花より男子/シロツメクサ(13)


「ほら、牧野。オレンジジュースでいいだろ?」

「……ありがと」

 あきらからグラスを受け取り、つくしはそれをそのまま口に付ける。

「オレンジジュースでよかった?」

「は、はい。ありがとです」

「……」

 つくしの隣には、類からグラスを受け取る優紀がいて。
 優紀はつくしにとって大切な親友のはずなのに、なぜか今は顔さえ見る気分にもなれなかった。

「やっぱり、外は少し肌寒いね。優紀ちゃん、寒くない?」

「はい、平気です」

「……」

 類と優紀、二人の会話にいちいち耳を傾けてしまう。その度に、胸が苦しくなって。聞かなければいいのに、嫌でも耳に入ってくる。
 グラスを握るつくしの手が、わずかに震えてしまった。

「寒いか?」

 そんなつくしの手に、温かいあきらの手が重ねられる。俯いて、つくしは首を横に振った。

「大丈夫だよ、美作さん」

「嘘吐け」

 ぐ、と引き寄せるように総二郎に肩を抱かれて、思わずつくしの胸が躍る。

「肩、冷えてんじゃねぇか」

「それに、手も冷たいぜ? 中に入るか?」

「……ううん、平気」

 総二郎に肩を抱かれ、あきらには手を握られて。その隣には、親友と楽しそうに話す類がいる。
 なんとも言い難い複雑な状況の中で、つくしはそれでも類と優紀の会話を気にせずにはいられなかった。
 どんなに他愛ない話でも、ものすごく楽しそうに聞こえてしまう。なぜ、今つくしと優紀の立ち位置が逆ではないのか。

 そんなことを考えていると、くしゅん、と優紀のくしゃみが聞こえて、つくしは優紀の方を向いた。

「寒いの?」

「あ、いえ。平気ですっ」

「いいよ。これ着てな」

 類は着ていたスーツの上着を脱いで、優紀にかけた。その光景に、ぐらり、とつくしの視界が歪む。それに気付いたように、つくしの肩を抱く総二郎の手に力が入った。

「で、でも、花沢さんが……」

「なんか羽織るもの取ってくる」

 にっこりと一笑して、類は室内へ姿を消していった。

 類の姿が見えなくなったのを確認して、総二郎は類に負けないくらいの笑顔で優紀を見つめる。

「どういうつもり?」

 え、と優紀が目を丸くすれば、途端に総二郎は冷たい視線を送った。

「なに考えてンの、優紀ちゃん?」

「え? な、なにって……?」

 冷ややかな総二郎の瞳に、優紀は戸惑い、真っ青になる。

「寝た男の誕生パーティに、普通、他の男と一緒に来る?」

「あ、あの……」

 寒さではなく、恐怖で優紀の身体が小刻みに震え始める。
 いつもなら優紀をかばうであろうつくしも、なぜか言葉が出なくて。その光景を、黙って見つめていた。

「にし……」

「マジ、ありえねぇ」

 総二郎はつくしの肩を抱いたまま、室内へと足を向ける。つくしはそれに促されながら、優紀を見るが。

「……」

 類と楽しそうにしゃべっている光景が、頭に焼きついて離れなくて。
 悲痛な面持ちで総二郎を見つめる優紀に、声をかけることができなかった。

「あ、あんな言い方……」

「え?」

 バルコニーの扉が閉まり、ようやくつくしは口を開く。それでもやはり震えが止まらなくて、ごく、と唾を飲み込んでからもう一度口を開いた。

「あんな言い方、優紀が可哀想よ」

「お前は、どうして黙ってた?」

「――…」

 総二郎に言い返されて、つくしは口を噤む。ぎゅ、とワンピースの裾を掴み、目を大きく見開いた。

「お前だって、彼女に言いたかったことがあるんじゃないのか?」

「そ、んな……こと……」

「いや、あったはずだ。どうして類と一緒に来たのかって」

「……」

 心を、見透かされている気がした。つくしがそう思ったのは、事実である。たとえ口にしていなくとも、それが総二郎に伝わっていたということは。もしかしたら、優紀にも気付かれていたかもしれない。

「そこらへんにしとけよ」

 総二郎から奪い取るように、あきらはつくしの肩を自身に引き寄せる。

「言われなくても、牧野自身が一番わかってるんだ。わざわざ追い討ちかけるようなこと言うな」

「……」

 あきらの腕に、守られている。それが心地いいなんて、あきらには失礼なことかもしれない。
 それでも今は、この腕に頼らずにはいられなくて。つくしは、きつく目を瞑った。

「悪かったな、牧野」

 あきらの腕の中で、つくしは総二郎に頭を撫でられる。

「ちょっと、イラついてた。悪ぃ」

「……ううん」

 くしゃ、とつくしの髪を崩して、総二郎はあきらとつくしの前を通り過ぎていく。
 どこへ行くのかと視線を追いかければ、総二郎の先には先ほど紹介された百合がいて。きっと、彼女が総二郎の見合い相手なのだろうことは、容易に想像できた。

「帰るか?」

 あきらに囁かれ、つくしはすぐに頷く。

「今日は、疲れちゃった」

 かろうじて、口元に笑みを溢してはみるが。深いため息が、つくしの心境を物語っているようだった。

 結局、つくしは自分で決意したことを口にはできず。逆に、司からプロポーズされてしまった。別れようと言うはずだったのに。

 ――今月の28日に迎えにくる。

 司は、ああ見えても嘘を吐く性質ではない。だからきっと、口にした通り28日にはつくしを迎えにくるであろう。
 それまでに、つくしは別れを切り出すことができるだろうか。普段忙しくて連絡が取れないぶん、今日は別れを切り出すにはちょうどよかったはずなのに。

 なぜ、こんなことになってしまったのだろう。つくしが、あきらと一緒にいたから? それとも、類が優紀と一緒に来たから?

 考えあぐねいていても、答えが出るはずもなく。家路を走る車に揺られながら、つくしは静かに目を閉じていた。



「あれ?」

 上着を羽織ってバルコニーに戻った類は、そこにいたはずのつくしたちの姿がないことに首を傾げる。

「牧野たちは?」

 類が一人空を見上げる優紀に後ろから声をかけると、はっとして優紀は振り向いた。

「つくしたちなら、もう中に……」

「どうしたの?」

 冷たい類の手が、そっと優紀の頬に触れる。驚いて、優紀は目を大きく見開いた。

「あ、あの……?」

「涙の跡。泣いてたの?」

「……」

 類の言葉に、優紀の涙腺が緩む。俯いて、優紀は両手で顔を覆った。

「ごめ、なさ……っ」

「何があったの?」

 優しく語りかけ、類はハンカチを優紀に差し出す。それを受け取って、優紀は鼻を啜りながら口を開いた。

「西門さんを、怒らせちゃったみたいで……」

「総二郎?」

 こくん、と首を縦に動かして、優紀は続けた。

「たぶん……、あたしがパーティに来たのがいけなかったんだと思います」

「でも、連れてきたのは俺だよ?」

「それでも、誘われたからってノコノコついて来たりしたから……」

 きっと罰が当たったんだ、と優紀は自分に言い聞かせる。

 あんなに冷たい瞳を向けられたのは、何年振りだっただろう。最近の総二郎は、ずっと優しかったのに。

「それって、さ」

 類は優紀の顔を覗き込むようにしながら、口元を綻ばせた。

「総二郎、俺にヤキモチ妬いたんじゃないの?」

「……え?」

 きょとん、と優紀は目を丸くする。

「優紀ちゃんが俺といるのが面白くなかったんだよ、きっと」

「そ、そんなことないです」

 慌てて首を横に振りながら、優紀は小さくため息を吐く。

「西門さん……、そんな人じゃないです」

「変わるよ、人は」

 優紀の隣に立って、類は空を見上げる。

「人との関わり次第で、人はどんどん変わっていくんだよ。よかれあしかれ」

「……」

「実際、俺たちF4はみんな変わったよ。もちろん、いい方向に」

「つくしのせい、ですか?」

「牧野のおかげだよ」

 目を閉じて、瞼に眩しいほどのつくしの笑顔が浮かぶ。たったそれだけで、類は幸せに浸ることができた。

「好きなんですか、つくしのこと?」

 幸せそうな類の表情に、思わず優紀はそう問う。聞いてしまったあとで、慌てて口を押さえた。だが類は、満面の笑みで優紀を向く。

「うん、好き」

 類の、こんなに無邪気で万福に満ちた笑顔を見るのは初めてだった。その表情から、どれだけ類がつくしを想っているのかが窺える。

「でも……、司のことも好きなんだ」

 打って変わって切なげな表情をして、類は静かに目を閉じた。自ずと、拳が握られる。

「二人とも、大好きなんだ」

「……花沢さん」

 ぐぐ、と握った拳に力を入れながら、類は言葉を漏らす。

 手に入れることも、突き放すこともできないなんて。そんな中途半端な関係でもいいからそばにいたいと願ったのは自分なのに、それでも二人が結婚することを想像したら……。
 とてもじゃないが、やり切れない気持ちでいっぱいだった。

◇ ◇ ◇


 はぁ、と深くため息を吐き、つくしは自宅のベランダから空を仰いだ。
 風が吹き抜け、つくしの髪がそれに攫われ靡いている。

 時刻は深夜二時を過ぎようとしていた。いつもなら、とっくに眠っている時間である。
 だが今日に限っては、とても寝てなどいられなかった。

「……」

 目を瞑ると、瞼に浮かぶのは親友とともに笑い合う類の姿。その光景が目に浮かぶ度に、ズキン、とつくしの胸がひどく痛む。
 類が婚約者と一緒にいるところを見たときよりも、ずっとつらい。類が好んで女性と歩くなんて、静と、そして……つくしだけだと、自惚れていた。

 ――優紀ちゃん、寒くない?

 名前なんて、知らないと思っていた。

「……っ」

 不意に、つくしの頬を涙が伝う。

 優紀が好きなのは総二郎だ。それはわかっている。優紀が類と一緒に総二郎の誕生パーティに来たのも、何か理由があってのことだと思う。でも。

 ――マジ、ありえねぇ。

 総二郎に冷たくされて、優紀が傷付かないはずがないのに。とても、声をかける余裕がなかった。
 あのあと、優紀はどうやって帰っただろう。類と、一緒に……?

 考えれば考えるほど、どんどん自分が惨めになっていく気がする。考えなければならないことは、他にあるはずなのに。

 ――今月の28日に迎えにくる。

 司が本気だとすれば、日本を離れる準備をしなければならない。両親や友達、そして大学やバイト先。連絡をしなければならないところは、たくさんある。きっとつくしが思うよりもずっと、この1ヶ月は短いものとなるかもしれない。

「牧野」

 類がつくしを呼ぶ声を聞くことも、少なくなる。

「牧野」

 うるさいくらいに、いつもつくしを気にかけてくれていて。

「牧野」

 忘れたいのに、忘れさせてくれなくて。

「まーきーの」

「……あれ?」

 それは、幻聴ではなく。慌てて下を覗き込めば、そこにはいつもと変わらぬ笑顔の類がいた。

「珍しいね、こんな時間に起きてるなんて」

「は、花沢類こそ……」

 三度の飯より寝ることが大好きな類が、こんな深夜に起きているなんて。奇怪としか言いようがない。

「最近はそうでもないよ。この時間は、よくここを通ってた」

「え?」

 切なげな類の表情に、つくしは眉根を寄せる。

「いろいろ、思うことがあって。眠れなくてさ」

「それで、ここを……?」

「うん。牧野がそこに住んでるって思うだけで、安心できるから。しばらくここから牧野の部屋を眺めて、それから家に帰ってた」

「そ、それじゃ、ストーカーと一緒じゃない」

「かもね」

 つくしが言った冗談も、あっさりと受け止めて。類は、優しくつくしを見つめていた。

「い、今、降りてくるから」

「いいよ」

 目頭が熱くなったのを感じ慌てて背を向けたつくしを、類が制する。

「牧野の顔が見れただけで満足。今日はぐっすり眠れる」

「……」

 ベランダの手摺りを掴む手に、自然と力が入る。

「じゃ、お休み」

「ま、待って!」

 思わず呼び止めてしまってから、しまった、と口を押さえた。

「どうしかした?」

「……」

 いつもと変わらず、類は優しい瞳でつくしを見つめていて。胸が、苦しくなる。

「あたし、も……、その、眠れなくて……。もう少しだけ、話さない?」

「いいよ」

 類の注ぐ笑顔に、つくしはほっとする。芹香とのことなんて、まるで嘘のようで。総二郎の誕生パーティに優紀と一緒に来たのも、きっと何かの理由があったからなんだ、と自分に言い聞かす。本人には、とてもじゃないが聞けなくて。

「明日もバイト?」

「う、うん、もちろん。今日休んでるから、明日は働かなきゃ」

「って言っても、もう日付変わってるんだけどね」

「それもそうね」

 くす、と互いに笑い、声が漏れる。こんな穏やかな空気が、なぜかとても懐かしく感じてしまった。
 つくしは家のベランダで、類は家の前の道路にいる。距離はあるはずなのに、心の距離はすぐ隣にいるようだった。

「早く寝ないと、明日起きられないよ?」

「うん、そうだね。花沢類は? 明日、何か予定あるの?」

「特にないから、一日、昼寝かな」

「花沢類らしいね」

 他愛のない会話が、とても愛しい。ずっとずっと、このままでいたい。このままずっと、誰にも邪魔されずにいられたらいいのに。

「じゃあ、俺、そろそろ帰るよ。おやすみ、牧野」

「うん、おやすみ。ありがとう、花沢類」

 つくしに背を向けたまま、類はヒラヒラと手を振った。

 類は、いつもと何も変わらない。今日のことも、きっと類にとっては何でもないことだったのだろう。つくしだけが、それを気にして。

「よしっ」

 気合を入れるように、つくしは両手で頬を包むようにして叩く。
 今日のことは、なかったことにしよう。類は今日、一人でパーティに来た。そう思い込めば、これ以上つらい想いを馳せることもない。

 くるり、と踵を返し、つくしは室内へ姿を消した。そしてその光景を、遠くから見つめる影があり。

「……許さない」

 ぎゅ、と握り締めた携帯を、地面に落とす。ずっと電話をかけていたのに、類は出る素振りさえ見せなかった。

「許さないわ、絶対に」

 がしゃ、という鈍い音とともに、地面に落ちた携帯が壊された。真っ赤なヒールが、寸分の狂いなく携帯を捉えている。
 爪を噛み、食い入るように、芹香は灯りの消えるつくしの部屋を見ていた。