離れることなんてできないのに。

「もし優紀ちゃんの手がなくなったら、俺が優紀ちゃんを抱き締めてあげる」

「……え」

「もし優紀ちゃんの足がなくなったら、俺が優紀ちゃんに会いに行ってあげる」

「にしかど……さん」

 溢れていた涙が、止まる。

「もう、手放せない」

 ぐい、と手を引っ張られて、優紀は総二郎の胸に抱き止められた。今度は恐怖ではなく、涙が溢れてくる。

 ずっと好きでいてよかった。精一杯、この想いを貫いてよかった。
 たとえ本当に、両手両足を失ったとしても。
 今のこの気持ちは、絶対に忘れない。

「総二郎」

 名を呼ばれて、総二郎はそちらを向いた。
 兄貴、と総二郎が言った声がして、優紀もそちらを見ようと顔を上げるが……、上がらない。総二郎によって、阻止されている。

「待ち合わせ場所、間違った?」

「いや、違う。早く来過ぎたから、散歩してた。そしたら、色男が女のコ泣かしてるのが見えて。叱ってやろうと思ったら、おまえだった」

 そこでようやく、優紀は総二郎の圧迫から解放された。ぷはっ、と息を吐き出せば、すかさず、総二郎が秀一郎を指差して紹介してくれる。

「優紀ちゃん、これ、俺の兄貴」

「始めまして」

 すらっとした長身の、美形。一体どうすれば、これだけの美形が育つのだろう。
 総二郎にしても秀一郎にしても、同じ人間とは思えないくらいの美貌の持ち主だ。

「は、はじめまして! あの、ま、松岡優紀と申しま……、え?」

「……」

 力を込めて、優紀が秀一郎に頭を下げようとしたそのとき。優紀のスカートの裾が、くい、と引っ張られて、優紀はそこを見つめた。
 優紀のスカートの裾に付いている、もみじのような手。その先には、確実に西門の血を継いでいるであろう男のコの姿が。

「……これ、兄貴のコ?」

 総二郎が問えば、頷いて、秀一郎はその男のコを肩に抱き上げた。

海兎かいと、ごあいさつは?」

「……ヤだ」

「こら」

 ぷくぅ、と頬を膨らませて、海兎と呼ばれた男のコは、秀一郎の頭にしがみ付いた。

(か、かわいい……)

 子供好きの優紀には、たまらない。
 専門学校を卒業したにも関わらず、修の薦めで優紀は普通のOLになってしまったが、今からでも保育士を目指してみようか。……いやいや、総二郎と一緒にいることを決意したのに、保育士になんてなれっこないだろう。
 百合にも宣言していたとおり、優紀はこれから、礼儀作法云々を学ばなければならない。

 一瞬にして駆け巡った考えに、優紀は途端に顔を曇らせる。……できるのだろうか、本当に。

 ちらり、優紀は総二郎を盗み見る。と、目が合ってしまった。慌てて逸らそうとしたが、にっこりと微笑まれてしまって。

「いろいろ、悩んでるみたいだけど? 大丈夫だよ、優紀ちゃんなら」

「……え?」

「なんせ、この俺を、その気にさせたんだから?」

「……」

「花嫁修業、頑張ってね?」

「……」

 まるで、他人事のように、総二郎は優紀に笑顔を向ける。

 ――やるしかない。総二郎の笑顔に、優紀はそれ以外の考えなんて持たせてもらえなくて。
 これから先に待ち受けてあるであろう花嫁修業に不安が隠せなかったことは、言うまでもない。

◇ ◇ ◇


 小鳥の囀りさえ掻き消されてしまいそうな雰囲気に、優紀は思わず息を飲んだ。
 そこは、普通の病室と何ら変わりはないのに。どうしてだろう、空気が、違う。重みが、全然違うのだ。

 平らではなくわずかに上げられたベッドに背中を預けて、彼は外を眺めていた。その光景が、まるで一枚の絵のようで。
 吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥る。

和人かずと

 秀一郎が呼べば、彼はこちらを向いた。

「君が、総二郎くん?」

 話を通してあったのだろう。和人は秀一郎と並ぶ総二郎に目をやると、口元を綻ばせて笑顔を向けた。

「初めまして、西門総二郎です」

 言って、総二郎は差し出そうとした手を止めた。かけてあるシーツから出ていたプラスチックの『それ』に、気付いたからだ。
 もしかしたら、普通に動かせるのかもしれない。だがそれができなかったときに、気を遣わせてしまうのが嫌で。

「僕に、聞きたいことがあるって?」

 総二郎のそれに気付いたのか、和人は早速本題に入る。やはり、触れてはほしくない部分なのだろう。

 ええ、と俯き、それでも総二郎はまっすぐに和人を見据えた。

「白鳥百合を、ご存知ですよね?」

「……っ!?」

 ためらうことなく、総二郎ははっきりと口にする。その名前を出した途端、和人の顔色が変わった。

「なぜ、君が……?」

「彼女は、僕の婚約者だった方です。つい先日、婚約は破棄しましたが」

「……」

 和人は苦しそうに、下を向いた。動揺が、隠せない。心なしか、呼吸が荒くなっている気がする。
 不安そうに優紀が覗き込めば、それを制して秀一郎が和人の背中を擦るようにそばに行った。

「落ち着け、和人。ゆっくり、息を吸って」

「……大丈夫」

 秀一郎を安心させるように、和人は答える。
 秀一郎の言葉どおり、ゆっくり息を吸って、吐いて。何度かそれを繰り返した後、和人は穏やかな表情で総二郎を見つめた。

「驚かせてすまない。それで、彼女の何を聞きたいんだい?」

「聞きたいのは、彼女のことではなく。あなたが彼女をどう思っているか、なんです」

「……僕、が?」

「ええ」

 大きく頷いて、総二郎は言葉を続けた。

「彼女を、恨んでいますか?」

 和人は、大きく目を見開いた。

 ある日突然、両手両足を失くした自分に、家族は打ちひしがれた。両親と妹が怒り狂い、裁判を起こすと意気込んでいた。
 だがそれも、家族が一生遊んで暮らせるだけのお金が降ってきて叶わなかった。手切れ金と慰謝料。お金だけで片付けられてしまって、やり場のない怒りが家庭を壊した。

 百合は恨むべき人間だ、と。自分の未来を奪った白鳥家の人間を、許してはいけない、と。毎日、そう言われ続けた。
 ――だけど。

 しばらく黙っていた和人は。やがて、頬に涙を伝わせた。

「僕は……、彼女を、恨みたかった」

 ポツリ、漏らしたその台詞に。和人の心の底にある気持ちに、触れた気がした。

「純粋に百合を愛していたし、恨むことなんてできなかった」

 和人が、ゆっくりと口を開く。

「両親の恨み言を毎日毎日聞きながら、僕も百合を恨まなければならないのだと思っていた。だけど、僕がこんな身体になったのは、百合を愛したからだし、百合が僕を愛してくれた証拠だ。恨まないといけないと思っても、到底、恨むことなんてできない……」

 それは何より、未だに和人が百合を想っているからなのだろうことが窺える。

 自然と、総二郎は拳を握りしめているのに気付いた。純粋に愛し合っている二人を引き裂くだけでなく、こんなことまでしなければならなかったのだろうか。

 白鳥家のためには、百合の相手は和人ではいけなかった。だがここまでする権利があるとも思えない。あの司の母でさえ、そこまではしなかった。二人を別れさせようと躍起になってはいたが、今思うと、まだ人道的であったようにも思えてくる。

「大丈夫ですか?」

 そっと窺うように、優紀が顔を覘かせた。

「顔色が悪いです……。少し、風に当たってきます?」

 総二郎を心配そうに見つめる瞳に、癒される。
 そうだ、今は優紀がいる。遊び人だと豪語していた総二郎を、ちゃんと見つめて支えてくれた優紀が。

 ふー、と息を吐き出すと、総二郎は改めて和人に視線を向けた。

「彼女も、まだあなたを想っています。是非、会ってあげてください」

 いや、と総二郎の言葉に、和人は首を横に振る。

「これ以上、僕から取るモノなんて、命くらいしかないだろう? 次は、確実に殺される。そうまでして、百合には会えないよ」

「お互い、愛し合っているのに?」

「愛し合ってしまったから、僕はこんな身体になってしまったんだ。百合を愛さなければ、僕は自分の足で歩くことができただろう」

「でも、愛しているのなら……っ」

「総二郎くん」

 まっすぐに名前を呼ばれて、ハッとした。こんなに熱弁するなんて、らしくない。

「君は、僕に何を伝えたいんだい?」

「……」

 何を? 総二郎が、和人に伝えたいことは、一体何なのだろう。
 考えて、固まった。こんなの、押し付けでしかない。

 和人は自分で考えて、これ以上百合に会わないことを望んだ。それなのに、百合に会え、なんて。

「僕も、知ってるよ」

「え?」

 にっこりと微笑んで、和人は総二郎を見つめた。

「愛することの温かさ、愛されることの温かさを。ぬるま湯に浸かっているみたいに、ポカポカと温かいそれを。僕も、ちゃんと知っている」

「……」

「総二郎くん。僕は正直、命なんて惜しくない。だけどね、僕はこれ以上、百合を悲しませたくないんだ。何よりも、彼女の幸せを願っているから。誰よりも、彼女を愛しているから」

 愛し合っているのなら、会わせてあげたくて。百合も和人も、お互いを想っていることがわかったから。
 だけど、和人は一緒にいないことで彼女を守っていた。

「彼女に会ったら、僕は元気だったと伝えてほしい。恨んでなんかいないって。今でも変わらず、百合だけを愛しているからって。だから、僕の分まで幸せになってほしいって、そう伝えてくれる?」

「……はい、必ず」

 力強く総二郎が頷くと、和人は安心したように目を細めたのだった。