花より男子/シロツメクサ(14)
「……何だっけ、これ?」
目が覚めると、つくしはひどい頭痛に悩まされていた。昨日は総二郎の誕生パーティ。だが、アルコールは一滴も口にしていない。とすれば。
昼とはいえ、12月。寒気が吹き荒れる中、バルコニーで過ごしたことや深夜のベランダが原因かもしれない。
「風邪薬、風邪薬……っと」
重い身体を動かしながら、つくしは薬箱を探す。すると。
ピンポーン。
呼び鈴が鳴り、つくしは気怠そうにパジャマの上からカーディガンを羽織る。はいはい、と息を吐きながら、つくしは玄関を開けた。
「――…」
「初めまして、牧野つくしサン」
そこに立っていたのは、思いがけない人物で。つくしは、自分の目を疑った。こんなところに、なぜ。
「は、はじめまして」
上手く、頭が回らない。
面と向かって会ったのは、彼女の言うとおり初めてである。遠目に見たことはあったが、会話をしたわけでもなく。彼女がつくしをなぜ知っているのかも疑問である。
その彼女が、なぜこんな時間につくしの自宅へ姿を現したのか。
「花沢類の婚約者、橘芹香と申します」
知ってます、という言葉を、つくしは口に溜まった唾と一緒に飲み込む。
いつだったか、類と腕を組んで歩いていた女性。そのときあきらにも教えてもらった名前が、本人の口から聞かされる。
「こんな時間にごめんなさいね。ちょっと、携帯をお借りできないかと思って」
「は? け、携帯、ですか?」
「ええ」
「……」
にっこりと、芹香は悪意など感じられない表情でそう笑顔を見せる。
こんなに朝早く、初めて会うであろうつくしに携帯を借りに来る意図がまったく見えない。
「この辺に、他に知り合いがいなくて。どうしても、急いで連絡を取りたい人がいるの」
「……」
困っている人間がいて、それを足蹴にすることなどつくしにできるはずもなく。
訝しげに感じながら、つくしは室内から携帯を持ってきて芹香に差し出した。
「ごめんなさい。少し、お借りするわね」
「……」
先ほどから、つくしは声を発することができずにいた。
今、目の前に芹香がいる事実。それを、なかなか受け入れることができない。
だが芹香は、そんなつくしのことなどお構いなしと言わんばかりに、つくしの携帯のボタンを器用に押していく。まるでそれが自分のものであるかのように、ごく自然に。
そうして耳元に携帯を当て、つくしと目があって一笑する。驚いているつくしの方が、変なのだろうか。
困惑しているつくしを尻目に、芹香が口を開いた。
「類? 私よ」
つくしは、目の前が闇に覆われていく気がした。
「牧野?」
着信を見て、類は笑顔で通話ボタンを押した。つくしから連絡が来るなんて、そうあることではない。どんな他愛のない用件でも、つくしからの着信が嬉しくて。
ところが綻んだ類の表情が、一瞬にして曇る。携帯から聞こえてきた声は、類が期待していた人物のものではなかったのだ。
『類? 私よ』
身の毛が弥立つのを、類は感じた。
「……何で、アンタが?」
携帯を握る手に、自然と力が入る。着信は、間違いなくつくしからだった。ということは、芹香がつくしの携帯から電話をかけているということになる。
今、芹香はつくしと一緒にいるのだろうか。
『携帯を水に落としちゃって。繋がらなくて、心配したでしょう?』
「心配? 俺が、アンタを?」
そんなこと、ありえるはずがない。
『ええ。今、つくしちゃんのお家なの。類に連絡を取りたいって言ったら、喜んで貸してくれたわ』
「……」
『え? 大丈夫よ、類だって忙しいのに。私のためなんかに、わざわざ迎えに来てくれなくたって』
「……」
『そう? じゃ、ちょっとつくしちゃんに聞いてみるわね』
つくしちゃん、とそこから、少しだけ芹香の声が小さくなる。携帯を少しだけ除けて、つくしに声をかけたのだろう。だんだん、芹香の思惑が読み取れてきた。
『類がね、今から迎えに来るって言うの。私、迎えはいらないって言ってるのに、心配だからって。類が来るまで、ここで待たせてもらっても構わないかしら?』
芹香はつくしの目の前で、類は自分のものだと強調したいのだろう。そのために、わざわざ。
『類? あのね、ここで待っててもいいって』
つくしなら、きっとそう答えるであろう。困っている人間が目の前にいて、助けを求められたら。手を、差し伸べずにはいられない性格だから。
そんなつくしとは対照的な芹香と、本当に結婚しなければならないのだろうか。
どうかこれが悪夢であることを、心底願う。
「……牧野に、手を出すな」
念を押すように、類は地を這うような声を出す。
『うん、わかってる。つくしちゃんに迷惑なんかかけないわ。だから、早く迎えに来てね』
この、わざとらしく甘えた口調。……気持ちが悪い。
今の言葉だって、裏を返せば『迎えに来なければつくしに何をするかわからない』と言われたようなものだ。
ツー、という途切れた電子音が、類の耳に木魂する。ぎり、と歯を喰い縛り、類は車の鍵を手に取った。
決して、芹香を迎えに行くわけではない。芹香という魔手から、つくしを救い出すために向かうのだ。
そう自身に言い聞かせながらも、類は、結果的に芹香を迎えに行っていることへ憤りを覚えていた。
「ごめんなさいね、つくしちゃん。類が我儘で」
「……いえ」
どちらかと言えば、類は我儘なのではなく気紛れなのではないだろうか。
類は決して、自分の我儘を人に押しつけることはしない。
だから、類が芹香を迎えにくると言うのであれば、それは我儘なのではなく。ただ純粋に、芹香を心配してのことだ。
「……」
きゅ、と目を瞑り、つくしは握った拳に力を入れる。ここで、芹香と一緒に類を待っているのはなぜだろう。
類が芹香を迎えに来て、そして仲良く帰っていく姿を見送る必要が、果たしてつくしにあるのだろうか。
狭い部屋の中、たった一つの机を挟んでいるだけの距離。つくしは、類が芹香を迎えに来ることを望んでいるわけではない。だが、早く芹香にいなくなってほしいと思っているのは事実だ。
「牧野……っ」
そのとき、バタン、という激しい音とともに、玄関が開かれた。そこにいた類の姿に、つくしがほっとしたのも束の間。次の瞬間、つくしは自分の両目を抉ってしまいたい衝動に駆られた。
類、と彼の名を呼び、芹香は。そのまま、類に抱きついた。ぐぐ、とつくしの心臓が、締まっていく。目を伏せたいのに、身体が硬直してしまって動かない。
「そんなに心配だったの? すごく早かったけど」
「……心配、だったさ」
眉根を寄せたつくしを見つめながら、類は答えた。
「無事で……、よかった」
はー、と身体中から、類は息を吐き出す。
つくしが無事で、本当によかった。芹香に何かされやしないかと、心配で。
類が、そう思った刹那。
「――…」
つくしの両目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。つくしの涙の意味がわからずに、類は訝しげな表情を向ける。それに気付いて、つくしは狭い家の中、慌ててトイレに駆け込んだ。
「ま……っ」
「る~い」
つくしを追おうとした類の腹部に、硬い物体が押しつけられる。
「このまま黙って立ち去るのと、ここが血の海になるの、どっちがいい?」
「……」
つくしには聞こえないように小声で、芹香がそう囁いた。ごり、と押しつける力を強め、芹香は類に笑顔を見せる。恐らく、押しつけられているものは。
「……」
類は、じっとトイレのドアを見据えた。そのドアの向こうに、つくしがいる。一人で、涙を流している。
支えてあげたいときに、側にいることができないなんて。
つくしの涙の意味さえ、理解できなくて。守ってあげることもできない。
「行きましょう、類?」
腕を引かれ、類は名残惜しそうに足を動かす。
「つくしちゃん、私たち、帰るわね」
「……」
ゆっくりと閉まる玄関のドアの隙間から、類はじっと無言のトイレのドアを見つめていた。
パタン、と扉の閉まる音がする。人の気配が消えた途端、ボロボロと涙が止まることなく溢れてきた。
(どうして……?)
思えばきりがないのに、思わずにはいられなくて。
何が悲しかったかと言えば、つくしといることで、芹香に危害が及ぶのではないかと思われていたこと。それが、何よりショックで堪らなかった。
どうして、いつもこうなんだろう。なぜ、いつも類とは擦れ違ってばかりなのか。
結局、類と結ばれることなんて、不可能だったのだろうか。
狭いトイレの中、つくしは便器に縋るように座り込んだ。
止まらない涙がつくしの頬を伝い、下に落ちていく。その濡れた染みが、つくしの悲しみをより一層のものとして。
「ごほ……っ」
嗚咽とともに、思わず咳き込む。そういえば、とまだ薬を飲んでいないことに気が付いた。
それだけではなく、まだ朝食も摂っていない。
泣いてばかりもいられない、とつくしは立ち上がるが、その瞬間、ぐらり、と世界が揺れた。そのまま尻餅をついたつくしの瞼に、司が浮かぶ。
――結婚しよう。
澄んだ、まっすぐな瞳。迷いのないその目には、何か大きな力が隠されているようで。
その腕に抱かれていたら、きっとすべてが丸く収まったはずだろう。だが。
そっと目を閉じたつくしの頬に、濡れた道ができていく。
(ごめん、道明寺……)
気付いてしまった、から。だから、司と結婚するわけにはいかない。自分の気持ちに、これ以上嘘を吐くことなどできない。
別れたい。そう言えば、司はどういう反応を示すだろうか。冷静に、話を聞いてくれるだろうか。それとも、熱り立って怒鳴るだろうか。
どちらだとしても、司を傷付けることは間違いない。たとえ類が芹香と結婚したとしても、こんな生半可な気持ちで司と結婚するわけにはいかない。
「……っ」
はぁ、と息遣いが荒くなる。身体が熱って、頭がガンガンする。
瞼の裏に映る司は、いつも前を向いていて。つくしのことだけを、ずっと想ってくれていた。
だからこそ、中途半端にはできない。早く、別れを切り出さなければ。
「……」
徐に目を開けてみるが、焦点がどうにも定まらない。浮いたように頭がフワフワしていて、身体が動いてくれない。ただでさえ熱っぽかった上に、きっと泣いてしまったからだろう。無理が、来たのかもしれない。
もう一度目を閉じた瞬間、つくしは自分の意思とは関係なく意識が手放されるのがわかった。このまま、流れに乗るように。司とのことも、なかったことにできればいいのに。
――フザけんなっ!!
遠退く意識の中で、そう怒鳴る司の声が聞こえた気がした。
◇ ◇ ◇
「もういいだろ」
「何が?」
「それ。いい加減、離せよ」
バタン、と車のドアを閉めて、類が助手席の芹香を睨む。助手席には、つくし以外乗せるつもりはなかったのに。
「あら、怖い?」
「まさか」
類に言われ、芹香はそれまで向けていた拳銃をバッグに仕舞いながら口端を少し上げた。小馬鹿にしたような芹香の笑いに、類は軽く息を吐く。
「死ぬのが怖いなんて、思ったこともないよ」
そう。拳銃を向けられて黙って芹香に従ったのは、決して死を恐怖したからではなかった。
「牧野つくしのため、でしょ?」
ふふ、と笑いながら、芹香は類を見つめた。
「あそこで類が撃たれれば、牧野つくしの目に無惨な光景が焼きつくことになるものね。玄関先で類が死んでる光景なんて、きっと忘れたくても忘れられないわ」
「それを、わかった上で……?」
「もちろん」
「……」
類は、ゆっくりと車のエンジンをかけた。
あそこで、もし類が芹香に従わなければ、類はつくしの家の玄関で撃たれることになった。銃声とともに、きっとつくしはトイレから出て来ただろう。そうして、血の海に倒れる類の姿を見つけ。
つくしが、平静でいられるわけはない。もしかしたら、類が撃たれたのを自分のせいにしてしまうかもしれない。
「目的は、何だ?」
「目的?」
「今日のことだよ。わざわざ牧野の家に行って、俺を呼び出して。一体、何が目的なんだよ?」
「忠告よ」
「忠告?」
「そう」
ふふ、と不敵な笑みを浮かべながら、芹香が答える。
「類は私のものだって、そう釘を刺しておきたかったの」
「……それだけか?」
「それだけよ」
「そんなの、わざわざ牧野にする必要ないだろ? 牧野は……司の、婚約者だ」
言いながら、類はハンドルを持つ手に力が入るのがわかった。
つくしの涙の原因に、もしかしたらと淡い期待を持ってしまった自分がいた。でなければ、芹香が類に抱きついたのを見て泣いたりしないのではないか、と。
たがその理由が何だったとしても、つくしが司の婚約者であるということは変わらない。
「牧野つくしに、じゃないわ。あなたによ、類。あなたにわからせたかったの」
つくしに釘を刺したかったのも、もちろんあったかもしれない。だがそれ以上に念を押したかったのは。
「間違わないで、類。あなたの婚約者は、私なの。あなたは、私と結婚するのよ」
「……」
静かな、車という密室で。類は、芹香から逃れることができない。
婚約発表をする前から婚約者気取りのこの女と、本当に。自分の人生を捨ててまで結婚する価値があるのだろうか、と類は、芹香との婚約を決めた斗吾を恨まずにはいられなかった。
「一体、どこまでついてくる気だよ?」
「あら」
花沢邸の駐車場、類が車から降りると、同じように芹香も降りてきた。じろり、と類は芹香を睨む。
「私は、類の妻になる女よ? どこへだってついて行くわ」
ごく自然に、言いながら芹香は類の腕に自身のそれを絡めてくる。
誰か、このまま肩から切り落としてくれないだろうか。つくしを守れない腕なんて、持っていても意味がないのに。
はぁ、と身体中の力を抜くように、類は大きく息を吐き出した。受け止めなければならない現実を前に、どうにか抜け出せはしないかと考える。どこにいても、芹香は類の居場所を突き止めて隣にいる。蛇のようだと喩えるのは、蛇に失礼かもしれない。
お帰りなさいませ、と使用人が声をかけるのも無視して、類は自室へ足を向けた。当然、腕には芹香が絡みついたままで。
「ねぇ、類?」
これがつくしだったなら、どれだけ幸せだろう。つくしと、腕を組んで。二人で、こうして過ごせたのなら。
「パパがね、正式に婚約発表をしたらどうかって言うの。でね、おじさまに話したら、是非そうしなさいって言ってくださってね。それで、近いうちに婚約発表をしようと思ってるの。そうねぇ……。今月末なんて、どうかしら?」
「……」
類に、芹香の言葉は届いていない。聞く気なんて、もともとなかったのだから。
一瞬、芹香につくしを重ねようとして、思わずため息を吐いた。似ても似付かない二人を、どうして一瞬でも重ねようと思ってしまったのか。甚だ以て、馬鹿らしい。
「類? 聞いてる?」
言いながら、芹香は類の顔を覗き込む。これが、芹香でなかったら。
「シャワー浴びてくる」
サイドボードに、そっと携帯を置く。類の言葉に、芹香は絡めていた腕を外した。
「行ってらっしゃい。本当なら一緒に浴びたいところだけど、まだ婚約前ですもの。残念だけど、我慢してね」
「……」
外された腕に、類は心底ほっとする。やっと、一人になれた。
「このまま、ここで待っててもいい?」
「……好きにすれば」
そこは芹香がいる時点で、自分の部屋であって自分の部屋でない。落ち着けない空間なんて、あってないのと同じなのだ。
ぱたん、と自室の扉を閉め、長い広い廊下を見渡す。携帯を置いてきたのは、正解だった。携帯がなければどこにも行かないだろう、と芹香も油断するかもしれない。これで、少しばかりの時間稼ぎにもなる。
すぅ、と大きく息を吸い込んで、類は決意したように浴室まで駆けていった。