花より男子/シロツメクサ(23)


「……」

「つくしちゃん、こっちよ」

 呆然とそこにそびえ立つ外観を眺めながら、つくしははっとして歩みを進めた。

「お、お姉さん。まさか、これが……」

「そうよ」

 椿のあとに黙ってついて行きながら、つくしは思わず息を飲んだ。

 広々としたロシアの地には相応しくない、巨大なホテル。椿の案を呑んだことを、つくしは後悔していた。

 作業員がいるロビーに椿が足を踏み入れると、途端に作業員たちは手を止めて、椿に頭を下げる。それを気にするふうもなく、椿は奥のエレベータへと足を進ませた。
 申し訳ない感を漂わせながら、つくしも慌ててエレベータに乗り込む。

「ごめんなさいね。あまりにも狭いんで、びっくりしたでしょう?」

「……狭い?」

 とんでもない、と声を上げようとしたが、つくしはあえて言うのをやめた。
 椿たちにしてみれば、確かにそうなのかもしれない。つくしにとっては、思っていた以上に広いのだが。

「つくしちゃんには、従業員の管理を任せようと思っているの」

「従業員の管理?」

「そう。躾って言った方がいいかしら?」

「……」

 つくしは上昇していくエレベーターにもたれかかり、は、と息を吐き出した。今更ながら、やはりスケールが違いすぎる。
 従業員の管理と椿はひと言で纏めているが、そもそもロシアの母国語はなんなのか、とつくしはぐるぐる頭を悩ませていた。

 やがて、チン、という音とともにエレベータが止まり、扉がゆっくりと開かれる。颯爽と歩く椿のあとに、つくしも続いた。

「ここをつくしちゃんの部屋として使ってちょうだい」

 にっこりと微笑みながら、椿はそう言ってエレベータを降りてすぐ目の前にあるドアのノブに手をかけた。
 ぎぃ、と風味のある音をさせて、ドアが開かれていく。そうして目の前に開かれたドアの奥の広さに、つくしは思わず唾を飲み込んだ。

「ちょっと狭いけど、勘弁してね。なにか必要なものがあれば、すぐに取り寄せるわ」

「……いえ。大丈夫、だと思います」

 驚きを通り越え、つくしは半ば、呆れていた。
 一体、どこまで生活観が違えば気がすむのだろう。つくしがそれまで暮らしていたアパートとは、まったく比べものにならない広さである。

「ちょっとここで待っててくれる? 今、通訳を連れてくるわ」

「あ、はい」

 微笑みながら、椿はそう言って部屋をあとにした。

 一人取り残されたつくしは、とりあえずぐるりと部屋を見回す。それから窓際に立ち、空を仰いだ。

 ――28日。道明寺さんと、ニューヨークへ行くそうね。

 ふと蘇ってくる芹香の言葉に、つくしは俯いて、きゅ、と唇を噛み締める。司のことを思うと、自然と涙が頬を伝っていった。

◇ ◇ ◇


 ――婚約なんて……、結婚なんて、しないでよ。
 ――あんたが、そう望むなら。

 類は、つくしにあげたはずの指輪を握り締め、そっと口付けた。つくしとの約束を、違えるわけにはいかない。
 それをポケットに収め、類は斗吾の部屋をノックする。

「父さん、話が……」

「遅いぞ、類。なにをしていた?」

 声は、室内からではなく背後からだった。振り返ると、そこには正装した斗吾と母・みやびの姿があり。

「父さん。大事な話が……」

「あとにしなさい。芹香さんから話は聞いているだろう? 今から、橘さんのところへ行く」

「……」

 なんの用事で、芹香のところへ行くのか。聞かなくてもわかる。類と、芹香の。

「だからこそ、今、話がしたい」

 ぎゅ、と拳を握り締め、類はまっすぐに斗吾を見据えた。

「好きな人がいる。だから、橘芹香とは結婚しない」

「まぁ」

 真剣な類の面持ちに、雅は嬉しそうに顔を綻ばせる。だがそれとは反対に、斗吾の表情は険しいもので。

「馬鹿を言うな。惚れた腫れたで結婚相手を選べるような世界でないことは、百も承知だろう」

「だったら、俺を捨てればいい。花沢の名なんて、俺にとっては迷惑なだけだ。好きな女一人守れなくて会社が守れるなんて、到底、思えな……」

「あなた!」

 瞬間、類の頬が、ぱん、と音を立てた。慌てて、雅は斗吾を抑えるように類の頬を鳴らした右手に自身のそれを添える。

「花沢の家に産まれた以上、勝手は許さん」

「……」

 雅の手を振り払い、斗吾は類に背を向けた。そうされてから、雅は類に近付き、鳴った頬にそっと手を寄せる。

「類、大丈夫?」

「……」

 軽く頷いて、類は雅を見つめた。

「母さん、俺……」

「大丈夫よ、類。お父さまも、きっとわかっていらっしゃるわ」

「……そうは見えないけど」

「見えないだけよ。子供のことを考えない親はいないもの」

「……」

 ポケットからハンカチを取り出し、雅はそれを類に握らせる。そうしてパタパタと音を立てるように、斗吾のあとについて行った。

 類は拳を作り、それを床に叩きつける。好きな女一人守れなくて。あれは、自分自身に言い聞かせた言葉だ。

 今、どこにいる? 泣いてない? 寂しくない? つらくない?

 つくしの温もりを憶えている身体が、つくしを欲して止まない。
 確かに、温もりを感じていたのに。今、つくしはそばにいなくて。つくしの、そばにはいれなくて。

「牧野……」

 名前を呼んでも、当然のことながら返事はなく。会いたい気持ちだけが、膨らんでゆく。

「……っ」

 頭を抱え、類は自分の不甲斐なさに憤りを感じながら、嗚咽を漏らすのだった。

◇ ◇ ◇


「パパ」

「ん? どうした、芹香?」

 神妙な面持ちで近付いてくる芹香に、父・啓三けいぞうは眉を顰めた。

「パパ、私……、留学したいの」

「留学?」

 不意な愛娘の提案に、啓三は芹香の顔を覗き込む。

「一体、急にどうした? 今日は、類くんとの……」

「類との婚約は、なかったことにしたいの」

「……なに?」

 あれだけ、類に執着していたというのに。一体、芹香になにがあったのか。啓三の顔が、段々と蒼褪めていく。

「ど、どうしたというんだ、一体? 類くんとなにか……」

「違うの、パパ。類はなにも悪くない。悪いのは、私なの」

「……」

 啓三は、言葉をなくした。なにがどうなっているのか、皆目、検討もつかない。

「私、間違ってた。自分の気持ちを押しつけたって、類の気持ちが私に向くことはなかったのに。それでも類のそばにいられれば、いつかは類が私を好きになってくれるんじゃないかって、そう思ってた」

「せ、せり……」

「類のことが大好きなの。だから、これ以上彼を苦しめたくない」

「……」

 驚き目を見開いたまま、啓三は黙って芹香の口から紡がれる言葉を聴いていた。

 産まれたときから、目に入れても痛くないほどにかわいかった芹香。
 なにをするにも啓三がしゃしゃり出て、決して芹香一人でなにかをさせようなんて思ったことは一度もなかった。

 その芹香が、今、一人で立ち上がろうとしている。一人で類との別れを決め、一人で留学しようとしている。
 喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか。

「……本当に、それでいいんだな?」

「うん。もう、決めたの」

 吹っ切れたように、芹香ははっきりとそう言った。

「わかった。好きにしなさい」

「ありがとう、パパ」

 芹香が啓三に笑顔を見せると、そこへ使用人が姿を現した。

「失礼します。芹香さま、美作さまがお見えになっておいでですが、いかが致しましょう?」

「え? 美作さん?」

「はい」

「……」

 意外な人物の来訪に、芹香は目を丸くする。わざわざ来ているからには、なにかしらの用事があるのだろう。類のことだろうが、無下にするわけにはいかない。
 ちら、と壁にかかっている時計を確認すれば、30分ほど時間が取れそうだった。

「私の部屋に通して差し上げて」

「畏まりました」

 芹香の言葉に一礼して、使用人は下がっていく。それを確認したあと、芹香は啓三を向いた。

「パパ、類が来たら教えて。類には、私の口からちゃんと言いたいの」

「わかった。そうしよう」

 笑顔で啓三が頷いたのを確認して、芹香はあきらが待っているであろう自分の部屋に向かった。



「よぉ。日当たりいいじゃねぇか、この部屋。眠くなりそうだぜ」

「……」

 部屋に入るなり、あきらにそう話しかけられる。芹香は軽く息を吐いて、窓際に置いてあるソファに腰かけた。

「なんのご用かしら? 申し訳ありませんけど、今から類が来るの。そんなに時間は……」

「時間は取らせねぇよ。言うことは一つだけだ」

 芹香の前に立ち、あきらはまっすぐに芹香を見据える。

「類のことは、諦めてほしい」

「……」

「頼む」

「……」

 あきらのまっすぐな瞳に、芹香は息を吐く。じっと目を瞑り、しばらく俯いて口を閉ざした。そうしてようやく、決心したかのように重い口を開く。

「その、つもりよ」

「え?」

「類のこと、諦めるわ」

 芹香の言葉に驚いて、あきらは大きく目を見開いた。絶対に、一筋縄では行かないと思っていた。それなのに。

「類のことが好きだから。だから、これ以上彼を苦しめないために。パパにも、さっき話したわ」

「お前……」

「私ね、誰かをこんなに好きになったの、初めてだった。だから余計に……躍起になってたのかも。私の望んだものが手に入らないなんて、今までなかったから」

 くす、と口元を綻ばせて、芹香はそう言葉を続ける。金持ちならでは、なのだろう。望んだものが手に入らない、なんてことを今まで経験したことがなかったのは。

「類よりいい人、見つけなきゃ。私だけを見ていてくれる人を」

「……見つかるさ、きっと」

 ふ、と笑んで、あきらは芹香の頭に、ぽん、と手を乗せる。そうして、くしゃり、と髪を撫でた。

「類よりいい男がいるかは微妙だけどな。お前だけを見ていてくれる奴は、きっと見つかる」

「……ええ」

 芹香はソファから立ち上がり、悲しげに眉根を寄せる。

「私ね、類のことが……本当に、大好きだった」

「……知ってるよ」

「どんなに嫌われてても、形の上だけでも繋がっていたかった」

「けど結局、それは自分を苦しめただけだっただろ?」

「……そうね」

 あきらの言葉に頷いたと同時、芹香の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
 両手で顔を覆い、嗚咽を漏らしながら言葉を続ける。

「それでも、諦められなかった。そばにいたかったの……」

 目の前で涙を流す芹香の肩を、あきらはゆっくりと抱き寄せた。
 あんなに気が強くて、どちらかと言えば好きではなかったタイプの芹香だが、今はとても弱々しくて。

「いいさ、泣けよ。泣いて泣いて、泣き止んだら。そうしたら、新しい恋のために前に進めるようになるさ」

「……っ」

 芹香のか細い肩を、あきらは突き放せなかった。

 しばらく涙を流したあと、急に恥ずかしくなったのか、芹香は、ごめんなさい、と慌ててあきらの腕の中から離れた。

「年甲斐もなく泣いちゃって……、本当にごめんなさい」

「泣くのに、年齢なんて関係ないんじゃないか?」

 諭すような瞳で、あきらは芹香を見つめる。

「いくつになったって、泣きたいときは泣けばいいんだよ。我慢なんてする必要ない」

「……」

 あきらの言葉に、またも芹香の涙腺が緩んだ。だめだめ、と顔を振り、芹香はあきらに背を向ける。

「だめよ。これ以上泣いたら、すごいブスになっちゃう。そんな顔見せたら、類に笑われちゃうわ。今日が……最後なのに。最後くらい、きれいにさよならしたいじゃない?」

「ま、それも一理あるけどな」

 ぽん、とあきらの大きい手が、芹香の頭に乗った。

「涙を我慢する必要はねぇってこと、しっかり覚えとけよ? 俺の肩でよかったら、いつだって貸してやるから」

「ありがと。覚えとくわ」

 振り向き、くす、と笑んで芹香はそう言う。

「その代わり、私を泣かせたことも覚えておいてね?」

「おいおい、俺が泣かせたわけじゃねぇだろ」

「泣かされたのよ」

「俺に?」

「もちろん」

 言って、ふふ、と笑う。芹香のこんな無邪気な表情を見るのは、初めてかもしれない。こんなふうに笑える女だったのだ、と初めて知った。

「そろそろだろ、類が来るの? 大丈夫か?」

「大丈夫よ」

 破顔して、芹香はガッツポーズをして見せる。

「美作さんに、元気をもらったもの。ちゃんと話すわ」

「おう。頑張れよ」

 にっ、と口元を綻ばせて、あきらは部屋をあとにしようとノブに手をかける。すると、ねぇ、と後ろから声をかけられた。

「本当に……、泣きたいときは、肩を貸してくれる?」

「ああ」

 頷いて、あきらは芹香の前に小指を突き出す。

「約束だ。俺は、嘘は言わない」

「……」

 震える手で、芹香はあきらと同じように小指を伸ばす。そうして、ゆっくりとあきらのそれに自分の小指を絡めた。

「レンタル料、高いけどな」

「ひどい人ね」

 口元を緩ませた芹香の額に、こつん、とあきらは自分の額を合わせる。

「その笑顔でいい」

「え?」

「レンタル料。笑顔でいてくれたら、それで十分だ。それ以上のレンタル料はねぇよ」

「……」

 あきらは、きっと女性の涙の壺を心得ているのかもしれない。さらっと歯の浮くような台詞を言って、涙腺を緩ませる。気障な台詞なのに、今はどうしてかその言葉が、すぅ、と芹香に沁み込んでいく。

「……ありがと」

 そう素直に感謝の気持ちを言葉にできたのも、きっとあきらのおかげかもしれない。