花より男子/シロツメクサ(24)
「この話を無効に?」
「はい」
橘側からの突然の言葉に、斗吾と雅は顔を見合わせた。
「一体、どうして急に? まさか、類がなにか……?」
「いえ、違います」
斗吾が言いかけたのを、素早く芹香が制する。
「類さんはなにも悪くないんです。私の気持ちが冷めてしまっただけで。類さんにもおじさまにも、本当にご迷惑をおかけして……。なんとお詫びすればいいか……」
「いや、そんなことは」
「……」
目の前で繰り広げられる芹香と斗吾の会話を、類は黙って聞いていた。
夢を見ているのではないか、という錯覚に陥る。まさか、芹香の方から縁談を断ってくれるなんて。一体、どういう風の吹き回しなのだろうか。それとも、それ以上になにかしてくるつもりなのか。
「類」
刹那、突然芹香に声をかけられ、類はハッとする。
「色々ごめんなさい。これからは友人として、付き合ってくれる?」
「……ああ」
「ありがとう」
手を出され、躊躇いながらも頷いて、類は握手を交わす。
まったくもって、意味がわからない。目の前にいるのは、本当に芹香なのか。それさえも疑わしい。
「事業の件も、なにも心配しないで。今までどおりにしてもらうように、パパにお願いしてあるから」
「……本当に?」
「うん」
「……」
芹香の言葉に、果たしてそのまま鵜呑みにしてもいいものか。どんでん返し、ということにならなければいいのだが。
「少し、庭を歩かない? 話がしたいの」
「……」
幾度となく、この笑顔の裏には憎悪があった。悪魔のような笑顔を、今更信じることなんてできない。
「悪いけど……」
「そうしなさい、類。芹香さんも、思うところがあるだろうから」
「……」
断ろうとした類の言葉を、斗吾が遮る。そうして背を押され、類は芹香に手を引かれた。
「行きましょう?」
「……」
類は、芹香に対して憎しみしか持っていない。愛する人を傷付けられ、本気で殺そうと思った女である。
ぐ、と手を握り締め、類は芹香を見下すような視線を送る。
「おまえ……」
「あのね、類」
引いていた類の手を離し、芹香はくるりと振り返る。
「私の類への気持ち、今でも変わってない」
「……」
ああ、やはりか、と類は肩を落とす。婚約するよりも苦痛な出来事が、きっと待ち受けているに違いない。
「大好きよ、類。だから、終わりにしましょう」
「……え?」
類は、思わず耳を疑った。
「なにがなんでも、類を手に入れたかった。でもそれって結局、類を苦しめてるだけなのよね」
「……」
「気付くのが遅くなってごめんね。けど、これで本当に最後。類を、解放してあげる」
言葉とともに流れた芹香に涙に、類はようやく安堵の息を漏らすのだった。
◇ ◇ ◇
「へぇ、橘芹香が?」
「……うん」
驚き目を見開いた総二郎に、類は小さく頷いた。そうして口元に寄せていたカップをテーブルに戻し、は、と短く息を吐き出す。
「で、なんでそんなに浮かない表情してんだ、類は?」
「……うん」
あきらの言葉にも、心ここに在らず、という感じで。類は、視線を落とすのだった。
近況報告、というわけではないが、類は昨日の芹香とのことを総二郎とあきらに説明するため、二人を自宅に招いていた。どうも腑に落ちない、とでも言わんばかりに。
「牧野のことが、気になるって?」
「……」
そう言った総二郎の顔を見上げ、類は疲れたように首を縦に振る。
「あいつが……、このまま本当に牧野になにもしないって、そう言い切る自信がないんだ。もしかしたら牧野が消えたのだって、あいつが……」
「それはない」
原因かもしれない、と言いかけた類を、あきらが遮った。
「それは絶対にない。だから、もうすこし橘芹香の言葉を信じてやれよ。な?」
「どうして?」
「え?」
「なんで、そんなに自信があるの、あきらは?」
「そ、それは……」
純粋な瞳でまっすぐに類に見つめられ、あきらは言葉に詰まる。
つくしが今どこにいるのか、F4の中で知っているのはあきらだけであり。芹香が関与していないという自信がそこからくるものだとは、もちろん、誰も知らない。
「勘だ」
「……」
きっぱりと言い切ったあきらに、思わず類は総二郎と顔を見合わせて。ぷ、と吹き出すのだった。
「なにそれ?」
「おまえは司か?」
二人は声を上げて笑い始め、あきらは途端に恥ずかしくなる。他人を笑うことはあっても、まさか笑われることになるなんて。おまけに、『司か?』と言われるなんて、思ってもみなかった。
「つーか、笑いすぎ」
「悪ぃ悪ぃ」
「でもあきらがそう言うなら、少し信じてみようかな、橘芹香を」
ムッとした表情になったあきらを見て、総二郎と類は笑うのをやめる。そうして類は、にこっと微笑みながらあきらを見据えた。
「そうしてくれ」
「うん」
ふぅ、と息を吐き出して、あきらもそう微笑む。
こんなに和やかな雰囲気は、久しぶりかもしれない。取り敢えず、類の問題は落ち着いた。そう思った二人の視線が、一点へ向けられる。
「……わかってるよ」
呟いて、総二郎は目の前のカップを手に取った。こく、とコーヒーを口に含ませて、はー、と深くため息を吐く。
総二郎にとっても、類と芹香の婚約騒動は決して他人事ではない。
見合い相手である百合との結納は、もう目前に迫っていた。
◇ ◇ ◇
「お帰りなさい、総二郎さん」
「……何故あなたがここに?」
確かに総二郎は、自分の部屋のドアを開けた。とするならば、ここは自分の部屋のはずである。誰かを部屋に通した覚えはない。
だがそこには、間違いなく見合い相手である百合がいた。ぴしっと背筋を伸ばし、フローリングの床に正座をして。
「結納の件でお義母さまにご用があって。帰ろうかと思ったんですけど、もうすぐ総二郎さんが帰られる頃だから、と……」
「俺の許可なく、俺の部屋に無断で上がり込んでたってわけですか? 最近のお嬢さまは、結構図々しいんですね」
「そうかしら」
総二郎の皮肉にも、百合はその表情を崩すことなく笑みを返す。
「結納の前に、一度総二郎さんと落ち着いて話してみたかったんです。お聞きしたいこともありましたし」
「聞きたいこと?」
「ええ」
総二郎は着ていたジャケットを脱ぎ、それをベッドに投げた。そうして百合の隣に腰を下ろし、何気なく肩を抱き寄せる。
「奇遇ですね。俺も、あなたに聞きたいことがあるんです」
「子作りは、いつでもよろしくてよ?」
にっこりと一笑して言う百合に、総二郎は目を丸くした。
「産むなら、なるべく早い方がいいと思ってます。総二郎さんはいろいろと理由をつけて結納を先延ばしにされているようですから、既成事実もアリかと」
「……百合さん」
「私がお聞きしたかったのは、総二郎さんが結納を先延ばしにしている理由です。私のどこにご不満が?」
「俺は、あなたに不満があるわけじゃありません」
「そう言うと思ってました。女性を悪く言う男性でないことは、調査済みです」
「……」
擦れていない女性もそうだが、ここまで賢い女性というのも扱いが面倒である。ああ言えばこう言う、正にその典型的な人間だ。
総二郎は、は、と短く息を吐き出す。そうして抱いていた百合の肩から手を退かし、徐に立ち上がると先ほどベッドに投げたジャケットを手に取った。
「結婚は……しないといけないと思っています。それが俺の運命だと、覚悟もしています」
ぐ、と力を入れて、総二郎は拳を作る。
「もう少しだけ、待ってください。そうしたら……」
「私と、結婚していただけるのかしら?」
瞬間、総二郎の脳裏に一人の女性が過った。彼女の前向きな態度が、総二郎の過去を断ち切ってくれたこともある。
「――…はい」
彼女の未来を、この手で潰した。それなのに自分は、今目の前にいる百合と結婚しようとしている。
たとえ、本意ではなかったとしても。
◇ ◇ ◇
「はい、総二郎」
「お、サンキュ……って、随分安っぽいビールだな」
「『ぽい』んじゃなくて、実際安いんだけどね」
手に持っていた缶ビールを開けながら、類は総二郎の隣に腰を下ろした。
「類の家、こんなの置いてたのか?」
「まさか。買ってきてもらったんだよ、今。総二郎、そういう気分な顔してたから」
「あん? 俺が?」
「うん。高いワインより、安っぽいビール。そういう表情」
「……」
コク、とひと口それを飲んで、類は総二郎に無垢な笑顔を見せる。類の言葉の意味を理解したのか、総二郎は深くため息を吐き出した。
「なぁ、類」
「うん?」
総二郎は缶ビールのプルタブを指にかけ、徐に類を見やる。
「類は……、牧野を諦めようと思ったことはなかったのか?」
「ないよ」
聞きにくいことを聞いてしまった、と総二郎が反省する間もなく、類はあっさりとそう答えた。思わず顔を上げ、総二郎は少々声を荒げる。
「どうして? 牧野がおまえを受け入れてくれる保障なんて、どこにもなかっただろ?」
「受け入れてもらおうなんて、考えてなかったよ」
コトンと床にビールを置いて、類は物思いに耽るように天井を仰いだ。
「俺、好きなものにはとことん執着する性質だから。飽きるまで好きでいるしかないだろうなって思ってた」
「……」
言いながらそっと目を閉じる類の瞼には、きっとつくしがいるのだろう。
もうずっと、類は長いこと片想いをしてきた。手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、『司』という見えない壁がいつだってそこにはあって。それでも、つくしのことを忘れられなくて。
「当ててみようか? 総二郎が考えてること」
「……いや、いい」
クスと笑いながら、類が総二郎を見つめた。すべて見透かされているようで、この純粋な目に飲み込まれそうな錯覚に陥る。
「答え、出てるんじゃないの?」
「そんなの、とっくに……」
「そっちの答えじゃなくて」
類は、ふ、と口元を綻ばし、それから目を細めた。
「家のために結婚する。それは俺たちにしてみれば、当然の道理なんだけどね。自分の気持ちまで押し込む必要、ないんじゃないの?」
「……」
「好きなんでしょ? 牧野の友達のこと」
総二郎には、なにも言えなかった。ただ静かに、寡黙な類の口から紡がれる言葉を聞いていた。
好きか、と問われれば、返事に困る。大切だけれど、それが好きという感情と結びつくものなのか。
「……わからねぇよ、そんなの」
本当に大切なものは、いつも失くしてから気付く。手放すべきではなかった、ということに。
◇ ◇ ◇
『西門さん。あたし、結婚することにしたんです』
そう言って、優紀は総二郎に見せつけるように総二郎の知らない男性と腕を組んでいた。
「俺に、もう一度同じことを言わせたいの?」
『いいえ、違います。決めたんです、あたし。西門さんじゃないこの人と幸せになるって』
「……優紀ちゃん」
『だって西門さん、結婚するんでしょう?』
総二郎は、大きく目を見開いた。刹那、一瞬にして辺りに光が射し込み、暗闇に覆われる。世界がグニャリと歪み、眩暈が総二郎を襲った。
ゆっくりと息を吸い込み、何度も肩を上下させて乱れた呼吸を整える。そうすることで、ようやく薄暗い辺りが見えてきた。
「……夢?」
ぼんやりとした思考回路の中、辿り着いたのはそれだった。
らしくない、と自嘲気味にため息を吐く。まさか、一人の女のことで夢に魘されるなんて。
総二郎は徐に起き上がり、ため息をこぼすと窓際に立った。月明かりが、総二郎を照らしてくれる。そこに、優紀の姿はない。
「……当然だな」
総二郎の歩む先に、優紀はいない。何度も歩み寄ろうとしてくれた彼女の手を振り払ったのは、他でもない自分なのだ。
今更ともに歩もうと思っても、虫がよすぎるというものだろう。
夜が明けて、ほどなくすれば総二郎と百合の……もとい、西門と白鳥の結納が執り行われる。当人たちの意思とは関係なく。
――子作りは、いつでもよろしくてよ?
百合の言葉は、決して総二郎を好いているから出たものではない。百合も百合で、白鳥に産まれた人間として生きている。それ相応の相手と結婚して、子供を作る。そういう常識を埋め込まれた人間だ。
子供を作る行為に対して、総二郎はなにも抵抗はなかった。もちろん、何人もの女性と経験があるもの周知の事実。百合も知らないわけではないだろう。
自慢ではないが、避妊を欠かしたことなど一度もない。百合とも、そういう関係なら築ける自信がある。
だが百合が求めているのは、一家の主としての総二郎である。ただ抱いてほしいだけならば、何度だって抱く。飽きるまで抱き続けることだってできる。
種を植えつけなければならないと思うことが、こんなに嫌悪するものだったとは。
「……ッ」
がん、と総二郎は、やり場のない怒りを壁にぶつけた。
結婚も子作りも、産まれたときからわかっていた。今更、嫌悪するつもりなんかなかったのに。
彼女が邪魔をする。総二郎の脳裏に焼きついて離れない彼女に、彼女の力強い意思の瞳に、追いつめられている気がした。
『間違うつもりですか?』と。