花より男子/シロツメクサ(19)
重たい荷物を玄関の前に置き、つくしは畳の上に転がった。
1週間近くぶりの我が家に、ほっとする。しばらく転がったまま天井を見つめ、とにかく椿にだけは先に連絡しなければ、と思い立つ。
つくしは身体を起こし、荷物の中から1枚の紙切れと携帯電話を取り出した。その紙切れに書いてある番号に、ゆっくりと電話をかける。
『もしもし』
「お姉さん? つくしです」
『つくしちゃん!? いつ退院したの? 身体は大丈夫?』
「はい。今日、退院でした」
心配していたであろう椿の様子に、思わず笑みが漏れる。
『よかった。心配してたのよ? でも元気そうで、安心したわ』
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
『そう思うなら、あまり心配かけさせないで? お姉さん、ホントに心臓が止まるかと思ったんだから』
「はい」
くすくすと笑いながら、つくしはそう答えた。ほっ、と息を吐く椿の様子が、電話口でも窺える。
「それより、お姉さん。話って……」
『あ、そうそう。少し、落ち着いて話がしたいのよ。えーと、今月は……。20日に、日本に行く予定があるわ。そのときに、会えないかしら?』
「20日ですね。わかりました、空けておきます」
そう約束をして、つくしは電話を切った。それから、今度は優紀に電話をかける。
『はい』
電話口から聞こえる親友の声に、つくしは安堵の息を漏らした。
「入院中は、いろいろありがとね。お礼も兼ねて、今度、お茶しよ?」
『いいのに、お礼なんて。でも、お茶はしたいな』
嬉しそうな優紀の声が、携帯から響く。最近、こういうまったりとした会話さえなかった気がする。
『えーと、23日は仕事休みだから。その日でもいい?』
「うん、オッケー。じゃあ、23日ね」
それから少しだけ他愛のない話をしたあとで、つくしは電話を切った。それから、ゴロン、と畳の上に寝そべる。
――結婚しよう。
司の、真剣な表情が思い出される。
司に電話をかけようと、何度か携帯を握るのに。どうしても、連絡できなくて。
このままでは、本当につくしは司と結婚することになってしまう。ずっとそう願っていたはずだったのに。今は、類と離れ離れになることが、怖くて堪らない。
類と離れたくないのに、司を傷付けたくない。ずっと、このままの関係でいられたらいいのに。
つくしと司と、それから類。恋人同士であるつくしと司を、類はずっとかげながら支えてくれていた。類が芹香と結婚すれば、もうそれはなくなるであろうことは目に見えている。
司が迎えにくるのは、28日。それまで、つくしはこうして頭を悩ませ続けなければならないのだろうか。
誰も傷付かずにすむ方法は、つくしが我慢するほか、ないのかもしれない。
◇ ◇ ◇
「司には、もう話したの?」
ぱさ、と顔にかかる長い髪を手で除けながら、椿はつくしを優しく見つめていた。
「……いえ」
椿の言葉がなにを意味するのか、聞かなくてもわかる。それは、前回椿と会ったときのことだ。
――道明寺と、別れてもいいですか?
涙ながらに、椿に相談して。司との別れを決意したはずなのに、いまだにそれを打ち明けられずにいた。
「話す時間なんて、与えてもらえないか」
「いえ、違うんです」
困った弟だ、と深くため息を吐いた椿に、慌ててつくしが口を開く。
「あたしが、その、言えないだけで……。連絡さえ、してないんです」
ぎゅぅ、と拳を握り締めたつくしの手を、椿が優しく、そっと自分のそれで包み込んだ。
「少しだけ、あきらから聞いたけど。あの馬鹿、つくしちゃんを無理やりニューヨークへ連れていこうとしてるんですって?」
「無理やりっていうか……」
断れなくて、そのままズルズルと引き伸ばしにしているだけで。
行くとも行かないとも返事をしていないこの状況で、それでも司の中で、まさかつくしが行かないという選択肢を選ぶとは露ほども思わずにニューヨークへ連れていくだろう。無理やりと言われれば、そうなのかもしれない、とも思う。
「あのね、つくしちゃん」
黙り込んでしまったつくしに、椿が優しく語りかける。
「誰かを好きになったり、誰かに好きになられたり。それって、きれいごとだけじゃすまされないのよ。絶対に、誰かが傷付くの。誰も傷付かずにいたいなんて、それこそおこがましいわ」
「お姉さん……」
「傷付くのは、うちの馬鹿だけで十分よ。つくしちゃんが傷付く必要なんて、これっぽっちもないわ」
「……」
それでも、司を傷付けてしまうのは承知。それに。
「怖い、んです」
「え?」
ぐぐ、と握る拳に力を入れて、つくしは口を開く。
「たとえ、道明寺と別れても。もし、あたしの気持ちが花沢類に向いていることを知ったら、また……」
F4分裂。その言葉を、つくしは思わず飲み込んだ。
つくしと司が付き合っている。類には、芹香という婚約者がいる。
その状況にもかかわらず、つくしの気持ちが類に向いていることがばれてしまったら。以前と同じように、司は逆上し、芹香はなにをするかわからない。今度は、根性焼きだけではすまないかもしれない。
思い、つくしは椿の握る手の上から、そっと自分の左手に右のそれを重ねた。煙草を押しつけられたときの、鈍痛。その痛みは、いつまでも止まない。しっかりとつくしの甲に刻まれた、裏切りの証のようで。
傷痕を見るたびに、あのときの司の表情が思い出される。浜辺で、初めて類とキスをして。それを目撃した司の、ひどく憂いを含んだ切ない表情を。
初めて類とキスをしたのは、夜の浜辺だった。静とのことでひどく落ち込んでいた類を、放っておけなくて。
その結果、F4分裂という、最低の結果を生んでしまった。
「司だって、あのときとは違うのよ。少なからず成長してる。今更、そんな幼稚なことしないわよ」
優しく、まるで母が子を賺すように、椿はそうつくしに話す。
「それでも、どうしても怖いんだとしたら。一度、逃げてみてもいいんじゃない?」
「え……?」
――逃げよ。
いつだったか、そう言って類に手を差し伸べてもらったことがある。あれは確か、ニューヨークに司を迎えに行って、追い返されて。類が迎えに来てくれたときだ。
「今度、ロシアに新しいホテルを建てたの。1月にオープンする予定なんだけど。つくしちゃん、そこの責任者として働いてみない?」
「……ロシア」
まだ訪れたことのない異国の名が、つくしの心を惑わせる。
「二人のそばにいられないって思ってるんだとしたら、二人のそばから離れればいいのよ。もちろん、つくしちゃんの居場所は誰にも言わない。つくしちゃんが落ち着くまで、ずっとそこで暮らしたって構わないわ」
「お姉さん、でも……」
「つくしちゃん」
口を開こうとしたつくしを遮り、椿はつくしの肩に手を置いた。
「全部、つくしちゃん次第なのよ。このまま司と一緒にニューヨークに行って、愛のない結婚をして一生を終えるのか。それとも司と別れて、類と一緒になるか。そのどちらも選べないんだとしたら、新しい場所で一から人生を始めるのもありだと思うわ」
「……」
考えもしなかった。司と類、どちらからも離れるなんて。
それは、ずっとずっと願っていたことだった。F4から離れて、普通の生活を送ること。
椿の言うロシアへ行って、今まで通り平穏な生活が送れるとは到底思えない。それでも、道明寺家だのなんだのという柵からは抜け出せる。
そういう意味では、安寧とした日々を過ごせるかもしれない。
「これ」
「え?」
不意に、そう言って手に握らされたのは。
「ロシアに行く決心がついたら、それから連絡して」
「お姉さん、でも……」
つくしは手に持たされた携帯を、ぎゅ、と握り締める。きっと、司も類も、椿しか知らないであろう番号の携帯なら、誰から連絡が来ることもない。
「でもは聞きたくないわ。笑って、つくしちゃん。私、つくしちゃんの笑顔が大好きなの」
「……」
本当に、すべてを捨てて逃げ出すことが可能なのだろうか。すぐに掴まってしまうのではないだろうか。
「ありがとうございます、お姉さん」
そんな不安がある中、それでも椿の心遣いがとても嬉しくて。つくしはようやく、満面に笑みを浮かべるのだった。
◇ ◇ ◇
「そっか。決めたんだ、ニューヨーク行き」
「……うん」
呟くように言った優紀の言葉に、つくしは小さく頷いた。
椿の提案に、一時は乗ることも考えた。だがつくしに纏わりつくものを考えると、簡単には逃げ出せない気がした。
「寂しくなるけど、仕方ないよね。つくしの幸せのためだもん」
「幸せ、か」
つくしは、はぁ、とため息を吐き、テーブルに置いてあるティーカップに手を伸ばす。なにが幸せで、なにが不幸なのだろう。
「……あ、のさ」
「ん?」
「優紀は……西門さんのことが、好きなの?」
類のことが、とは聞けずに。遠回しに、そう言ってみる。
総二郎の誕生パーティの日から、ずっと聞きたくて聞けなかったこと。あの日の二人は、本当に睦まじくて。
「うん、好きよ。あたしね、あのまま修さんと結婚しても、きっと上手くいかなかった気がする。そのことを見抜いてくれた西門さんにはすごく感謝してるし、やっぱり好きだなって。そう、思った」
はっきりと、優紀はそう言い切る。その姿を、羨望の眼差しでつくしは見つめていた。
「パーティで西門さんに言われたこと、すごくショックだった。誘われたからって、他の男の人と好きな人の誕生パーティに行くなんて。本当、浅はかだったなって思う」
「誘われた……?」
その言葉が、ズシン、とつくしの上に重く圧しかかった。
あの類が、好意のない女の子を誘ったりするわけがない。だとするならば、類は。
「もう、つくしったら。そんな表情しないで? 花沢さんは、パーティに行けないあたしを不憫に思って誘ってくれただけなんだから。つくしが美作さんに誘われてなかったら、きっとつくしを誘ったはずだよ? だって花沢さん、つくしのことが好きだって、そう言ってたもの」
――俺、牧野のことが好きだよ。
昔、司を追って、つくしはニューヨークへ行った。けれど、司と一緒には帰れなくて。つくしが日本に帰るとき、一緒に空港にいたのは類だった。
いつだって、類はつくしのそばにいてくれた。つくしに対する感情がなんであれ、いつもつくしの味方でいてくれた。それに甘えて、自惚れて。
芹香という存在が現れて、初めていなくなるという恐怖に襲われた。
類は、嘘を吐ける人ではない。自分を偽ることもせず、まっすぐつくしに気持ちをぶつけてくれた。押しつけるでもなく、風のように爽やかに包んでくれた。
類と優紀がどうにかなるなんて、そんなことあるはずがないのに。改めて類の想いを打ち明けられるまで、それに気付けなかったなんて。
すべてが、今更なのに。今更でしかないのに、優紀と話したことで一層類への想いが募るのを、つくしには止めることができなかった。
「ほら、つくし。いい加減泣き止んで。そんなつくし、らしくないよ?」
堪らず嗚咽を漏らし始めたつくしの背中を、優紀が叩く。うん、と頷きながら、つくしは顔を上げた。
「西門さんとは……どうなってるの?」
鼻を啜りながら話を切り替えるように、つくしは優紀を見やる。
「どうって言われても。どうもなってないよ」
うーん、と頭を悩ませてから、優紀はそう口を開いた。
「パーティのあとね、ずっと携帯に連絡入れてたの。そりゃもう、しつこいくらいに。でも、一度も出てくれなかった」
何故だろう。優紀の好きになった男は、みんな、優紀からの電話に出てくれなくなる。出てくれないから、尚更しつこく電話をしてしまうのかもしれない。悪循環であること、極まりない。
「つくしが入院したときかな。ようやく、西門さんから連絡が来たの。でも、あたしが連絡してたことには一切触れてくれなくて。つくしのことだけ話したの」
切なげに、ひと言ひと言、優紀は言葉を紡いでいく。
「でもね、それからは……ときどき、電話もくれるようになって。ただやっぱり、つくしのことだけなの。あたしが謝ろうとしても、それを察して先になにかを言われて、結局なにも言わせてもらえなくて。でもそれで、今までどおりの関係でいられるならって、あたしも、もう……余計なことに触れるのはやめちゃった」
好きな人と話すとき、話題がいつも親友のこと。それは、耐え難い苦痛であったかもしれない。だがそれでも、無視され続けるよりはずっといい。そう思って、優紀はその苦痛を受けることを選んだ。
「だからね、あたしと西門さんはどうもなってないの。あたしはセフレでもいいかなって思ってたけど、西門さんは、それさえも面倒になっちゃったのかもね」
はは、と笑いながら、決して笑いごとですまないことを、優紀は話す。そうして、今度は優紀がつくしに問うた。
「つくしは今、幸せ?」
「え?」
「好きな人と一緒に、ニューヨークへ行くんでしょ?」
確かに、それは傍目には幸せに見えるかもしれない。
高校の頃から付き合っていた彼氏と、遠距離恋愛をしてきた。それの終わりとともに、婚約、そして結婚するという将来が見えている。
はぁ、とため息を吐いて、優紀はつくしを見つめた。
「さっきから、道明寺さんの話になると表情が暗くなるね」
それは、本当に無意識で。頭では理解しているのに、心がまったく追いついていなかったということなのかもしれない。
「つくし、道明寺さんより花沢さんを好きになったんじゃないの?」
「……!」
核心をつく優紀の言葉に、思わず口元を覆う。
自然と態度に出てしまっていたということは。他のみんなにばれるのも、時間の問題かもしれない。