花より男子/シロツメクサ(17)
ゆっくりと、つくしの手に包帯が巻かれていく。巻いているのが看護師ではなくあきらだということに、ふ、と口元が綻んでしまった。
「どうした?」
それに気付いたあきらが、優しい笑顔をつくしに向ける。
「ううん。美作さんて、何でもできるんだなって」
「当然だろ」
巻き終えた包帯を救急箱に片付けながら、あきらがそう笑った。
「俺にできないことなんてねぇよ」
「それ、言っても許されるから、余計にムカつくのよね」
あきらの言葉に笑いながら、つくしは包帯を巻かれたばかりの左手を、そっと右手で包み込む。火傷の痕が、まだ少しばかり痛い。
はぁ、と軽くため息を吐けば、くしゃり、と頭を撫でられた。
「ごめんな」
「え?」
呟きに、見ればあきらは眉間に皺を寄せていて。初めて見るあきらのその表情に、つくしは戸惑ってしまった。
「な、なんで美作さんが謝るの?」
「類に、連絡をもらった」
「え?」
不意に出てきた名前に、どくん、と心臓が跳ねる。
「牧野の元に向かってほしいって。あんなに切羽詰った類、初めてだった。だからこそ、牧野に何かあったんだって思って、急いで車飛ばして来たんだけど。間に合わなくて、ごめんな」
「……」
心底後悔しているであろうその表情に、つくしの心臓が、きゅう、と締めつけられるように苦しくなる。あきらが、自分を責める必要はない。
「美作さんが悪いわけじゃないよ」
「それでも、もっと早く来てればって。そう、思わずにはいられねぇよ」
その言葉に、もうなにを言うこともできなくて。つくしは、視線を落としてしまった。
「ああ、そうだ」
思い出したように、あきらが1枚の紙をつくしに差し出す。
「司の姉ちゃんが、話をしたいって」
「お姉さんが?」
「ああ」
言われて差し出された紙を見れば、そこには電話番号が書かれていた。
「今入院してるって言ったら、飛んでくるって言ってたけど。あえて、遠慮してもらった。姉ちゃんが来たら、ゆっくり療養なんてできねぇだろ?」
「そんなことないよ」
あきらの言葉に、くす、と笑みがこぼれる。
「お姉さんにも心配かけちゃったな。ううん、お姉さんだけじゃなくて、花沢類や優紀、それから西門さんや美作さんにも」
ゆっくりと、つくしはあきらを向いた。
「ありがとう、美作さん」
「俺は、なにもしてねぇよ」
ぽんぽん、とあきらが頭を撫でれば、バタバタと廊下から足音が響いてきて。
勢いよくドアが開いたかと思えば、慌てた様子の優紀と総二郎が飛び込んできた。
「つくし、大丈夫!?」
「生きてるか、牧野!?」
「……」
血相を変えた二人に、つくしとあきらは顔を見合わせて。思わず、噴き出してしまった。
「すごい人なんですね、芹香さんて」
「ああ。厄介な女に狙われたな、類も」
総二郎と優紀の言葉を、つくしは黙って聞いていた。
つくしの左手に巻かれた包帯を見て、当然と言えばそうなのだが、どうしたのか、という話になり。芹香からのお見舞いだ、とあきらが総二郎と優紀に説明したのだった。
でも、と優紀は、垂れ下がった眉を余計に下げて呟く。
「つくしは、道明寺さんとお付き合いしてるんですよ? それなのに、つくしにこんなひどいことするなんて……。異状じゃないですか?」
総二郎を見上げながら言った優紀の言葉に、ぴく、とつくしは反応した。
優紀の言葉は、間違っていない。確かに、つくしは司と付き合っている。それは、世間一般的に知られている事実である。
「女の勘、だろうな」
「え?」
総二郎の呟きに、優紀は、きょとん、とする。
「牧野と類は、ただの友達じゃない。恋人よりもずっと近い距離にいる。それは俺たちが見ててもわかることなんだから、橘芹香にだって、当然わかっただろうさ」
「に、西門さん」
平然と言われ、つくしは恥ずかしくなり慌てて止めようとしたが、総二郎はつくしを見据えて続けた。
「違うか? おまえと司が身体の恋人だとしたら、類は心の恋人だ。そういうたとえがしっくりくる。そんな関係なんだと思ってたぜ、俺は」
「やめろ、総二郎」
ぽん、とつくしの頭に手を置きながら、あきらが口を開く。
「それは、牧野自身が一番わかってることだ」
「……」
それ以上、総二郎はそのことには触れなかった。だがつくしの中に、総二郎の言葉は深く刻まれていた。
――司が身体の恋人だとしたら、類は心の恋人だ。
そうかもしれない、と素直に頷いている自分がいた。どんなに身体が寂しくても、心が潤っていたから。いつだって、つくしは立っていられたのだと思う。
その心の支えがなくなってしまったら、当然、立ってはいられない。
何度そう思ってみても、気付くのが遅すぎた。類には、婚約者ができてしまった。今までのようにはいかない。それが現実だ。
「牧野っ!」
声とともに、病室の扉が荒々しく開かれて。そこには、息を切らした類が立っていた。
「……よかった、無事で」
病室の中で団欒している姿に、類は心底ほっとしたように息を吐き出して。そのまま、入り口に座り込んだ。
「無事でもないぜ、類」
「え?」
「に、西門さんっ」
類に見えるように、総二郎は包帯が巻かれたばかりのつくしの手を挙げる。痛々しく巻かれた包帯に、類の目は釘付けになって。慌てて立ち上がり、その手を取る。
「どうしたの、これ?」
「え、えっと……」
「橘芹香だよ」
言い淀むつくしを尻目に、総二郎は、そうきっぱりと言い放った。
「あいつが、牧野に何をしたの?」
「牧野の根性を試したかったんだろ? しっかりと、根性焼きが刻まれてたぜ」
「……」
類は、怒りで手が震えるのがわかった。無事でなんて、いられるはずがなかったのだ。総二郎の言葉を素直に受け止めて、苛立ちを抑えられない。
ぐ、と唇を噛み、類は踵を返した。
「は、花沢類っ。花沢類、だめ! 待って!!」
病室をあとにしようとした類を、つくしが止める。今の類は、芹香に何をするかわからない。
「お願い。あたしなら、大丈夫だから。だから、芹香さんには手を出さないで」
「はぁ?」
つくしの懇願に反応したのは、類ではなくて。思い切り眉間に皺を寄せて、総二郎はつくしを見る。
「おまえ、どんだけお人好しなんだよ? 橘芹香に何をされたのか、おまえが一番……」
「わかってる。わかってるから、だから何もしないでほしいの。芹香さんの気持ち、わかる部分もあるから」
「わかるって、おまえ……」
「牧野は、それでいいの?」
つくしと総二郎の会話に、類が割って入る。切なげに、でもまっすぐにつくしを見つめながら。
「牧野が、それを望んでるの?」
一歩ずつ、類はゆっくりとつくしに近付く。
小さく、つくしは頷いた。
「あたしは、仕返しなんて望んでない」
「……わかった。じゃあ、牧野の言うとおりにする」
徐に、包帯が巻かれた手を、類は大事そうに包む。そうして目を瞑り、歯痒そうな表情をつくしに向けた。
「ごめん、牧野。あのとき、俺が牧野とあいつを二人にしなければ……」
「ううん。花沢類のせいじゃないから。だから、自分を責めないで?」
「無理だよ、それは。どうしたって、俺のせいなんだから」
「そんなことないってば」
「優しいね、牧野は」
それまでの表情とは打って変わって、類は穏やかな面持ちになり。それから、ごく自然につくしに顔を寄せた。
「は、な……」
「そういう女だから、俺は牧野を好きになったんだ」
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。つくしの額に触れた、わずかな温もり。それは間違いなく、類の体温であり。
「……花沢類?」
途端に、不安がつくしを襲う。このまま、類がいなくなってしまうような、そんな錯覚。
「今日は帰る。またね、牧野」
そう言う類の表情は、まるで憑きものが取れたかのようにすっきりしていて。
それと同時の押し寄せる不安の正体が何なのか、つくしには知る由もなかったけれど。
類は、ある決心をしていた。もう二度と、つくしの隣に立つことができなくなったとしても、どうしても罰を下さなければ気が済まなくて。
「……止めて」
「え?」
ぎゅ、とシーツを握り締めて、つくしはあきらを見つめた。
「お願い、美作さん。花沢類を止めて」
「止めるって、おまえ……」
「わからない。わからないけど、いつもの花沢類じゃなかった!」
「牧野?」
「美作さん、お願い」
まっすぐに、つくしはあきらを見据える。その真剣な眼差しに、あきらは思わず唾を飲み込む。それから、ぽん、とつくしの頭を撫でた。
「わかった。類のことは、俺に任せとけ」
「俺も行こうか?」
総二郎の申し出に、あきらは小さく首を振る。
「いや。総二郎は、優紀ちゃんと一緒にここにいてくれ。万が一のために、な」
「……了解」
頭上より高い位置で、二人は、ぱぁん、と手を合わせた。ふ、と口元を綻ばせて、あきらは病室をあとにする。
その後ろ姿を見送ったあとで、総二郎はベッドの脇に置いてあった椅子に腰かけた。
「さてと。そろそろ腹割って話そうぜ、つくしチャン?」
にっこりと、総二郎はそう微笑むのだが。つくしは、そんな総二郎から視線を外した。
「一体、どうなってんの、おまえら?」
「どうって?」
「じゃあ、司のプロポーズ、どうしてすぐに受け入れなかった? あれからおまえ、司に連絡したか?」
「……」
「するわけねぇよな。あれから、ずっと入院してたんだから」
「に、西門さん」
責めるような総二郎の言い方に、優紀が思わず声を上げる。
「つくしは、今日目が覚めたばかりなんです。少し、ゆっくりさせてあげましょう?」
「……」
優紀の言葉に、総二郎は静かに立ち上がった。
「司も類も、俺の大事な親友だ。この際、傷付けるなとは言わない。だけど、ふるならちゃんとふれ。中途半端なことすんじゃねぇよ」
「……」
つくしは、シーツをぎゅっと握り締める。総二郎の言葉が、痛いほどに突き刺さって。
俯くつくしを尻目に、総二郎は病室から出て行った。
「大丈夫、つくし?」
そんなつくしに、優紀が優しく声をかける。一度は嫉妬し、声もかけられなかったつくしに、優紀は優しくしてくれる。
あのとき、類と一緒にいた優紀にひどく嫉妬してしまった自分が、今更ながらすごく惨めに思えてしまった。
「うん、平気。ありがと、優紀」
総二郎の言葉は、二人の言葉の代弁だったのかもしれない。中途半端にしているつもりはなくとも、今のつくしの状況から、そう思えるのも致し方ない。
つくしの中での結論はすでに出ているのに、それをなかなか実行に移せなくて。
退院したら、今度こそ本当に司に連絡をしよう。司にとっていい話ではなくても、ちゃんと話をしなければ。
お互いが、前に進むために。