花より男子/シロツメクサ(18)


 花沢邸に着いた類は、穏やかな表情をしていた。不思議と、心が落ち着いている。

「田村」

「はい?」

 田村は、類が小さい頃から養育係として遣えてきた。類にとって、斗吾よりも父親に近い存在であり、また頼りになる人物である。

「銃を1丁、新調してもらえないかな?」

「は? 銃、ですか?」

「うん」

「……」

 驚くほど自然な面持ちで、要求しているのは人殺しにも使える道具である。田村は、訝しげに類を見つめた。

「なにに使われるおつもりですか?」

「大丈夫」

 田村の質問に、ふ、と類は屈託ない笑みを浮かべる。

「護身用だよ。自分の身は自分で守らないと」

「そんなこと……。おっしゃっていただければ、ちゃんとSPを……」

「俺の手で守りたい女性がいるんだ」

 言いかけた田村を遮るように、類が口を開く。自身の手のひらを見つめ、それを、ぎゅ、と握り締めた。

「他人の手を借りずに、俺が守りたい」

「……」

「どうしても、俺の手で守りたいんだ」

 田村はしばらく黙り込み、それから、承知致しました、と類の前から下がっていった。

 今の言葉に、他意はない。本心から、つくしを守りたいと思っている。そのつくしを、守ることができなかった。

 こつ、と類は壁に寄り添い、身体を預ける。そのままズルズルと滑り落ちるように、その場に座り込んだ。

 ――しっかりと、根性焼きが刻まれてたぜ。

 それがどんなものか、言わずともわかる。ひどい火傷を負わせてしまったのは、類が、つくしを芹香と二人にしてしまったからで。
 責任を感じるなと言っても、無理な話なのだ。

 ――花沢類、だめ! 待って!!

 類の表情で、きっとつくしにはわかってしまったのだろう。類が、なにを考えていたのか。どこに向かおうとしていたのか。

 誰よりも大切だから、なにに変えても守りたかった。ずっと、隣で笑い合っていたかった。

 これから類がしようとしていることをつくしが知れば、きっと止めるであろう。もしかしたら、類を軽蔑するかもしれない。
 それでも類に、芹香への制裁を止めることなどできなくて。言葉は汚いけれど、どうしても類の手で、芹香を闇に葬り去ってしまいたい一心でいっぱいだった。

 やがて、田村がいそいそと1丁の銃を手に類の元へ戻ってくる。それを手に類は立ち上がり、着ていたコートの中に潜ませた。

「どちらへ?」

「……」

 不安気に、田村が類を見送る。振り返り、類は一笑した。

「散歩。一緒に行く?」

「……いえ。どうか、お気を付けて」

「……うん」

 深々と、田村は頭を下げる。言葉に、いろいろな意味が含まれている気がした。類が、もう花沢へ戻るつもりがないことを。もしかしたら、田村は見抜いていたのかもしれない。

 類は、花沢邸をあとにして、すぐに橘邸へ向かった。コートの中に忍ばせたものの存在を確認して、車を降りる。

「は、花沢さま!?」

「……あいつはどこ?」

 使用人が止めるのも聞かず、類は橘邸の中を歩き回った。当然、芹香を捜すためである。

「芹香さまは、今はおられません。外出中で……」

「隠すと、あんたのためにならないよ」

「……っ」

 冷ややかな類の視線に、使用人の一人が思わず口籠もる。

「勝手に捜すからいいよ。放っておいて」

「花沢さま!」

 類は再び、邸の中を歩き出した。部屋の扉を一つ一つ開け、芹香の所在を確認していく。
 そうして書斎の扉を開けた類は、ようやく、目当ての姿を発見した。

「……類」

 急に姿を現した類に、芹香は一瞬、驚きの表情を見せたものの、すぐに瞳を潤ませて類に飛びついた。首筋に腕を絡ませて、それに力を入れる。

「初めてね。類が、私の家に来てくれるのなんて」

「……きっと、最初で最後だと思うけどね」

「かも、しれないわね」

 ゆっくりと、芹香は類から離れた。その表情は、とても落ち着いたものであり。類からの恨みを買っているなんて、微塵も感じられないほどだった。

「俺は、あんたを一生許さない」

「……」

 静かに芹香を見つめ、類はコートを探り出した。いつだったか向けられた銃口を、今度は類が芹香に向ける。

「牧野に手を出すな。そう、忠告したはずだけど」

「……」

「あんたは、牧野に手を出した。俺に殺される理由としては、十分だよね?」

「……」

 芹香は、そっと目を閉じた。まるで、そうなるであろうことがわかっていたかのように。類に殺されるのなら本望だ、とでも言わんばかりに、落ち着いている。

 冷酷な視線を向けたまま、類はゆっくりと、引き金に手をかけた。

「待て、類っ!!」

 ばぁぁぁん、とけたたましい音が、書斎内に木霊する。芹香に向けられていた銃口は、類以外の手によって高い天井に向けられていた。

「落ち着け! 橘芹香を殺したって、牧野が喜ぶわけねぇだろ!?」

「……あきら」

 親友の姿に、類は呆けたようになり。銃を握り締めていた手の力が、ふっと抜ける。ごっ、と鈍い音をさせ、銃は地面に落ちた。

「危機一髪。間に合ってよかったぜ」

 はー、と全身から息を吐き出し、あきらはその場に座り込む。その隣に、項垂れるように類も腰を下ろした。

「……して?」

「え?」

 がく、と膝から崩れ落ちるように、芹香が地面にへばりつく。

「どうして、類を止めたの?」

「……」

 ボロボロと濡れる瞳で、芹香はあきらを見つめる。

「あのまま、私は……類に殺されたって、構わなかったのに」

 涙を流し、芹香はそう口にする。

「類に殺されて、どうするってんだよ?」

「類に殺されたっていう、事実が大事なのよ」

 あきらの言葉に、芹香は顔を上げた。

「愛してもらえないのなら、せめて、類になにかをしてもらえたっていう事実くらいは残したいじゃない。たとえそれが、殺されることだったとしても」

「……」

 芹香の類への慕情は、普通の領域を遥かに超えていた。
 とにかく、芹香にしてみればなんでもよかったのだ。つくしに危害を加えて、類が腹を立てないわけがない。それを見越した上で、芹香はつくしに根性焼きを作り。

「私を殺すためだったとしても、類が今、私の家にいる。それがどんなに嬉しいかなんて、あなたにはわからないでしょう? 理由はどうであれ、類が私に会いに来てくれた。それだけで、こんなに幸せな気持ちになれるなんて……。この幸せな気持ちのまま、類の手で逝かせてもらいたかった」

「……」

 類がつくしを好きなことは、初めからわかっていた。わかっていたのに、惹かれてしまった。好きになっても無駄だとわかっていながら、好きになってしまった。自分でも、どうにもできないほどに。

「ったく。狂ってるぜ、本当に」

 はぁ、とため息を吐き、あきらは頭を掻きながら立ち上がる。そうして類の腕を取り、立つよう促した。

「類も類だ。こんなことしたって、牧野が悲しむだけだぜ? 少し考えれば、わかるだろ?」

「……」

「おい、類?」

 呆けたように、類は覚束ない足取りで。あきらの言葉が届いていないように、書斎をあとにした。

「あー、ったく。どいつもこいつも」

 面倒そうに顔をしかめながら、あきらは芹香に向かって歩き出す。

「おまえもな、いくら類を好きだからって、やりすぎだ」

「……羨ましかった」

「はぁ?」

 あきらは、嗚咽を漏らす芹香の前に膝を付く。

「牧野つくしが、羨ましかった。道明寺さんだけじゃなく、類からも愛されている、牧野つくしが……」

「……」

「人間として、やっちゃいけないことだってわかってた。でも、抑えられなかった。羨ましさを通り越して、牧野つくしへの想いが憎悪に変わっていくのがわかったわ。でも、止められなかった。筋違いだってわかってる。牧野つくしを恨んだところで、類は私のものにはならないってことも。でも、それでも私は類のことが大好きで。諦められなかった」

「……」

 涙ながらに、芹香はそう訴える。そんな芹香を静かに見つめながら、あきらは、ぽん、と頭を撫でた。不思議そうにあきらを見れば、穏やかな視線とぶつかり。芹香の目からは、止めどなく涙が溢れるのだった。

◇ ◇ ◇


 類は川縁から、茫漠と空を仰いでいた。芹香への憎しみが、消えない。ただ。

 ――こんなことしたって、牧野が悲しむだけだぜ?

 あきらの言葉を聞くまで、そんなことは思いもしなかった。つくしのことは、誰よりもわかっているはずだったのに。

 じっと手を見つめ、類は心底ほっとする。類の手は、赤く染まっていない。もしもあのとき、あきらが止めてくれなければ。あきらが、間に合わなかったとしたら。

 類の手は赤く染まり、きっとつくしを抱き締めることなんて、二度とできなかったかもしれない。

「……」

 ポツポツと雨が降り出し、類は車へ戻るでもなく川へ足を向けた。

 類は、罪を犯すところだった。いや、芹香を殺そうと思った時点で、もうすでに罪だったのかもしれない。二人、殺す決意をしていた。

 やがて、ハラハラと降っていた雨は土砂降りに変わり。類の身体を、くまなく濡らしていく。その雨で類の罪を洗い流せるとは、到底、思えない。だが、今は心底思う。芹香を……、自分を、殺さなくてよかった、と。

 類は、芹香を殺し。そのあと、自害するつもりでいた。そのあとのことなんて、まったく考えていなかった。芹香と類が死んだと聞かされれば、つくしがどんなに傷付くかなんて、容易に想像できたはずなのに。気が動転していて、そんなことを考える余裕がなかった。

 空を仰ぐ類の頬を、雨が伝っていく。果たしてそれが本当に雨なのか、定かではないが。

「……」

 目の前にない影を想い、類は自身を抱き締める。会いたくて会いたくて、堪らない。抱き締めて、キスをして。ずっと、触れ合っていたいのに。

 ――いいよな、類?

 類を信用し切った司の言葉が、頭を過る。類がつくしを好きなのなんて、周知の事実のはずなのに。

 ――類の許しがほしいんだよ。

 つくしは、類の所有物ではない。つくしと結婚するのに、類の許しなんて請う必要がないのに。
 筋を通したつもりで、きっと司は類に話してくれたのだろう。恋敵である前に、大切な親友なのだから。

 好きという感情は、一体どこから来るのだろう。好きになる人を自分で選べたら、とても楽なのに。自分で選べないからこそ、こんなにも苦しまなければならないのだろう。芹香を好きになれば、きっとこんな思いをすることもなかった。つくしが傷付くことも、芹香を殺そうとも思わなかっただろう。

 誰かを好きになるのは、そう容易いものではない。一方通行の想いもあり、また誰かの手を取ったが故に傷付く者もいる。

 誰も傷付かない恋愛なんて、この世には存在しないのかもしれない。

◇ ◇ ◇


「まぁったく。私に連絡来るのは、いっつも最後なんですよねー」

「ごめん」

 プリプリと怒った素振りの桜子に、つくしは思わず笑みを漏らす。

「もう、先輩ったら。私、怒ってるんですよ?」

「だから、謝ってるじゃん」

 言いながらも、つくしの表情からは笑みが消えなくて。桜子も、その表情に、ふぅ、と軽く息を吐く。

「ま、別にいいですけど。明日、退院ですって?」

「うん。しばらくバイト休んでたから、明日はいろいろ行かないと」

「このまま、辞めちゃったらどうです?」

「え?」

 椅子に腰かけて、桜子はまっすぐにベッドの上のつくしを見つめた。

「聞きましたよ、プロポーズの件。どうせ辞めるなら、このまま辞めちゃった方がいいんじゃないですか?」

 桜子の言葉に、つくしは表情を曇らせる。ベッドの上で足を抱えたまま、それを抱える手に力を入れた。

「ニューヨーク、行くんですよね?」

「……」

 首を、縦に振ることは簡単なはずなのに。そうしてしまえば、つくしの将来が決まるのも同然で。

「なにを、悩んでるんですか?」

「……」

 桜子の質問に、自問する。つくしは一体、なにを悩んでいるのか。

 4年前から、つくしは司と遠距離恋愛をしてきた。当初の約束どおり、もうすぐ司は迎えに来ると言ってくれた。それを心待ちにしていたはずなのに、何故今更迷うのかと聞かれたら、答えられない。類が必要だなんて、絶対に言えない。

「先輩って、結構、ウジウジしたとこありますよねー」

 不意に大きくため息を吐いて、桜子がそう口を開く。

「先輩のサバサバしたとこ、私、好きですよ。でもそうやって、ウジウジしてるのは大嫌いです」

 バッサリと切り捨てるように、桜子ははっきりとそう言う。

「先輩のいいところは、いつだって前を見てるところですよ。答えは先輩の中にしかないんですから、どれだけ悩んだっていいです。でもちゃんと、自分で納得のいく答えを導き出してくださいね。決して、後悔しないように」

「……」

「先輩が後悔する結果を残したら、先輩だけじゃなく、道明寺さんや花沢さんも傷付くってこと、ちゃんと自覚しててくださいね」

「……ありがと、桜子」

 つくしが言うと、桜子はにっこりと微笑んで。荷物を取り、入り口に足を向ける。

「それじゃ、桜子は帰ります。お大事に」

「うん」

 手を振りながら、パタン、と扉が閉まる。

 ――決して、後悔しないように。

 桜子は、そう言ってくれたけれど。もしも、つくしが司のプロポーズを断ったりしたら。

 つくしの中で、もう答えは出ているのに。F4が分裂する姿を見たくないが故に、答えを口に出すことができないなんて。
 誰もいない病室で、つくしは一人、きゅ、と唇を噛み締めるのだった。