花より男子/シロツメクサ(22)


「――…ん」

 混沌とした意識の中、つくしは締めつけられるような抱擁で目を覚ました。身を捩ろうとすれば、下腹部に鈍痛が走り。瞬時に、乱れた情事の光景が脳裏に浮かぶ。

「目、覚めた?」

 耳元で声が響き、思わずドキっとする。

「は、花沢類……」

「また、花沢類に戻ってる」

 くす、と類がそう言って笑う。

「かわいかったよ、牧野の寝顔。それと、その前も」

 悪戯に笑まれて、ふと思い出すその前の出来事。
 ぼんっ、と音がするように、瞬時につくしの顔が真っ赤に染まった。

「か、からかわないでよ!」

「別に、からかってるわけじゃないよ。ずっと見てて、素直にそう思ったんだから」

「だ、だから……っ」

 つくしは類の胸を押しやろうとして、ふと思い止まった。

「……ずっと、って」

「ん?」

「もしかして、寝てないの?」

「……うん」

 類はゆっくりとつくしを引き寄せ、耳元で静かに呟いた。

「怖いんだ」

「え?」

「今が、幸せすぎて。夢から覚めたあとが、怖くて堪らない」

「……」

 ぎゅぅ、とつくしを抱き締める類の手に、力が入る。

「夢から覚めるのが嫌で、怖くて眠れない」

 この幸せが永遠でないことを、互いに理解していた。幸せで、胸がいっぱいで。だからこそ、手放せなくなった。

「大丈夫だよ」

 締めつけられる類の腕の中、それでも身体を動かして、つくしは類の頬に手を添えた。

「今までも、これから先も。なにがあっても、花沢類はあたしの一部だから。ずっとずっと、花沢類だけを……愛してる」

 ――愛してる。

 その言葉だけは、絶対に言わずにいようと思っていた。言ったそばから、離れたくなくなるから。でもつくしのひと言で、類が安心できるのなら。

 つくしは手を伸ばし、胸に抱き留めるように類を引き寄せた。
 つくしの生きている音が、類の耳に伝わる。その安定した心音に、類は落ち着いて。相当眠かったのであろう。類が寝息を発てるまで、そう時間はかからなかった。

「……ごめんね」

 類の寝顔に、つくしは呟く。そっと触れるだけのキスをして、つくしは類を起こさないように気を遣いながらベッドから抜け出した。

 床に散乱した衣服を拾い、静かに身に纏う。そうして身形を整えてから、つくしはベッドに眠る類のそばに立った。

 安心しきったように眠る類の左手を、つくしは握り。慈しみながら、自身の頬に触れさせた。
 大好きな、類の大きな手。それを頬から離し、つくしはゆっくりと類の指に嵌められている指輪を抜く。ぎゅ、とそれを握り締めて、つくしは自分の左手からも指輪を抜き取った。

 こつ、とテーブルと指輪の当たる音が、静かに室内に響く。
 類と、類からもらった指輪を室内に残して、つくしは部屋をあとにしたのだった。

◇ ◇ ◇


 つくしは、静かに手の中に収まっている指輪を見つめ、それを握り締めると唇に寄せた。ごめんね、と何度思っても、足りない。
 愛する類を置いて部屋を出てきたこと、きっと類ならわかってくれるはず。
 そう信じて、つくしは指輪をポケットの中に入れた。

「つくしちゃん」

 名前を呼ばれ、遠くに椿の姿を発見する。ほっと胸を撫で下ろしたつくしは駆け寄って声をかけようとして、椿の隣にいた男性の姿に目を見張った。

「な、なんで?」

 てっきり、椿だけだと思っていた。それなのに。

「ごめんね、遅くなって。ちょっと手続きに時間がかかって。でも、もう大丈夫よ」

「……」

 椿の説明も上の空、と言わんばかりに、つくしは椿の隣にいるあきらを凝視していた。くす、と口元を綻ばし、椿が口を開き始める。

「あきらはね、ずっとつくしちゃんのことを心配してたのよ」

「え?」

「今回のことも、あきらが言い出したの。司からも類からも離れさせてやってほしいって。このままじゃ、つくしちゃんがだめになるからって」

「……」

 あきらは、つくしを穏やかな表情で見つめていた。ゆっくりとつくしに近付いて、大きな手で、くしゃり、と頭を撫でる。

「あとのことは、俺と姉ちゃんに任せとけ。絶対に、牧野の所在はばれないようにする」

「……美作さん」

 つくしの瞳が、次第に潤み出す。言葉を発することができず、ただただ頷いた。

「そろそろ行きましょうか。早く発たないと、司が日本へ帰ってくるわ」

 腕時計を確認しながら、椿がそう口を開く。

 つくしは今から、逃げるように日本を発つ。いや、逃げるように、ではなく、逃げるのだ。
 類との思い出だけを胸に残して、新たな人生を歩む。そう決意して、椿の提案をのむことにしたのである。

「牧野」

 荷物を持って出国ゲートへ向かおうとしたつくしを、あきらが止める。切なげな瞳に、つくしは首を傾げた。

「キスしてもいいか?」

「え?」

 言葉に、ドキン、と胸が躍る。今、なんて言ったの、と聞きたいのに、口を開くという行動さえ起こせない。
 すると、戸惑うつくしをよそに、ゆっくりとあきらが近付いてきた。そうして肩に手を置かれて、優しく、そっと額に唇を寄せる。

「頑張れよ、つくし」

 あきらの囁きに、途端に溢れ出す涙。
 この人も、ずっとつくしを見守ってくれていたのだ。つくしがつらいとき、そばで支えるわけでもなく椿に連絡をしてくれた。つくしの気持ちが休まるように、つくしのことを考えて。

「ありがとう、美作さん」

 破顔して、つくしはあきらに背中を向ける。
 椿とともに出国ゲートへと消えるつくしを、あきらは静かに見守ったのだった。

◇ ◇ ◇


「……」

 つくしのアパートの前、司は佇んでいた。
 予定よりも早く帰国し、つくしを驚かそうと思って。楓になんの文句も言われぬよう、死に物狂いで仕事を終わらせてきた。

 すぅ、と大きく息を吸って、司はドアノブに手をかける。かちゃ、と音がして、ゆっくりとドアが開かれた。鍵が、開いている。
 不自然に思い、司は恐る恐る室内に足を踏み入れた。

「牧野?」

 部屋は、しん、と静まり返っていて、人のいる気配は感じられない。ゆっくりと、司は室内へ入っていく。

 息を吸えば、つくしの匂いを感じた。それは、ここに確かにつくしが住んでいたという証拠であり。不自然に整理された部屋に、司は違和感を隠せなかった。

 ぴちゃん、という水音が、嫌に耳に響く。呆然と、司はその場に立ち尽くす。
 思っていたよりも、ずっと冷静でいられた。

 なんとなく、つくしが大人しくここで待っているはずがないと予想していた。思ったとおりの結果に、ふ、と口元が緩む。だが。

 司は徐に、ポケットから携帯を取り出した。ディスプレイに表示したのはつくしではなく、親友の名前。きっと今、つくしが一緒にいるだろう親友の番号。

 わずかに躊躇し、それでも司は発信ボタンを押下する。2回、3回とコールするが、携帯が通話状態になる様子はない。
 それもそうかもしれない。寝ることが大好きな男が、こんなに朝早く起きているわけがないのだ。

 司は類に電話をかけるのをやめ、今度は総二郎の携帯に電話をかける。総二郎は、4度目のコールで電話に出た。

『なんだよ、こんなに朝早く』

 ふわ、と欠伸をしているのが、電話口からでも伝わる。いつもとなにも変わらない様子の総二郎に、司は少しだけ安堵の息を漏らした。

「牧野がいねぇ」

『は?』

 司の言葉に、総二郎はようやく目が覚めた声になる。

『いないって、どういうことだよ?』

「さぁな。それが牧野の答えなんだろ。俺と一緒にニューヨークへ行かないっていう」

『……』

 はー、と深く息を吐き出しながら呟いた司に、総二郎は口を噤む。瞬間的に、思ったことは同じだったかもしれない。

「今から、類のところに行ってくる」

『え!? ち、ちょっと待て、司っ。牧野が類のところにいるなんて……』

「ああ、わからねぇ。だが、あいつらは一緒にいる。……そんな気がする」

『……』

 きっぱりとそう言い切る司に、総二郎は言葉を詰まらせた。司の、本能とも言える勘。もちろん、総二郎も考えなかったわけではない。

 今までがそうだった。
 つくしがいなくなって、大概、発見されたときには類と一緒にいた。今回も、ありえないことではない。

「じゃあな、総二郎」

『お、おい、つか……っ』

 総二郎の言葉を途中に残し、司は携帯を握り締めたままつくしの家をあとにしたのだった。

◇ ◇ ◇


「……牧野?」

 もぞもぞとベッドの中で、類は手を伸ばす。つくしの香りはそこに確かに残っているのに、本人はそこにはいない。やっぱりか、と類は息を吐いた。

 なんとなく、目が覚めたらいないような気がしていた。あれは夢だったのか、それとも現実だったのか。類が確かめる術は、類の中に残る温もりでしかない。

 重い身体を起こして、類はふと、ベッド脇に置いてあるテーブルに視線を向ける。キラ、と光る、小さなもの。徐に手を伸ばし、類はそれを取った。

「置いて行ったんだ。牧野らしいな」

 くす、と笑みをこぼし、類はその指輪を握り締める。そうして初めて、違和感に気付いた。

 左手に握り締めているのは、大きさからして確かにつくしのものである。だとするならば、類が嵌めていた指輪は一体どこに行ってしまったのだろう。
 たとえ一方通行でも、あの指輪はつくしとの繋がりを持つ唯一のものである。なんとしても探し出さなければ。

 類はシーツを腰に巻き、床に散乱している衣服に手を伸ばした。その刹那、バタバタと廊下がざわめきだし、バン、と勢いよくドアが開かれた。

「――…司」

 そこにいたのは、無二の親友であり。その親友を裏切った明くる朝一番に、まさかここに来るなんて。

「おまえ、昔から裸で寝る奴だったか?」

「……」

 司の質問に、類は黙って衣服を拾い始めた。
 野生の勘、とでも言うべきか。司は、昨夜の情事に気付いている。そう、直感した。

「類。おまえ、今までずっと一人だったか?」

「……」

 この場合、なんと答えればいいのであろう。正直に、『朝までつくしと一緒にいた』と言うべきか、それとも『ずっと一人だった』と偽るべきか。
 最良は、どちらなのだろう。

「答えろ、類」

「……さっきまで、牧野と一緒だった」

 言い終わると、同時だったかもしれない。類の身体が大きく飛び、壁に叩きつけられる。その勢いのまま、司は類の胸倉を掴み上げた。

「もう一度、言ってみろ」

 類は目を瞑り、ふぅ、と小さく息を吐き出す。

「ごめん、司。俺、牧野とヤッちゃった。……これでいい?」

 胸倉を掴んでいた司の手が、類の首元に移動する。ガシャーン、と激しい音がして、窓ガラスが粉々に砕けた。

 割れた窓から、類の首だけ覗かせる。桟に残ったガラスの破片が類の項に突き刺さり、鮮血が花沢邸の壁に一筋の道を作る。
 司に殺されるのなら、それもいいかもしれない。もう、この世に思い残すことなんてなにもないから。

 項の痛みなど気にするふうもなく、類は静かに目を閉じた。

「司、やめろっ!」

 刹那、声とともに、司が羽交い締めにされる。

「大丈夫か、類?」

 司の腕が外れ、類は、こほ、と咳き込みながらその場にうずくまった。顔を上げれば、暴れる司を抑えつけているのは総二郎で、類のそばに駆け寄ってきたのはあきらだった。

「二人とも、どうして……?」

「司が、ここに来る前に総二郎に連絡してたんだよ。で、俺は総二郎から連絡もらって。……つーか、本当、焦ったぜ」

 はー、と全身の力を抜くように、あきらは大きく息を吐き出した。

「……司」

 首元に残るわずかな痣に手を添えながら、類は司に視線を移す。総二郎によって羽交い絞めにされた司は、荒れる呼吸を整えながら俯いた。
 ふー、と息を吐き出して、類は司を見やる。
 大切な親友を二度も裏切って……、許してもらえるとは、到底思えない。だが。

「司、俺……」

「いいか、類」

 類が口を開こうとすれば、司はそれを遮ってまっすぐに類を見つめた。そうして総二郎の腕から逃れるように振り払い、類に背中を向ける。

「謝ったりすんじゃねぇぞ。俺も、今日のことは謝らねぇ」

「司……」

「今はまだ、おまえの顔をちゃんと見れる自身がねぇ。だが、待ってくれ。そのうち、ちゃんと……おまえらのこと、心から祝福してやれる日が来ると思うから」

「……うん」

 司の口から紡がれる言葉を、総二郎とあきら、そして類は静かに聞いていた。
 あの司が、こんなに冷静に話をできるようになるなんて。やはり4年という歳月は、決して短いものではなかったのだと痛感する。

 ありがとう、と心で思い、類は頷く。暴れることでしか解決策を知らなかった司が、大人になったな、としみじみそう思う。

「牧野にも、そう伝えといてくれ。俺はすぐニューヨークに戻らなきゃなんねぇ。もともと、牧野を連れてすぐに戻るつもりだったからな。あんまりニューヨークを離れてると、またババアになに言われるかわからねぇし」

「了解。牧野を見つけ次第、ちゃんと伝えとく」

「あ?」

 ふ、と口元を綻ばして言った類の言葉に、司は思わず振り返る。

「たぶん、また雲隠れ。なにかあると、いつも、でしょ?」

「ったく。あの馬鹿」

 頭を掻きながら、司がそうため息を吐いた。

「道明寺財閥の総力を尽くして捜し出してやる。見つけたら、類、今度は絶対に離すんじゃねーぞ」

「うん。でも、警察沙汰はやめてよね」

「そりゃあ無理だな。一番手っ取り早い」

 ゆっくりと、類は司に歩み寄り。拳を、そっと司の前に突き出す。同じように拳を突き出し、司は、こつん、とそれを合わせた。