花より男子/シロツメクサ(15)


「3月?」

「ああ」

 大学の構内を、総二郎とあきらは二人で歩いていた。

「急だな」

「……」

 あきらに言葉を返すでもなく総二郎は黙々足を動かした。するとポケットで携帯が震え始め、それに反応して足を止める。

 携帯を手に取り、総二郎はサブディスプレイに表示されていた名前を見て、ぎゅ、と携帯を握り締めた。

「鳴ってるぜ、携帯?」

 ひょい、と総二郎の背後から顔を覗かせたあきらが、そう声をかけるのだが。
 それにも答えず、総二郎は震えたままの携帯をまたポケットの中に入れた。

「優紀ちゃんだろ?」

「……」

 無言の総二郎に、あきらは軽くため息を吐く。

「お前なー。無視はよくねぇぞ? 優紀ちゃんだって、何か話があるから……」

「何を話すんだよ、今更」

 ポケットの中の携帯が静まり、そうしてしばらくしてまた震え出す。それを握り締めたまま、総二郎は足を動かし始めた。

「結納をすっぽかさせといて、今更無視はねぇだろ? お前だって、3月になったら……」

「だよな」

 くるり、とあきらを振り返り、総二郎は口元に笑みを浮かべる。

「はっきり言うべきだよな。優紀ちゃんのことなんて、微塵も好きじゃないって」

「ち、違うだろ」

 予想外の言葉に、がく、と肩を落としたあきらから視線を外して、総二郎は再度携帯を取り出した。着信が1回と、メールが1回。どちらも、優紀からだった。

 ふぅ、と息を吐き出しながら、総二郎はメールを確認する。

『つくし、知りませんか?』

 そこには、総二郎が予想もしていなかったことが書かれていた。つくしのことなんて、優紀の方が知っていそうなものなのだが。

「今日、牧野見た?」

「牧野? 見てねぇけど」

 総二郎も、今日は大学でつくしを見かけてはいない。構内にいれば、一度は目にしてもおかしくはない気がする。とすれば、今日は大学へは来ていないのだろうか。

「連絡つかねぇの?」

「さぁ。ちょっとかけてみる」

 言って、総二郎はつくしの携帯に連絡を入れる。
 だが何度コールしても、つくしが出そうな気配はなかった。

「出ねぇな」

「そういや、今日は類もいなかったな」

 あきらの言葉に、思わず顔を見合わせる。

「まさか、いくら何でも……」

「でも、ありえない話じゃねぇだろ」

 言いながら、総二郎は類の携帯を鳴らした。

 プロポーズされた翌日に、その親友と一緒にいるなんて。常識では、考えられない。
 だがつくしと類に限っては、そういう常識など通用しないのかもしれない。あの二人の関係は、ただの友達と言ってしまうにはとても物足りない。魂が結ばれていると言っても過言ではないほど、互いを想い合っているのだから。

◇ ◇ ◇


 類の部屋で、芹香は類を待っていた。シャワーを浴びてくると言って出ていったきり、まだ戻ってこない。
 いくらなんでも長すぎはしないだろうか、と壁かけの時計を確認しようと思ったのと同時、サイドボードの上に置かれた類の携帯が音を響かせた。

 何の躊躇いもなく、芹香は類の携帯を手に取る。

「もしもし?」

『あれ? えーっと……。花沢類の携帯、ですよね?』

「ええ、そうよ。夫は今、シャワーを浴びてるわ」

『夫ぉ?』

 驚いて発した総二郎の奇声に、ふふ、と笑いながら芹香が付け加える。

「未来の、だけど」

『……もしかして、橘芹香サン?』

「ええ。いつも類がお世話になってます」

 平然と、まるで他人にかかってきた電話ではないかのように、芹香はそう総二郎に言う。

『あー、じゃあ、いいです。お邪魔しました』

「いいえ。これからも、類のことよろしくお願いしますね」

 言って、芹香は携帯を切った。そうしてサイドボードの上に携帯を置き、再度、壁かけの時計に視線を移した。
 類が浴室に向かってから、間もなく1時間。いくらなんでも、遅すぎはしないだろうか。

 芹香は、思い立ったように浴室へ足を向けた。

「た、橘さま!?」

「退きなさい」

 何の躊躇いもなく浴室の扉を開けようとした芹香を、使用人たちが止める。

「いけませんっ。い、今……、今は、類さまが……!」

「私は、その類の妻になる女よ!?」

「……っ」

 きっ、と使用人を睨みつけ、芹香は使用人たちが止めるのも聞かず、浴室の中へ足を踏み入れた。

「類?」

 シャワーから水の流れ出る音が、広い浴室に響いている。

「……類?」

 声をかけるが、返事はない。

「類!」

 シャワーは、その流れ出るお湯を誰に浴びせるでもなく。ただひっそりと、そこで流れ続けていた。

「類っ」

 声を上げて、芹香は類をすみずみまで捜す。
 だが静まり返ったそこに、類のいる気配はなかった。

「逃げられた……っ」

 くっ、と苦虫を噛み潰したような表情をして、芹香は拳を握る。そうして踵を返し、浴室をあとにする。

「絶対に、逃がすもんですか」

 類の向かう場所は、わかっている。つくしの家だ。

「……渡さない、絶対に」

 つくしにだけは、渡さない。あんな、何も持っていない辺鄙な女に、類は似合わない。
 そう、類に似合うのは、産まれた瞬間から地位と名誉を保障された人間。

 司からも愛され、そして類からも愛されているつくし。一般庶民のつくしが、財閥のジュニアである二人に愛されているなんて。

「許せない……」

 嫉妬に満ちた芹香の表情は、正に鬼の形相そのものだった。

◇ ◇ ◇


「類の携帯に、橘芹香が出た」

 バタン、と携帯を閉じて、総二郎はあきらと顔を見合わせる。

「橘芹香が?」

「……」

 顔を曇らせて、総二郎は小さく頷いた。あの類が、自分の携帯を他人に触らせるなんて。ありえない。

「もしかして、類は……」

「恐らく、な。あきら、急いで牧野の家に向かうぞっ」

「ああ!」

 二人、考えついた答えは一緒だった。

 類がつくしに好意を寄せているというのは、高等部の頃からわかっていた。
 それでも類は友情を取り、つくしと司を見守っていくことを選んだ。そうして司のいない4年間、ずっと類はつくしとの距離を保って、そばで支えてきたのだ。

 正直、そこまで一人の女を愛せるなんて、あきらと総二郎にはできないことで。羨ましいとさえ思ったこともある。
 それが親友の彼女でなかったなら、どんな策を使ってでも二人を結びつけてやれるのに。

 それが親友の彼女であったがために、類は手を引かざるをえなかった。
 つくしもまた司を選んだわけなのだから、そうすることが必然だと思っていた。橘芹香という女が現れるまでは。

 類の婚約者という立場で現れた芹香につくしが動揺していたのは、手に取るようにわかった。そうして、司のまっすぐで力強い愛、類の直向きで包み込むような愛に心が揺れていたのも、当然、あきらだけでなく総二郎も気付いていた。

 御曹司という立場に産まれた自分たちにとって、結婚は意味のないものである。類だって、そう思っていたはずだ。将来、誰と結婚することになっても、それは決して自分の意思でないこと。親に従わなければならないことも。

 その類が、自分の携帯を手放してまで芹香のそばから離れたということは。考えられるのは、つくししかいない。
 今、きっと類はつくしのところにいるはず。そうして、携帯に出ないつくし。つくしと類に、何かが起こっている。そう考えつくのは、容易であった。

 間違いが起きなければいい。いや、それが間違いでなかったとしても、結果、親友のどちらかが傷付くのは目に見えている。誰もが幸せになる結果なんて、最初から用意されていないのかもしれない。

 それでも、F4全員が幸せであるように願うのは、無謀だろうか。
 親友の二人が一人の女を好きになった時点で、均衡が崩れてしまうのは仕方がないのかもしれない。それでも、全員の幸せを願わずにはいられなかった。

 総二郎は、徐にポケットから携帯を取り出した。このまま、逃げているのはよくない。わかっているのに、今口を開いたら、やはり優紀を傷付ける言葉しか出てこないような気がして。

 それでも、優紀は待っているだろうか。総二郎からの、連絡を。

◇ ◇ ◇


 はぁ、と息を切らしながら、類はつくしの住むアパートの階段を駆け上がった。

「牧野、入るよ!」

 どんどん、と叩いて、返事も聞かずにドアを開ける。

「牧野?」

 ぐるり、と室内を見渡して声をかけるが、返事はない。類は靴を脱ぎ、徐にトイレの前に立った。

 がちゃ、と類はノブに手をかけるが、中から鍵がかかっているのか回らない。ノブに手を置いたまま、類はドアに額を押しつけた。

「牧野、いるんでしょ? ……鍵、開けて」

 シンと静まり返った部屋に、類の声だけが聞こえる。訝しげに思い、類は少し声を上げた。

「鍵、壊してもいいの?」

 それでも、返事はない。類が部屋を出てから、かれこれ1時間以上は経過している。

 異変に気付いた類は、中にいるであろうつくしに気を遣いながらも、焦る気持ちを抑えることができず、勢いよくドアを蹴破った。だがドアは、途中までしか開かず。どん、と中にある何かにぶつかる。

「牧野!?」

 それがつくしであることは、容易に想像できた。

 わずかな隙間から、類はトイレの中に入る。そこには、便器に頭を預けるように項垂れたつくしがいた。

「牧野っ」

 狭いトイレの中、類はつくしに触れる。その反動で、ぐら、とつくしは身体を傾け、類に頭を預ける形になった。身体が、燃えるように熱い。

「牧野……。牧野、しっかりして。牧野!」

 類は懸命に声をかけながらつくしを軽く揺さぶってみるが、まったく反応はなかった。瞬間、蒼くなった類は、救急車を呼ぼうとポケットを弄る。

「そうだ、携帯……」

 ポケットに手を当てて、類は携帯を邸に置いてきたことに気付いた。こんなことなら、やはり持って出てくればよかっただろうか、と思うが、今はそんなことを考えている暇はない。

 つらそうな表情のつくしの唇に、類は一瞬だけ、そっと自分のそれを触れさせて。それから、つくしを軽々と抱き上げた。
 頬と頬をすり寄せて、つくしを抱く腕に力を入れる。こんなに、近くにいるのに。いつもいつも、そばにいたのに。

「……ごめん」

 泣いているのがわかっていたのに、放っておいて。
 きっと、類たちが帰ったあとも、一人で泣いていたのだろう。そう思うと、胸が締めつけられそうになる。

 頼りなよと言ったのに、結局支えてあげられなかった。一人で、泣かせてしまった。

 つくしの目が覚めたら、今度こそ涙の理由を聞こう。
 もしも、つくしが類と同じ考えで涙を流したのだとしたら。そのときは、たとえ司を裏切ることになろうとも、今度は絶対に手放したりしない。どこに逃げることになったとしても。

◇ ◇ ◇


 優紀は、ひらすらつくしに電話をかけていた。特に、大した用があるわけではない。それなのに、つくしが電話に出ないことが何故かとても不安で。
 バイト中だったとしても、メールくらいは返してくれるはず。
 だが今日に限っては、その返信さえも届く気配がなかった。

 はぁ、とため息を吐き、優紀が電話を切ろうとした瞬間。

『――はい』

「つくし!?」

 ようやく出たつくしの携帯に、優紀は心底ほっとする。そうして、思わず涙が滲んでしまった。

「よかった……。あたし、ずっと電話してたのよ?」

『ごめん、牧野じゃないんだ』

「え?」

 確かに、優紀はつくしの携帯に電話をかけていた。そのつくしに携帯に、つくし以外の人が出るなんて。しかも、この声は。

「もしかして、花沢さん……ですか?」

『うん』

 一体、どういうことなのだろう。優紀の耳がおかしくなったわけでなければ、今、つくしは類と一緒にいるということで。

 昨日、確かにつくしは司からプロポーズされていた。それも、みんなの見ている目の前で。それなのに。

『ちょうどよかった。今から、はるクリニックまで来てもらえるかな? 牧野が倒れたんだ』

「……え!?」

 携帯を持つ手が、思わず震える。力なく落としそうになり、何とかそれを堪え、ぎゅ、と握り締める。

「つ、つくしが倒れたって……?」

『詳しくは、来てから説明するよ。命に別状はない。2、3日すればよくなるって。』

「わ、わかりました。すぐに行きますっ」

 慌てて電話を切り、優紀は出かける用意を始めた。そうして慌しい中、優紀の携帯が音を響かせる。てっきり類だと思い、優紀は着信名を確認するでもなく、慌てたまま通話ボタンを押した。

「もしもし!?」

『びっくりしたぁ。どうしたの? 何か、急いでる?』

「――…」

 声に、優紀は目を大きく見開いた。

『牧野、見つかったかなーと思って。俺も今、あきらと一緒に捜してるんだけどさ』

 どんなに電話しても、絶対に出てくれなかったのに。どんなにメールを送っても、返事なんてくれやしなかったのに。
 つくしのためなら、そんな相手にでも電話ができるのだな、と優紀は目の前が真っ暗になるようだった。
 優紀個人としてでなく、つくしの友達として、今、総二郎は電話をかけてきている。だとするならば。

「……つくし、見つかりました」

『え?』

 知らないふりをするしかない。それで総二郎との会話が成り立つのであれば、そうするしかない、と。

『そう、それならいいんだ。で、牧野は?』

「今、はるクリニックにいるみたいです。花沢さんから、連絡がありました」

『類から?』

 訝しげな総二郎の声に、優紀は、はい、と小さく頷くのだった。