花より男子/シロツメクサ(25)
「ごめんね、待った?」
「いえ、今来たところです」
あきらに呼び出され、優紀は近くの喫茶店に足を運んでいた。
数分遅れでやってきたあきらは、席に着くなりウェイトレスにコーヒーを二つ注文し、早速だけど、とテーブルに肘を付いて口を開く。
「今日さ、なんの日か知ってる?」
「今日……ですか? ええと、なんだろう。なにかありましたっけ?」
「実はね、総二郎の結納の日なんだ」
「え? ゆ、結納……ですか?」
「そ」
「……っ」
優紀の視界が、グラリと揺らぐ。
いつかそうなることはわかっていたのに、実際、それを目の当たりにすると。
「優紀ちゃん」
名前を呼ばれて、優紀は思わず顔を上げた。
「結納、ぶち壊したら?」
「……え?」
「自分も、台なしにされたでしょ? お返ししたらいいよ」
「で、でも……」
「優紀ちゃん」
真っ青になった優紀の手に、あきらはそっと自身のそれを重ねる。
「優紀ちゃんは、総二郎に救われた? それとも邪魔された?」
「そ、れは……」
「どっち?」
一瞬、言葉に詰まる。だが、考えるまでもない。
「それはもちろん、救われたんです。邪魔されたなんて、微塵も思ってません」
「じゃあ、今度は優紀ちゃんが総二郎を救う番だよ」
「え……?」
「総二郎が望んだ結納じゃない。好きで結婚するわけじゃない」
「……っ!」
ガタっと音を立てて、優紀は立ち上がった。
「美作さん、あたし……」
「総二郎のこと、助けてやって。頼むよ、優紀ちゃん」
「はい!」
言葉とともに、優紀は駆け出そうとその身を翻す。だがすぐに、あきらに視線を戻した。
「あ、あの、結納って、どこで……?」
「ああ、総二郎の家。アイツんちでするってさ」
「ありがとうございます!」
今度こそ、本当に優紀は駆け出していく。総二郎のことだけを想って。
トレイにコーヒーカップを二つ乗せたウェイトレスが、訝しげにあきらの座るテーブルに近付いてくる。にこっとウインクをして見せれば、そのウェイトレスは真っ赤になった。
慌ててカップを置き、そそくさと奥へ駆けていく。
あきらは、そっとテーブルに置かれたカップを口に運んだ。
「俺も相当、お節介……だな」
自覚しているのに、放っておけなくて。類だけではなく、もちろん総二郎や司にも幸せになってもらいたくて。
自分が幸せになることよりも、大切な親友が幸せになることを望んでいる。
それは単なる自己満足でしかないかもしれないが、そうすることで自分も幸せを分け与えてもらえる気がした。
「頑張れ、優紀ちゃん」
もう見えなくなった優紀の背中に、あきらは声をかける。きっと、優紀なら大丈夫だろう。総二郎を救ってくれる。
あきらは、そう確信していた。
◇ ◇ ◇
いつもより上品な着物。それに袖を通しながら、総二郎は思わずため息を吐いた。
「……偉そうなこと言えねぇな、もう」
ポツリ、と言葉が漏れる。総二郎は目を閉じて、深く息を吐き出した。
優紀にあれだけ偉そうなことを言っておきながら、自分はたいして知りもしない相手と結婚する。今から、そのための結納の儀式が執り行われようとしていた。
西門の家のため、ジュニアとして産まれた総二郎にしてみれば、それは当然のことだった。それがわかっていたからこそ、さんざん遊んで好き放題していた。
両親も、それを咎めなかった。
「わかってたんだけど、な」
徐に、総二郎は自身の手のひらを見つめる。いつだったか、飽きるほど抱いた優紀をそこに思い浮かべながら。
微塵も擦れてなくて、まっすぐに総二郎を見つめてくれていた優紀。彼女の優しさに、幾度となく救われた。総二郎は、優紀を傷付けることしかできなかったというのに。
ぐ、と拳を握り締め、総二郎はいつかの初恋の彼女を思い出す。
距離感を壊したくなくて、結局傷付けその距離感までも崩してしまった。
総二郎はまた、同じことを繰り返そうとしている、のかもしれない。
「サラ……。俺は、どうすれば……?」
「ちょっと、あなた! お待ちなさいっ」
不意に、廊下から声が響いてきた。訝しげに首を傾げ、総二郎は襖を開けようと手を伸ばす。だが総二郎が空けるより先に、襖は他の者の手によって開かれた。
そこにいるはずのない女性の手によって。
「西門さん!」
「――…」
これは、幻だろうか。どうして、彼女がここに?
「逃げましょう、西門さんっ」
ぐ、と総二郎の手を握り、優紀は声を荒げる。
「……あのね、優紀ちゃん」
「本意じゃないんでしょう? 不本意なんでしょう!? あたしにそれを教えてくれたのは、西門さんじゃないですか!」
「……優紀ちゃん」
「あたし受け止めます、西門さんが抱えているもの。西門さんが全部曝け出してくれるのなら、受け止める自信が……勇気があります!!」
思わず、そう言ってくれた彼女を抱き締めていた。優紀がすり抜けてしまわないように、きつく。優紀の首筋に、顔を埋めた。柄にもなく、目頭が熱くなる。
「総二郎さん」
瞬間、冷ややかな声が総二郎の耳に届く。優紀を腕に抱いたまま、総二郎はゆっくりと顔を上げた。
「時間です。参りましょう?」
総二郎の腕の中にいる優紀の存在を、まるで無視しているかのように。百合は、天使とも悪魔ともとれる微笑みを総二郎に向ける。
「もう、皆さんお待ちになってます。急がないと」
「百合さん」
平然と言葉を告げ颯爽と背を向けた百合に、総二郎は声をかけた。
「こういう光景を見て、なにも感じませんか?」
「……」
そう言って、総二郎は百合に見せつけるかのように腕に力を入れる。
百合はゆっくりと振り返り、そんな総二郎をじっと見据えた。それから小馬鹿にしたように、ふ、と口元を緩ませる。
「どなたとお付き合い頂いても結構です。最低限のマナーさえ守っていただけるのなら」
「最低限のマナー?」
「ええ」
「……」
総二郎に抱き竦められている優紀からは、百合の表情は窺えない。だがその声が、冷静ではあるがどこか怒気が含まれているようにも感じられる。
優紀は徐に総二郎の背中に腕を回し、キュッと力を入れて目を閉じた。
「子供は私とだけ作る。それさえ守っていただければ、多少のことには目を瞑ります」
「……ッ!?」
あくまでも冷ややかな言葉に、優紀は瞬間、眩暈を覚えた。
総二郎だけでなく、百合も望んだ結婚ではないことが感じ取れる。そんな結婚、本当に意味があるのだろうか。
結婚は好きな人とするもので、お互いが望んでいなければ夫婦になんて成り得ない。それが、優紀の知る『結婚』のスタイルだ。
だが、総二郎と百合は違う。結婚とは家のためにすることで、当然、子作りもそれに含まれる。当人達の意思とは関係ない。
「……本当に、それでいいんですか?」
総二郎の腕の中、優紀は思わず口を開いた。
「優紀ちゃん……?」
訝しげに優紀の顔を覗き込む総二郎の腕から少し離れ、優紀はまっすぐ百合に視線を向ける。
「本当に西門さんのことが好きで結婚するなら、誰と付き合ってもいい、なんて言えなくないですか?」
「……好きという感情だけで結婚して、なにを得られましょう?」
「え?」
寂しげに、百合の瞳が揺れた。間もなくして、大粒の涙が百合の頬を伝う。
泣き顔さえも美しいなんて、本当に羨ましい。百合の泣く姿に、優紀はふとそんなことを思ってしまった。
それから、もしかしたら、と一つの考えが脳裏を過る。
「あ、あの……」
言いにくそうに、優紀は眉根を寄せた。
実年齢は知らないが、そうたいして年齢は変わらないであろう女性にここまで気を遣うのも変かもしれない。だが、どうしても遠慮してしまう。
やはり、育った環境があまりにも違い過ぎるからだろうか。
「間違ってたらごめんなさい。でも……、もしかして、西門さんじゃなくて、別に誰か好きな人がいるんじゃないですか?」
「……」
優紀の言葉に、百合は静かに手で涙を拭う。そうしてまた冷静な面持ちに戻り、優紀をまっすぐに見据えた。
あれは、何年前のことになるだろう。
毎日毎日、家のためにと自由な時間は与えられず。息苦しい日々を過ごしていた。
――どうした、ゆり?
押し潰されそうだった百合を救ってくれたのは、当時百合の家庭教師をしていた男性だった。
――ゆりがつらいなら、俺が支えるよ。
彼の言葉だけが、百合を救ってくれた。
――俺のこの目は、ゆりを見つめるためにある。俺のこの手は、ゆりを抱き締めるためにある。俺のこの足は、ゆりの元へ行くためにあるんだよ。
いつだって、百合の味方でいてくれた。
「……あなた」
百合は、優紀から目を逸らさずに、ぽつり、と口を開いた。
「総二郎さんのことを、好いているのはわかるけれど。立場というものを考えたことがおあり?」
「……っ」
優紀の顔が、一瞬にして赤くなる。
立場――。それを言われてしまっては、優紀にはなにも言えない。優紀には、後ろ盾になるようなものがなにもないから。
「総二郎さんは、未来の茶道を引っ張っていくお方。釣り合いが取れないことくらい、わかっているでしょう?」
「そ、んなこと……」
言葉に詰まり、優紀は口元をキュッと噛み締めた。苦しいくらい、わかっている。
今改めて、優紀はつくしのつらさを感じていた。つくしはいつも、こんな渦の中にいたんだ。
「いいんですよ」
優紀の頭上から、さらっとした声が響く。
「俺が、教育しますから」
「……え?」
透き通った声が、優紀の胸に落ちていく。
「西門、さん……?」
下がり眉を更に下げて、優紀は総二郎の顔色を窺うように見上げる。すると、にこっと微笑んだ総二郎の唇が、優紀の額に落ちてきた。
「どこに出しても恥ずかしくないような逸材に、俺が育て上げます。あなたの代わりを無事に務められるような人間に、俺が仕立てあげますよ」
「だから、私は要らない、と……?」
「まぁ、平たく言えば、そうですね」
総二郎は百合に視線を向けながら、腕の中にいた優紀を抱き締める腕に力を入れる。まるで、百合に見せつけるように。
「百合さん。俺は、あなたとは結婚しない」
「……」
なにを思うのか。百合の顔に、表情はない。
「この娘は俺を、西門の人間ではなく、俺自身を必要としてくれた。俺が抱えるものすべて、受け止めてくれるらしいので。まぁ少しくらいスパルタで教育しても、問題ないでしょう」
いや、それはちょっと……。スパルタは、勘弁してほしい。
だが今この状況で、口に出すことはできず。優紀はただ、黙って二人のやり取りを聞いていた。
「それは、次期家元としてのお答えですか?」
百合の冷たい声が、総二郎に届く。いえ、と、総二郎はまっすぐに百合を見つめた。
「俺自身の答えです。俺の答えに不満があって俺を必要としなくなるのなら、いつだって親父は俺を切り捨てるでしょう。この世界は、そういう世界なのだから」
兄貴のように。思った言葉は飲み込み、総二郎は口元を綻ばせた。
「いらなければ切り捨てる……。本当に、そういう世界に生きているのよね、私たちは」
呟いた百合の頬を、涙が伝う。そうして崩れ落ちるように、百合が床に膝を付いた。
「ゆ、百合さん?」
百合に近付こうと優紀が動くが、しっかりと総二郎に捕まえられていて、動けない。
心配そうに総二郎を見れば、総二郎も驚いたように目を見開いて百合を見据えていた。
ガクガクと震える百合から、わずかに声が聞こえる。まるで念仏のように、ぶつぶつと聞こえてくる。
ごく、と唾を飲み、総二郎は優紀を抱き締める手を緩めて自身の後ろに付かせた。一瞬だけ、心配そうな優紀と目が合って、大丈夫、と言い聞かせるように頷く。
「百合さん……?」
「――私が、先生を……! 先生を、殺してしまったのよ……ッ!!」
わぁ、と溢れたように声を発した百合は、そのまま床に顔を付いて泣き崩れてしまった。もうすでに、あの気品に満ちた姿は見られない。
そこにいるのは、ほしいものが手に入らなくて泣き喚く、ただの子供のようだった。