花より男子/シロツメクサ(2)


「……西田」

「はい」

「今、何月だ?」

 椅子に腰かけて、司は、ふー、と深く息を吐き出した。手を腹の上で組み、背凭れに身体を預けて。目の上を、冷たいタオルで覆っている。

「11月でございます」

「あと、4ヶ月もあんのか」

 そばに立っている西田の言葉に、司は再度、大きくため息を吐いた。徐に身体を前屈みにし、目を覆っていたタオルを手に取る。

「わかっちゃいたが。……長ぇな、4年て月日は」

 西田は、ただ静かに。司の邪魔にならないよう、そこに立っていた。
 元々は司の母である楓の秘書だった西田は、司がつくしとの遠距離恋愛を決めニューヨークへ来たころ、司専属の秘書に代わった。今になって思うと、楓から司への唯一のプレゼントだったのかもしれない。

「電話、されますか? あと5分は休憩できますが」

「……」

 時計を見ながら言った西田の言葉に、司は一瞬躊躇う。だがすぐに冷静になり、椅子から立ち上がった。

「休憩は終わりだ。とっとと移動するぞ」

「はい」

 軽く頭を下げ、西田は部屋を出て行く。司はゆっくりと窓際に立ち、邸の庭を見下ろした。こつん、と額を窓につけ、そっと目を閉じる。

「電話、か」

 最後に話したのは、いつだったろう。声を聞いたのは、抱き締めたのは。……キスを、したのは。

「……っ」

 ごん、と勢いよく、司は拳を窓に叩きつけた。会いたい、会いたい、会いたい……。想う数だけ、窓に拳をぶつける。そうでもしないと、やり切れない気持ちで押し潰されそうだった。

「4ヶ月、なんて」

 ぐぐ、と今まで以上に、拳に力を入れる。

「待てるかよッ!!」

「坊ちゃん!?」

 一際大きな音が室内に響くと同時、西田が室内に入ってきた。慌てて司に駆け寄り、ポケットから白いハンカチを取り出す。そうして握られている拳に、優しくそれを添えた。

「坊ちゃん……」

「行くぞ、西田」

 まるで、何事もなかったかのように。司は、西田が差し出したハンカチから逃れるように、室内を後にした。

 白かったはずのハンカチが、今は赤く染まっていて。打ちつけていたであろう窓にも、その痕跡がしっかりと残されていた。どんなに司が頑丈だとはいえ、やはり強化ガラスの前に砕けるのは司の拳の方で。もう何度、鮮血に染まったハンカチを見たか知れない。
 そのハンカチをまたポケットに戻し、西田は司のあとを追うべく部屋を出て行く。

 残り、4ヶ月。その4ヶ月を乗り切れば、つくしを迎えに行くことができる。そういう、約束だった。だが、そのあとはどうなのだろう。
 つくしが、素直にニューヨークに住んでくれるとはまず思えない。とするならば、今まで通り、ニューヨークと日本での生活になるのだろうか。司がニューヨークでの生活を拠点にしている以上、日本で生活を送ることは皆無に等しい。

 4年後、必ず迎えに行く。それは司にとって、結婚を意味するもので。結婚しているのに、離れて暮らすのはどうなのだろう。無理にでも、ニューヨークに連れてきてしまおうか。だがそうできるのであれば、4年も待つ必要があったのだろうか。

「……そうだよな」

 楓に、認めてもらうため。4年という月日は、それを目的としていた。残り4ヶ月。今までの司の頑張りを楓が評価してくれるというのであれば、もういいころなのかもしれない。

◇ ◇ ◇


「お兄ちゃまぁ♥」

「ぐ……っ」

 どすん、と身体に何かが乗っかった反動で、あきらは目を覚ました。その何かに起こされるのは、いつものことであり。

「頼むから、もう少し優しく起こしてくれないか、絵夢、芽夢?」

「えぇ?っ」

「十分優しく起こしてるのにぃ?」

「……」

 あきらのお願いも、それに対する答えもまた毎朝のことだった。
 はぁ、と深く息を吐き出して、あきらはベッドから抜け出す。そうして両腕に双児の妹・絵夢と芽夢を抱いて、リビングへ向かった。

「おはよう、あきらくぅん♥」

「……ああ、おはよう」

 相変わらず、ヒラヒラの洋服に身を包んだ母親・花梨かりんがあきらを出迎えてくれて。息子でありながらもゾッとするような花梨の格好に、一体、今年いくつになるんだか、と思わずにはいられなかった。

「遅かったな、あきら」

「……!」

 そこまでは、いつもと何も変わらない朝だった。
 テーブルに、父である和彦かずひこが座っている姿を確認するまでは。

「ついさっき、帰ってきたのよぉ♥」

 いつも以上にハイテンションな母親の原因は、これに他ならない。普段留守にしている夫が、久しぶりに我が家にいる。

「珍しいな、親父がいるなんて」

「すぐ仕事に戻る。その前に、聞いておきたいことがあってな」

 絵夢と芽夢を下ろし、あきらは和彦の正面に座った。
 バサ、と読んでいた新聞を畳み、和彦はまっすぐにあきらを見据える。

「おまえ、結婚を考えている女性はいるのか?」

「はぁ?」

 久方ぶりに再会し、わざわざ聞きたいことはそれなのか、とあきらは眉間に皺を寄せた。

「何だよ、藪から棒に。親父には関係……」

「おまえも、そろそろいい年齢だろう。そういう女性がいないのであれば、こっちで話を進めようと思ってな」

 ご機嫌な様子で花梨が運んできたコーヒーを、あきらは静かに口に含む。

 父の言葉に、あきらの脳裏に浮かんだ、一人の女性。結婚をするのであれば、彼女のような女性がいいと思ったのは事実。だが。

「いいなと思ってる女はいる。けどその女には婚約者がいるんだ。しかも超強力な」

 大切な、親友の彼女。つくしに想いを寄せているわけでは、決してない。
 ただ、結婚するのであればつくしのような女性がいいと思っているだけだ。これは、恋心とは違う。

「じゃあ、こっちで勝手に決めても構わないな? いろいろ、話は上がってきてるんだ」

「お好きに。まだ早い気もするけど」

 がた、と椅子を鳴らして立ち上がり、あきらは和彦に背を向ける。その背中に、予想もしなかった言葉を投げかけられた。

「私も、そう思っていたんだけどな。花沢さんや西門さんも本格的に動き出しているらしいから、少しばかり考えておくべきなのかもしれないと思っただけだ」

「……何?」

 大きく目を見開いて、あきらは和彦を見やった。

「類と、総二郎が? それ、本当なのか?」

「ああ。花沢さんは橘コンツェルンと、西門さんは華道の白鳥家とそれぞれ話が進んでいるみたいだな」

 知らなかった。総二郎はわかるとしても、類にまで縁談が進められていたなんて。
 もうそういう年齢になってしまっていたのだ、とあきらは改めて思い知らされたのだった。

◇ ◇ ◇


「10時、か」

 時計を見れば、間違いなくそう表示してあり。ぽりぽり、と頭を掻きながら、類はベッドから下りて窓際に立った。

「昔なら、こんな時間に起きて学校に行くなんて、ありえなかったんだけどな」

 そう言いながら、類は口元が綻んでくるのがわかる。寝坊して、学校に行かないことなんてざらだった。幼いころから英才教育を受けてきて、今さら学校で何も学ぶことなんてなかったからだ。
 それなのに、いつからだろう。寝坊しても、学校へ行きたいと思うようになったのは。いや、学校ではなく、構内の、ある場所へ。

 ふ、と笑みを溢し、類は着替えを済ませて階下へ足を進めた。そうして朝食をとるでもなく、玄関を開けて陽の光に自身を浴びせる。

「いい天気。膝枕で昼寝ができたら、最高だろうな」

 無論、誰のというのは、言うまでもない。
 高校の非常階段で、特に会う約束をしているわけではないが、類はいつもそこでつくしと会っていた。
 大学に進学し、お互いの将来が明白になってしまっても二人の距離は縮まらず、また遠くもならなくて。

 遠い異国の地にいる司との寂しさを紛らわすため、幾度となくデートを重ねた。デートとは言っても、つくしの家や類の家で勉強をすることがほとんどで、とてもデートらしいデートではないのだが。

 もしかしたら、つくしは類のことを家庭教師くらいにしか思っていなかったかもしれない。
 けれど、類にとっては、たとえつくしがどう思っていても、二人で過ごせるその時間がとてもかけがえのないものであり。傍からは、きっとつくしが二股をかけているようにしか見えなかっただろうと思う。

 つくしが周りにそう思われることは、類にしてみれば不本意だった。
 だが実際、つくしには司という恋人がいる中で、その恋人である司の親友と二人で過ごすという行為は二股に見えても仕方がないのかもしれない、とも思っていた。周りに何と言われても、お互いがちゃんと自覚していればいいのだ、と。

「あと4ヶ月、か」

 類は二人に残された時間を思い、ふぅ、と軽く息を吐く。あと4ヶ月すれば、司とつくしに交わされた約束の4年が経ち、つくしは本当の意味で司の元に行ってしまう。その間に、何度二人で過ごすことができるのだろう。

 そのとき、類の携帯が音を響かせた。現実を見ろという意味なのか、と思わず苦笑してしまう。

「もしもし」

『おう。今どこにいる?』

「まだ家。今から学校に行くよ」

 電話口から聞こえてきた長閑なあきらの声に、類は顔を綻ばせる。
 先日の斗吾との会話なんて、すっかり忘れてしまっているようだった。

◇ ◇ ◇


 タンタン、と軽快に足音を刻ませながら、つくしはある場所へ向かっていた。高校のときからの安らぎの場所であり、思い出の場所でもあるそこへ。
 がちゃ、と扉を開けば、そこには――…。

「あれ?」

 絶対にいるであろうと思った人影は、そこにはなく。つくしは、拍子抜けしてしまった。

「残念。会いたい気分だったのに、な」

 ぽつり、と一人呟きながら、つくしはいつもの定位置である非常階段の踊り場に腰を下ろし、背中を壁に預ける。少しばかり肌寒くなってきたこのごろ、隙間から覗かせる太陽の光が心地よかった。

「花沢類も、どこかで昼寝してるのかなー……」

 眠気を誘われる空気に、つくしは自然とそう漏らしていた。
 別に、類と会うのを日課にしているわけではない。ただこの非常階段は、大学に在学している今でも類とつくしにとっては大切な場所であり。ここでよく会っているのかと問われれば、否定はできなかった。

「んー、だめ。本当に眠っちゃいそう!」

 大きく背筋を伸ばし、よし、というかけ声とともにつくしは立ち上がる。

「中庭にでも行ってみよっかな、お日さまが気持ちよさそうだし。……花沢類も、いないしね」

 いつも、大概隣に座っているであろうそこに、今日は類の姿はなく。少しばかり寂しさを感じながら、つくしは階段を駆け上がってそこをあとにした。

 そうして無人になったそこへ、話し声とともに階段を上ってくる足音が聞こえてくる。

「やっぱり、本当だったのか」

「一応ね。どうでもいいことだけど」

 ふわ、と面倒臭そうに欠伸を一つ落としながら、類はあきらの言葉に返事をした。

「どうでもって……。ま、類らしいと言えば、らしいけどな」

「俺は、テレビと昼寝ができればそれでいいからね。あと、そこに牧野がいれば最高かな」

 そう言って屈託なく笑う類に、あきらは呆れたようにため息を吐く。

「ったく。おまえ最近、ちょっと図々しくないか?」

「そ? 今まで遠慮してた反動かもね。どうせもうすぐ、牧野の隣にはいられなくなるんだし」

 類の言葉の意味を理解し、あきらは顔を曇らせた。

「類、おまえ……」

「大丈夫だよ」

 くす、と笑んで、類はあきらを見据える。

「今さら、二人の邪魔をするつもりなんてないから」

 その微笑みの下に隠された素顔を見れるのは、きっとつくしだけなのかもしれない。そう思うあきらではあったが、何を言うこともできなくて。

「今は……できるだけ、そばにいたいんだ。少しでも長く、同じ時間を過ごしたい」

 いつも二人でいる、非常階段の踊り場。そこの空気に触れていると、心はつくしと一緒にいられるような気分になれた。
 その幸せそうな表情に、あきらは胸が苦しくなる。

 すぅ、と大きく息を吸い込んで、あきらは類の腕を掴んだ。

「こーんな太陽の当たらない場所にいるから、考えがどんどん暗くなっていっちまうんだよ。晴れてる日は、外に出ようぜ」

「……本当、あきらは優しいね」

「今さら、だろ?」

 ふ、と互いに口元を綻ばし、類とあきらは今し方上ってきたばかりの階段を下りていった。

 司も類も、どちらも大切な親友で。その二人の親友に想われているのが、あきらも結婚を考えたつくしである。
 つくしは結局、司を選んだが。少しの擦れ違いで、もしかしたらつくしが選ぶのは類だったかもしれない、とあきらは思わずにはいられなかった。