花より男子/シロツメクサ(16)


 バタバタと騒々しい足音が、部屋の前でぴたっと止まった。それから静かに、コンコン、とノックされる。

「どうぞ」

 類の言葉で、ドアがゆっくりと開かれた。そこには、心配そうな面持ちの優紀、それから総二郎とあきらがいて。

「つくし……!」

 点滴に繋がれ、白いベッドに横たわっているのは、間違いなく親友の姿であり。優紀は、思わず駆け寄った。

「過労だって。肺炎になりかけてたらしいけど、点滴を続けてれば問題ないってさ。近いうちに退院できる」

「よかった、つくし……」

 心底ほっとしたように、優紀は点滴に繋がれたつくしの手を握る。

「それで、ごめん。牧野の親に連絡取りたいんだけど、連絡先、知ってる?」

「いえ、あたしは……。たぶん、つくしの携帯に入ってると思います」

「勝手に見ても、怒られないかな?」

「緊急事態だし、いいと思います」

「じゃ、そうする」

 優紀の言葉に頷いて、類はサイドテーブルに置かれたつくしの携帯を手に取った。

「俺、ちょっと連絡して来るから。悪いけど、しばらく牧野に……」

「おい、類」

 病室を出て行こうとした類の肩を、総二郎が掴む。

「どうなってんだよ、一体? ちゃんと説明しろよ」

「わかってる。ちゃんと話すから。でも、先に牧野の親に連絡させて?」

「……」

 しぶしぶという感じで、総二郎は類の肩から手を退かす。そうして静かに、類は病室をあとにした。

 ロビーを抜け、一度病院の外に出る。そうして外に出て、つくしの携帯からつくしの親に連絡をしようとした類に、一つの影が重なった。

「会いたかったわ、類」

「……」

 影を見上げ、そこにいた人物の姿に、類の顔が一瞬で険しいものに変わる。

「急にいなくなるんですもの。びっくりしちゃった」

「……」

 ぎゅ、とつくしの携帯を握る手に、自ずと力が入った。一体、どこまで追いかけてくるつもりなのだろう、この女は。

「おじさまに、ちゃんと話をして来たの。今月末……28日に、正式に婚約発表をすることになったわ」

「28日?」

「ええ」

 嬉しそうに、芹香はそう頷いて。きっと、28日を指定したのもわざとだろう。つくしの誕生日だと、知った上で。

「父さんが、それを?」

「もちろん、了承して下さったわ」

「……」

 斗吾にしてみれば、類と芹香との結婚は何の問題もない。芹香がそう言うのであれば、きっと簡単に了承したであろうことは容易に窺える。類の意思など、関係なく。

「今日は、それだけ伝えに来たの。抜け殻でもいいわ。類が手に入るなら」

「……」

 悪女とは、まさに芹香のためにある言葉なのかもしれない。
 口元を綻ばしながら去っていく後ろ姿に、類は憤りを隠せなかった。

◇ ◇ ◇


 ――無事で……、よかった。

 心底安心した顔付きの類に、つくしの視界が揺らいだ。つくしの両目から、大粒の涙が溢れ出す。
 類に、まったく信用されていなかった。そのことが、とても悲しくて。つくしよりも、芹香を大切にしているということがわかって。
 そんなの、当たり前なのに。

 故意の婚約ではなかったから。だからきっと、いつまでもつくしを想ってくれているのではないか、と自惚れていた。

 胸が、引きちぎられそうに苦しくて。でも今更、類に何を言うこともできなくて。ただ、つくしが思っていたことは。

「ど、みょ……じ……」

 ごめんね、と涙がつくしのこめかみを伝う。ゆっくりと目を開ければ、真っ白い天井が映った。

「ここは……?」

「気が付いた?」

 呆けたつくしの言葉に返事をするように、声がする。つくしが眠らされているベッドの脇には、憂いを帯びた表情の類がいた。

「あたし……?」

「病院だよ、ここ」

「……病院?」

 少しだけ、頭にかかった靄が晴れてきた。

 そうだ、あの日。類と芹香が抱き合うところを、見ていられなくて。つくしは、トイレに逃げ込んだ。そうして一人、嗚咽を漏らしていて。
 立ち上がり、視界が歪んだあとの記憶が、ない。

「相当、疲れてたんじゃない?」

「え?」

「病院に連れてきたの、3日前だよ」

「……うそ」

「ホント。牧野の両親に連絡したけど、逆に、よろしくお願いしますって頼まれちゃって。優紀ちゃんと俺と、交代で牧野についてた」

「そう、なんだ……」

 なんて薄情な親なんだ、とつくしは嘆きそうになったが。それよりも、つくしの脳裏に残ってしまった言葉。
 『優紀ちゃんと』。

 それほど、類は優紀と親しくなってしまったのだろうか。

「肺炎、だって」

「え?」

 情けない、とつくしが目を瞑ると、類がそう口を開いた。

「なりかけだけどね。危なかったらしいよ」

「……そう」

 つくしは布団の中で、シーツを握り締める。

「また、花沢類に助けてもらっちゃったね」

「うん。でも」

 ふわ、とつくしの頭を撫でながら、類が天使の微笑みを向けた。

「牧野を助けるのは、俺の役目だって思ってるから。だから、気にしないで」

「……ありがと、花沢類」

 類の優しさに、涙が滲む。
 やっぱり、類にはずっとそばにいてほしい。誰と結婚しても、ずっとそばで支えてほしい。

 つくしが、そう思った刹那。コンコン、と病室のドアが音を響かせる。どうぞ、と類が言うと、ゆっくりとドアが開かれて。

「こんにちは、つくしチャン」

「……っ!!」

 嫌な香水の匂いが、瞬間、室内に漂う。ドアの前には、不敵に微笑んだ芹香がいた。

「何しに来た?」

「つくしちゃんのお見舞いに決まってるじゃない」

 きっ、と睨みつけた類に、にっこりと芹香は笑顔を見せる。
 つくしは起き上がり、呆然と芹香を見つめていた。

「それより、類。おじさまが捜してらしたわ。早く邸に戻って?」

「あんたと牧野を、二人になんかさせられない」

「まぁ」

 驚いた面持ちで、芹香はつくしに駆け寄って肩を抱く。

「ひどいわ、類ったら。つくしちゃんが私に何をするって言うの?」

「違う。牧野が、じゃなくて……」

「花沢類」

 類の言葉を遮るように、つくしが声をかける。つくしは布団の中で、拳を握り締めていた。

「あたしなら、もう大丈夫だから。お父さんが呼んでるんでしょ? 早く行って」

「牧野……」

 絡み合う二人の視線の脇に、芹香が映る。
 類は、ぎり、と歯を食い縛り。つくしを窺いながら、芹香に向かって口を開く。

「あんたも一緒に行くんだ」

 類の言葉に、どくん、とつくしの心臓が騒ぎ出す。つくしは、涙が溢れ出しそうになるのを必死に堪えていた。

「だーめ」

 くす、と口元に笑みを浮かべ、芹香は類に近寄る。

「私と一緒にいたいっていう類の気持ちはわかるけど、私、少しだけつくしちゃんと話したいの。だから、我慢して。ね?」

 す、と芹香の唇が、類の頬を捉える。触れそうになる寸前、類はそれを避けた。

「そうね、ごめんなさい。二人のときに、ゆっくり……ね」

 何をするか知れないこの女を前に、不用意なことは言えない。類だけが犠牲になるのならそれも構わないが、目の前にはつくしがいる。つくしを傷つけることだけは、絶対にできない。

「また、来るから」

 切なげに見つめる類の瞳に、つくしは頷く。
 そうしてゆっくりと扉が閉まるのを確認した芹香は、つくしが予想もしていなかったことを行動に移した。

「……え?」

「いい加減にしてくれないかしら?」

 ぽた、と布団の上に、髪から滴る水が落ちる。白い布団の上に散撒かれた花、そして濡れた布団。
 類が扉を閉めた瞬間、芹香は病室内にあった花瓶の中身をつくしに向かって投げつけたのである。

「類が優しいからって、困るのよね」

 それまで類が座っていた椅子に腰かけ、芹香は手に持っていたバッグから煙草を取り出した。

「ここ、禁煙ですけど」

「あら。私たちにとって、禁止なんて言葉、あってないのと同じだって知らなかった?」

 くす、とつくしを貶すような目で、芹香はつくしを見つめながら煙草に火を点ける。

 芹香の言う『私たち』には、当然類も含まれていて。
 改めて住む世界が違う人間なのだと思った反面、この女と婚約しなければならない類を、心底不憫に思ってしまった。

◇ ◇ ◇


 邸に着き、類は重苦しい息を吐き出しながら斗吾の元へ向かった。
 芹香との縁談が決まってからというもの、斗吾は日本にいることが多く。それだけでも、類にとっては煩わしくて仕方がなかった。
 邸の中で、類が斗吾と会話をする際の内容は、決まって芹香のことだったのだから。

「失礼します」

 ノックをして、類は斗吾のいる部屋に入る。少しだけ目を丸くして、斗吾は類を出迎えた。

「珍しいな。どうした?」

「は?」

 斗吾の言葉に、類は眉をしかめる。

「どうしたって、父さんが俺を呼んだんでしょう?」

 しばらく、斗吾は首を傾げて。それから、いや、と言葉を続ける。

「私は、おまえを呼んだ覚えはないが」

 ――やられた、と思うより先に、身体が動いていた。すべて、芹香の陰謀だったのだ。類とつくしを、引き離すための。

 走って、類は車に乗り込む。そうしてシートベルトを着けるのも面倒そうに、携帯を手に取った。
 どうか、間に合って。芹香が、つくしに何かをする前に。つくしが、無事でいるように。

 携帯の呼び出し音が、ひどく長い気がする。頼むから、出てくれ。そう願った刹那、携帯から親友の声が聞こえてきた。

『もしもし?』

「あきら!?」

 ほっとしたのも束の間、類は車を走らせながら、急くようにあきらに懇願する。

「お願い、あきら。病院に……牧野の元に向かって」

『は?』

「理由は、あとでちゃんと話すから。俺も、今向かってる」

『……わかった。幸い、俺、近くにいるから。すぐ向かう』

「頼むよ」

 何かを言いた気なふうではあったが、あきらはそれ以上何も言わず。類は、ぎゅ、と携帯を握り締めた。
 つくしに、何もなければいい。類の取り越し苦労であるならば、何も問題はない。

 類は、あきらとの通話を切った携帯で、今度は総二郎に連絡を入れる。

『もしもし』

「総二郎? 今、どこ?」

『今? えーっと……』

「ごめん、今すぐ牧野のところに行ってくれない?」

 どこ、と聞いてみたものの、総二郎がどこにいても、類の願いは変わらない。返事を待たずに、類は言葉を続けた。

『牧野のとこって、病院か?』

「そう」

『何かあったのか?』

「あるかもしれないんだ。だから、頼む……!」

 自ずと、携帯を持つ手が震える。何もないことを、切に願う。かもなんて、本当は想像したくない。

『わかった。優紀ちゃんに連絡取って、彼女にも病院に向かうように伝えとく』

「ありがとう」

 切羽詰った類の様子に、総二郎もあっさりとそう承諾してくれて。持つべきものは親友だな、と深く感謝した。

 信号で車が停まる度、類の不安が広がる。とにかく、無事でいてほしい。それだけを胸に、類は病院へと車を走らせた。

◇ ◇ ◇


「28日」

 ぽつり、と口を開いた芹香の言葉に、つくしは、ギク、と顔を強張らせる。

「道明寺さんと、ニューヨークへ行くそうね」

 まだ、返事をしたわけではない。それなのにそう決まっているかのように言われると、正直、つくしにとって面白くないのは当然である。

「奇遇よね」

 ふふ、と口元に笑みを浮かべながら、芹香は言葉を続けた。

「その日、私と類の婚約発表があるの。正式に、私たちは婚約するのよ」

「――…っ」

 つくしは、握り締めた拳に力が入るのがわかった。手が、震える。芹香の言葉を信じたくなくて、違うことを考えようとしている自分がいる。

 そんなつくしの様子を察してか、芹香は淡々と言葉を繋げた。

「そうねぇ。式は……6月かしら? もちろん、つくしちゃんも来てくれるわよね? だって、婚約者の親友の結婚式なんですもの」

 この場合、まだ正式に婚約したわけではなくとも、婚約者というのは司のことで、婚約者の親友と言えば、当然、類のことである。

 芹香はつくしに向かって、ふ、と煙草の煙を吹きかける。けほ、と咳をしてみても、芹香は動じない。それどころか。

「……っ!?」

 ぐぐ、とつくしは、手に一層力を込める。握り締めた甲の一点に、芹香がそれまで咥えていたはずの煙草が押し当てられていて。その煙草と共に、芹香の尖った爪が食い込んでいく。

「それじゃあ、また来るわ、つくしちゃん。今度は、類と一緒に」

 俯いたつくしの耳元で、悪意など微塵も感じさせない芹香の声が響いた。
 何も言わないつくしを尻目に、カツカツ、とヒールで床を蹴る音が鳴り、ゆっくりとドアが開閉する。
 そうして病室が無人になると。途端に、つくしの両目から涙が溢れてきた。

「……ッ」

 濡れた髪が、服が、シーツが、気持ち悪い。煙草の火傷痕か芹香の爪痕かわからないけれど、手の甲が痛い。
 だが、何よりも。

 口を開けなかった自分が、情けない。何かを言ってしまえば、すべてが嘘のような気がして。

 類は司の親友である前に、つくしにとっても自身の一部のように大切な存在である。その類への、秘めた恋心。絶対に気付かれてはならないこの想いを隠したまま、類の結婚式に参列するなんて。

 喜んで、なんて嘘でも言えない。おめでとう、なんて面と向かって言えるはずがない。

「泣くなよ」

 ふわ、と温かな腕に、つくしは抱き寄せられた。泣くのに集中してしまって、ドアが開いたことにまったく気付かなかった。

「おまえが泣くと、調子が狂う」

 ぎゅ、とつくしを包む腕に、力が入る。

「みま……さか、さん……?」

 不意に現れたあきらの存在を確認するように、つくしは搾り出すようにそう呟いたのだった。