花より男子/シロツメクサ(20)


「お世話になりました」

 深々と、つくしは千石屋の女将に頭を下げた。

「こちらこそ。牧野さんのおかげで、店が活気づいてよかったわ。明日、ニューヨークへ行くんですって?」

「……はい」

 女将の言葉に、つくしは少しだけ沈んだ声で返事をする。

「あなたならどこへ行っても大丈夫だろうけど、頑張ってね」

「はい。ありがとうございます」

 もう一度、つくしは女将に頭を下げて。名残惜しそうに、千石屋をあとにした。

 何年も勤めていた千石屋。やはり辞めるのには、少しばかり寂しさもある。いや、千石屋だけではない。

 つくしは立ち止まり、はぁ、と白い息を吐いて空を見上げた。明日には、この空を日本ではなく異国の地から見ることになる。
 鞄の中に忍ばせてある、二つの携帯電話。真新しい方のそれを手に取り、また深くため息を吐く。

 椿の申し出を受け入れる勇気が、つくしにはなかった。優紀と話して、余計に自分の想いがはっきりして。だからこそ逃げたかった。
 だがすべてを捨てて、一人だけのうのうと過ごすわけにはいかない。

 28日を明日に控えた今日。今更、迷えない。司との将来のために、つくしはニューヨークへ行く。以前交わした約束通り、司を幸せにしてあげるために。
 でも、できることなら。類と一緒に、幸せになりたかった。

 だが、二度も司に深い傷を負わせるわけにはいかない。古傷を抉るような真似なんて、絶対にできない。
 類を選ぶか、すべてを捨てて逃げ出すか。それとも今まで通り、司と一緒にいるか。たとえすべてを捨てて逃げ出したとしても、司はそれの奥底に隠された真意に気付いてしまうかもしれない。司よりも大切にしたい人ができたから、逃げ出してしまったのだ、と。

 結局、今までどおりの関係でいる以外に、司が傷付かない道はなくて。
 椿からもらった携帯を、つくしは抱き締めるように胸に握り。再度、深く息を吐き出した。

「本当、ため息ばっか」

 自虐的に笑いながら、つくしはそう呟く。

「ため息吐くと、幸せが逃げるって言わない?」

「うん、知ってる。わかってるんだけど、ため息って吐かずにはいられないっていうか……。……」

 不意に聞こえてきた声に答えながら、つくしは、あれ、と首を傾げた。

「あんたって、本当見てて厭きないよね。こんな道路脇で一人で百面相するの、牧野だけだと思うよ」

「は、花沢類……」

 振り向いた先にいたのは、間違いなく優しいビー玉の瞳をした類であり。
 会いたくなかった。決心が鈍るから。そう思う反面、やはり嬉しくもあって。

 その胸の中に飛び込みたい衝動と、逃げ出してしまいたい思いで。つくしは、居た堪れない気持ちでいっぱいだった。

「さ、散歩? こんなところで会うなんて、本当偶然」

 慌てて、握り締めた携帯を鞄に入れた。そうして吃りながら、つくしは類の顔をあまり見ないようにして口を開く。

「偶然っていうか。牧野いるかなって思って覗いたら、牧野がいるのが見えたから。出てくるの、ずっと待ってたんだ。会いたくて」

 そう言う類を、つくしは見上げた。鼻先が、ほんのり赤くなっている。12月後半、外で待っているにはとても寒い季節。
 それでもつくしに会いたいという一心で、類は待っていたのだろう。

 類は、そっとつくしの左手を自身に引き寄せて、その指先に軽く唇を触れさせた。時刻は、夜の8時。辺りは暗いとはいっても、まだまだ人通りのある場所である。
 だが類の柔らかい唇がつくしの指先に触れた瞬間、周囲の人影や声が一切聞こえなくなってしまった。世界に、二人だけしか存在していないかのような錯覚。

「花沢、類……?」

 堪らず名前を呼べば、類は名残惜しむように唇からつくしの手を離した。そうしてつくしの手を取ったまま、空いている手でポケットを弄る。

「……?」

 なにをしているのだろう、とつくしは首を傾げた。だがそれを気にするふうもなく、類はポケットから取り出したそれを、しっかりとつくしの薬指に嵌める。左手の薬指に煌くそれは、紛れもなく指輪であり。

「誕生日プレゼント。明日、渡す暇なんてなさそうだから」

 明日、28日。つくしの、21回目の誕生日。

「あ、あたしに、もらう理由なんて……」

「俺があげたいんだ。牧野には、本当に感謝してるから」

 思わず指輪を外そうとしたが、類に優しく制される。今にも涙がこぼれ落ちそうなほどに嬉しいのに、それをあからさまに表現することもできなくて。

「……ありがとう、花沢類」

 つくしは慈しむように優しく、指輪ごと手を抱き締める。
 類の想いが、きっとたくさん詰まっているであろう指輪。その重みがつくしの罪をより一層のものにするが、それでもやはり嬉しさは隠せない。

「ね、花沢類。今、なにかほしいものとかってないの?」

「ほしいもの?」

「うん。これのお返し。なにかあげたくて」

 嵌めてもらった指輪を類に見せながら、つくしは努めて明るい声でそう言った。

「いいよ、そんなの」

「もらうだけなんて、そんなの無理。それに、今じゃなきゃ、お礼なんて……」

 言いかけて、つくしは口を噤む。それ以上、言えなくて。

 明日の昼すぎには、司が迎えにくることになっている。そうなれば、いつ日本に……類の元に戻って来れるかわからない。もしかすると、一生帰れないかもしれない。

 だからこそ今、なにかしらの形でお礼をしたいと思った。類と二人で過ごすのは、今が最後の瞬間かもしれないから。

「なんでもいい?」

「え?」

「お返し」

 にっこりと笑んで、類はつくしを見つめている。その表情にドキっとしながらも、もちろん、とつくしは声を上げた。

「あたしにできることなら」

 どん、と胸を張って、つくしは類に笑顔を向ける。
 類と二人でいることが、これで本当に最後になるのだとしたら。寂しいけれど、類とつくしが男と女である以上仕方がないのかもしれない。男女間の友情なんて、周囲にしてみれば奇異でしかないのだろうから。

「じゃあ、さ」

 少しだけ、声を潜めて。言いにくそうに言葉を淀めながら、類はしっかりとつくしを見据えた。

「結婚、しよ」

「――…え?」

 思わず、つくしは自分の耳を疑った。

「結婚した、フリ」

 切なそうに俯いて、類はそう口を開き始めた。

「明日の昼には、牧野は司と一緒にニューヨークの空の下にいる。それはずっと前からわかってたことだし、祝福してあげたいって気持ちももちろんあるよ。だけど……」

 大切な親友と、その親友の彼女。その二人に挟まれて、自分の気持ちを押し殺すにも限界があって。

「最後に……、俺に、牧野との思い出を作らせて?」

 大好きな、ビー玉の瞳。断ることなんて、つくしには到底できない。それになにより、つくし自身も望んでいることだから。

「……うん」

 大きくつくしが頷けば、類は心底ほっとした顔付きになった。そうしてゆっくりと、つくしの両手を握る。そうして気付く、類の左手の薬指に嵌られている指輪。

「牧野」

 この幸せの瞬間は、もう二度とないだろう。互いに手を取り合い、生涯を誓い合う。明日には違う人とこうして手を取り合っているであろう現実の前に、今だけはそれを忘れたくて。

「結婚、しよう?」

「……うん」

 つくしの頬を、涙が伝った。司と結婚する前、司との婚約を控えた今だけれど、今しかできないことだから。
 小さくつくしが頷いたのを確認して、類はそっと近付き。こつん、と額を合わせる。

「……つくし」

 額を合わせたまま、類がつくしの名前を呼ぶ。繋いだ手を、どちらからともなく絡ませて。そうすることで、なにを言わなくても通じ合える気がした。

「愛してる」

 あたしも、とは言えなくて。静かに、つくしは類の言葉に頷いた。

 絡み合った互いの手に、揃いの指輪が煌いている。たとえたった一晩限りのことだとしても、この瞬間の幸せは決して忘れない。この瞬間の喜びは、きっと一生、心の中に残っている。

 合わせていた額がずれて、ふとつくしは顔を上げる。ゆっくりと類の唇が下りてくるのを察し、つくしはそっと目を閉じた。

「……」

 なんとなく、気まずくて。つくしは、口を開けなかった。

 1度目のキスは、つくしの一方通行の想いだけで。類は、静のことで傷心していた。
 2度目のキスは、類からの一方通行で。つくしは、司と交際中だった。

 そして、3度目の正直と言わんばかりのキスは。お互いに婚約者とも呼べる人物がいる状況の中ではあったが、一番、想いは通じ合っていたと思う。

「ぷ」

 不意に類の笑い声が聞こえてきて、つくしは顔を上げた。

「あんた、すげー緊張してる、もしかして?」

「!」

 類の言葉に、一瞬でつくしの顔が赤く染まる。花沢類、と怒りを露にした声で怒鳴ろうとしたつくしを、でも、と類が優しく抱き寄せた。

「俺も同じかな。嬉しくて、すごい緊張してる」

「……」

 包み込まれるように抱き寄せられた類の腕の中で、つくしはなにを言うこともできなくなってしまって。
 本当にこの腕の中にいられたなら、と思わずにはいられなかった。

「時間、もったいないよ」

 想いを押し込めて、つくしは類の腕から逃れるように胸を押す。

「さ、これからどこに行く? デートしようよ、花沢類」

 それがつくしの、精一杯の笑顔だった。絶対に、気持ちを悟られるわけにはいかない。明日には、違う男の元にいなければならないのだから。

 ふ、と口元を綻ばせて、類はつくしの頭に、ぽん、と手を乗せた。

「前にも言ったと思うけど、類でいいよ、俺のこと。あんたは頑なに、俺のことをフルネームで呼ぶけどさ」

「だ、だって……」

 何年も前に、初めてデートをしたときのことを思い出す。今と同じように、類でいいよと言ってくれたけれど。あのときは、静と同じように類を呼べない、とそう思ってしまって。

「じゃあ、お願い。俺のこと、名前で呼んで」

「……ぅ」

 天使の微笑みではなく、それは悪魔の微笑みであったかもしれない。絶対に、断れない笑顔。類の笑顔には、そういう力がある気がする。

「ど、努力します」

「うん」

 くす、と笑んで、類はつくしの頭を、くしゃり、と撫でた。

「お腹空いてるんじゃない? なにか食べに行こうか?」

「う、うん。……あ、でも」

 突如、つくしはあることを思い出す。

「いいよ、俺の奢り。俺の我儘を聞いてもらってるんだから、そのくらいさせて」

「我儘って……」

 つくしの思考を読み取るように言った類に、つくしは反論しようと口を開こうとするが。
 類が望んでいることをつくしも望んでいるのだとしたら、それは類だけの我儘ではない。そう思ったが、言うといけない気がして。

「行こう、牧野」

「……うん」

 差し出された類の手を、つくしはしっかりと握り締めた。



「……」

「なに?」

 目の前に出された料理を勢いよく頬張るつくしを、類は目を丸くして見つめていた。

「いや。相変わらず、よく食べるなって」

「だって、美味しいんだもん」

「それはよかった」

 ほっとしたように、類は水の入ったグラスを手に取る。

「美味しくない?」

「んー。俺の口には合わない、かな」

 つくしとは対照的に、類の箸は止まっていた。はぁ、とため息を吐いて、つくしは思わず口を開く。

「そんなんじゃ、一緒に暮らすようになったら大変ね」

 言ってから、しまった、と思った。今のは、まるで。

「大丈夫。牧野が作ったものなら、なんだって美味しいから」

「……」

 間違ってはいけない。類のプロポーズを受けたのは、あくまで思い出作りのためだけで。
 明日には、つくしは司の隣に立っていないといけないのだ。そのことを、忘れるわけにはいかない。

「は、花沢類の夢って、なに!?」

 話題を切り替えるように、つくしは戸惑いながら口を開く。

「なに、突然?」

「いや、ほら。あ、あたしは、さ、将来の夢って、結構いろいろあって。弁護士になりたいとか、保育士になりたいとか。それこそ、本当にいっぱいあるんだ。一つになんて決められないくらい。花沢類……ていうか、F4は、結局決められた将来が待ってるのかもしれないけど、それでも将来なにになりたいかって考えたこと、一度くらいはあるんじゃないの?」

「……」

 緊張しているのだろうことが窺える、つくしの饒舌。類は一笑して、そうだね、と話し始めた。

「小さい頃には、夢なんて特になかったけど。今は……広い土地に、小さな家を建てて。誰にも邪魔されず、あんたと二人で暮らしたい。寝ても覚めてもあんたが隣にいて笑っていてくれたら、それだけで幸せだろうね」

 ふ、と口元を綻ばせながら言われた台詞に、どきん、とつくしの心臓が踊る。そして、聞かなければよかった、と少しばかり後悔した。

「今、聞かなきゃよかったって思ってる?」

 くす、と笑みながら、類はつくしを見つめる。ぎく、としたように、つくしは顔を強張らせた。

「夢なんて、叶わないものなんだよ。叶う夢なんて、結局、大したことじゃないんだ」

「……」

 類は、諦めを知っている。だからこそ、叶わない夢に想いを馳せて。

「わかった」

 きゅ、と口を結び、つくしは、ばん、と机に手をつく。

「叶えてやろうじゃない、その夢」

「……え?」

 凄むようなつくしの声に、類は目を丸くした。

「花沢類が暮らしたいっていう、その場所、どこかにあるんでしょ? 今からそこに行こう、花沢類!」

「……」

 強い決心をしたであろうつくしを、類は呆然と見つめていた。