花より男子/シロツメクサ(11)


「準備できたか?」

 ノックとともに扉が開かれて、あきらが室内に顔を覗かせた。

「う、うん。こんなんでいいの……かな」

 立ち上がり、つくしは戸惑い気味にあきらに歩み寄る。淡いピンクのワンピース。女性らしさを感じさせるその姿に、あきらは少しだけ頬を染めた。

「十分だ。きれいだぜ、牧野」

「い、いいよ、言わなくて」

 素直に褒めたあきらの言葉に、つくしは真っ赤になってそう言う。
 本心を否定されるように言われて、あきらは残念そうに口元を綻ばせた。だがそれがつくしなのか、と妙に納得できる部分もあって。
 ふぅ、と嬉しそうに息を吐き出した。

「じゃ、行こうぜ」

「うん」

 手を差し出され、そっとそれを取る。
 一歩一歩階段を下りていく際にも、あきらはずっと手を添えてくれていて。エスコート慣れしている、とつくしが感じたのも無理はないだろう。絵本の王子さまのように、優雅で気品に溢れていて。つくしは、言葉にできず微笑んでしまった。

「牧野」

 あきらとともに、用意された車の後部座席に乗り込んですぐ、あきらに声をかけられた。

「ん?」

 きょとん、としたようにあきらを見れば、膝の上に置いた手を、ぎゅと握られてしまって。つくしは、思わず目を丸くした。

「み、美作さ……」

「おまえに、会いたがってる女がいるんだ」

「――…」

 言葉のあとで、あきらはつくしの手を握る自分のそれに力を入れる。

「だ、誰?」

 まさか、と思いながらつくしの脳裏に、たった一度しか見たことのない類の婚約者である芹香の姿が浮かぶ。芹香がつくしに会いたがっているなんて、ありえるはずがないのに。

「今は言えない。言うと、おまえ……逃げるかもしれないから」

「に、逃げたりなんかするわけないでしょ、あたしが」

 言いながら、つくしは自分が震えているのがわかった。その震えに気付いたかのように、あきらは更に手に力を込める。

「心配すんなよ。なにも、取って食おうってわけじゃねぇんだから。ただ、ちょっとおまえとゆっくり話したいだけなんだってよ。総二郎のパーティの前に会う約束してるから、先にそこに向かうぜ」

「……」

 あきらの説明も、つくしには上の空だった。
 一度浮かんだ考えは、そう簡単には消えてくれなくて。つくしのことを知らないであろう芹香が、つくしに会いたがっているわけはないのに。他にも女の人の知り合いはいるはずなのに、どうしてかつくしに会いたがっているというその女性のことを、芹香しか思い浮かべられなくて。

 身体が自然と戦闘態勢を作っていたことに、つくし自身、まったく気付いていなかった。



 あきらに促され、着いたホテルの一室。緊張した面持ちで、つくしは相手の女性を待っていた。

「そんなに緊張すんなって」

 ぽん、とあきらの手がつくしの頭の上に乗って、思わずはっとする。

「緊張……って、いうか」

 なんとも言えない、不思議な感覚だった。果たしてこれを、緊張と呼んでもいいものか。

「……緊張、なのかな。怖いっていうか、不安っていうか。なんて言えばいいのかわからないけど、変な気分」

 胸を押さえながら言ったつくしを見て、あきらが口を開いた。

「言っとくけど、橘芹香じゃねぇからな」

「え?」

 驚いて目を丸くしたつくしに、思わずあきらはため息を吐く。

「おまえもよく知ってる相手だよ。俺達F4が、絶対敵に回したくな……」

「つっくしちゃ~んっ♪」

 あきらの言葉を遮るように、勢いよく部屋の扉が開いた。

「お、お姉さん!?」

「久しぶりね~。元気にしてた?」

 入ってきたのは、司の姉である椿だった。

「げ、元気です。お姉さんも、お元気そうで……」

「もう! そんな堅苦しい話はあとにして、よく顔を見せて。ちゃんとご飯食べてる?」

「は、はい」

「嘘おっしゃい。また痩せたんじゃない? 女の子はね、少しくらいぽっちゃりしてる方がかわいいのよ」

「それ、お姉さんに言われても説得力ありませんから」

 モデルとしても通用するほどの美貌の持ち主である椿に言われて、はいそうですか、と頷ける台詞ではない。

「あきら」

 くる、と身体の向きを変えて、椿はあきらを見やる。

「総二郎の誕生パーティまでには間に合わせるようにするから、しばらくつくしちゃんと二人にしてちょうだい」

「ああ。じゃ、またあとで迎えにくるから」

「うん」

 手を振ったあきらに頷きながら、つくしも手を振り返した。さてと、と椿はまたつくしを向き直り、にっこりと笑顔を見せる。

「本当、久しぶりね。会いたかったわ」

「あたしもです、お姉さん」

 半分は、という言葉を飲み込んで、つくしはそう答えた。
 完全に司に気持ちが向いていない今、椿にはとても顔向けできなくて。だが、それでも誰よりも頼りになるのは椿で。会いたかったけれど、会いにくい人物であった。

「なんだか、浮かない表情だけど。なにか、悩みごとでもあるの?」

「え?」

 その椿の言葉に、思わずつくしはドキッとする。

「司の、こと?」

「……」

 つくしは俯いて、下唇を噛んだ。
 どうしよう。言うべきなのだろうか。椿にはすべてを打ち明けたい気持ちは、ある。だが、もし軽蔑されてしまったら。

「なんでもいいわ、話してちょうだい。つくしちゃんが抱えているもの、全部受け止めてあげる」

「……お姉さん」

 つくしの両目から、涙が溢れ出た。
 すべてを話してしまったら、もしかしたらこの椿の優しさは永遠に失われてしまうかもしれない。でもこれ以上、椿に黙っていることはできなくて。

 ぽつりぽつりと、つくしは少しずつ自分の気持ちを椿に打ち明けた。

「なんとなく、そんな気がしてたの」

「え?」

 椿の言葉に驚いて、つくしは目を見開いた。

「つくしちゃん、司とタイプが似てるものね。一緒にいても疲れるだけだわ」

「お姉さん、あたし、そういうつもりじゃあ……」

「わかってる」

 思わず声を上げたつくしを優しく制して、椿は笑顔を見せた。

「つくしちゃんが類に惹かれる気持ちも……、なんとなくわかるわ。誰かを好きになる気持ちって、理屈じゃないものね」

「……」

「私はね、つくしちゃん。つくしちゃんが司と結婚してくれたらって、単純にそう考えてる。つくしちゃんのことが大好きだから、本当の妹になってほしいから」

「お姉さん……」

「でもね、つくしちゃんの気持ちを押し殺してまで、そうする必要はないのよ」

 ポロポロと、つくしの頬を涙が伝う。こんなにも親身になってつくしのことを考えてくれている椿に、感謝してもしきれない。
 それと同時に、本当の妹になってあげられない、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 椿は、つくしが司と結婚するかもしれなかったから優しかったわけではない。純粋に、つくしのことを気に入ってくれていたから優しかったのである。
 今更ながらそのことに気付いて、自分がどれほど恵まれていたのか改めて思い知らされてしまった。

「お姉さん、あたし……。あたし、道明寺と別れてもいいですか?」

「もちろん。それが、つくしちゃん自身で導き出した答えなら、反対しないわ」

「お姉さんの……、本当の妹にはなれなくても……?」

 椿はにっこりと微笑んで、つくしを抱き寄せてくれた。なにも言わなくても、伝わる。それでもいいと思ってくれている気持ちが、聞こえてくるようだ。

 初めて、『別れ』という言葉を口にして。司との思い出が、次々に浮かんできた。
 決して楽しかっただけではない思い出。もちろん、つらかった思い出もある。
 でもそれも今は、かけがえのないつくしの記憶の一部であり。その思い出があるからこそ、今のつくしがいるわけで。

「つくしちゃんが誰と結婚しても、私はつくしちゃんが大好きだから。ずっとずっと、つくしちゃんは私の大切な妹よ」

「はい……!」

 椿の言葉に大きく頷いた、そのとき。

「姉ちゃん、そろそろいい?」

 扉の向こうから、ノックの音とあきらの声が聞こえてきた。
 つくしが慌てて涙を手で拭うと、す、と椿がハンカチを差し出してくれた。

「誰と結婚しても、とは言ったけど、それ相応の男じゃないと、お姉さんは許さないからね」

 ウインクをしながら椿に言われ、つくしは口元に笑みをこぼす。

「花沢類は、お姉さんの目から見てどうですか?」

「もちろん、完璧よ。つくしちゃんのこと、誰よりも理解してそうだものね」

「はい」

 涙を拭きながら、つくしは笑顔で頷いて。今日、これから会うであろう司に、別れを切り出すことを決意したのだった。

◇ ◇ ◇


「ねぇ、ねぇ、司ぁ~。この格好、変かな?」

 くるり、と一回転して、滋は司の前でポーズを決める。

「ああ、いいんじゃね?」

「もぉ!」

 司の気のない返事に、滋は頬を膨らませた。ズカズカと歩み寄って司の襟元を掴み、ぐっと自身に引き寄せる。そうして一瞬のうちに、滋の唇が司のそれに触れた。

「!?」

「ちゃんとあたしを見てくんなきゃ、もう一回するからね」

 理不尽な脅しに眉根を寄せながら、顔を真っ赤にして右手で口元を覆う司を尻目に、滋は再度、かわいらしく回転してみせた。

「ね。かわいい?」

「……」

 もう一度キスされては敵わない。司は諦めて、真面目に滋の姿を見ることにした。

 栗毛のショートヘアに、大きな瞳。決して小さくはない声に煩わしさを感じることもあるけれど、彼女の明るさがそれを補ってくれている気がする。暗い空気を吹き飛ばして、その場を和ませてくれる。
 一時は、本気で好きになろうと思った。滋なら、好きになれると思ったのに。

「司?」

 きょとん、とした表情で、滋は司の顔を覗き込んだ。

「どうしたの? 急に押し黙っちゃって。……あ。もしかして、あたしがあんまりかわいいから、見惚れてたとか!?」

 大きな声で笑う滋を見つめながら、司はゆっくりと拳を握り締めた。

「……滋」

「あ。そうだ」

 ぱん、と手を叩いて、滋は司の言葉を遮るように口を開いた。

「今日さ、パーティが終わったら、みんなでご飯でも食べに行こうよ。全員で集まるのなんて、随分久しぶりでしょ?」

「……滋」

「うん、そうしよう♪ 桜子とか優紀とか呼んでさ、みんなで――…」

「滋!」

 急に大声を出されて、滋は、びく、と肩を震わせた。眉間に皺を寄せ、いつになく真剣な表情で司は滋を見つめている。

「俺は、牧野が好きだ」

 滋の心臓が、大きく波打つ。

「し、知ってるよ、そんなの。なに、今更……」

「もう、やめろ」

「……っ」

「俺に抱きついたり、キスしたり。そんなことしたって、おまえが惨めになるだけだ」

「……」

 きゅ、と唇を噛んで、滋は俯いた。少しでも力を抜けば、涙が溢れてしまう。今、この状況で、決して泣くわけにはいかない。泣けば、司の言葉通り、惨めになってしまうから。

「おまえが婚約したのは知ってる。4月になったら結婚するってのも――…」

「司、お願いっ!!」

 ただでさえ大きな声を更に張り上げて、滋は司に飛びついた。

「あたし、まだ結婚なんてしたくないよ……。ずっとずっと、司を好きでいたいよ……っ」

「……滋」

「お願い、司。あたしを連れて、逃げて……!!」

 普段なら想像もできないくらいに弱々しい声で、滋は司の首に巻きついたままそう懇願した。司は、ただ目を見開いたままで。
 頭の中に、つくしが浮かんでは消え浮かんでは消え。自分の胸で泣く滋を、放っておくことなんかできなくて。

 司の脳裏で、つくしと滋が戦っていたのだった。

◇ ◇ ◇


「花沢さん」

「……あれ?」

 千石屋の前で優紀を待つ類の元に、優紀はバイト服姿で現れた。

「今日、バイトだったの?」

「あ、いえ。バイトは、もう辞めてて……。その、何時に待ち合わせかわからなくて、今日だけバイトをさせてもらってたんです」

 気まずそうに口を開く優紀の言葉に、あ、と類は声を上げた。

「時間まで言ってなかったね、ごめん」

「いえ、いいんですっ。あの、今から着替えてきますから、少し待ってて下さい」

「うん」

 ほんのりと頬を赤らめながら、優紀は自動ドアの向こうへ駆け出して行く。その優紀の後ろ姿に、類はつくしを重ねてしまった。

 想うからこそ、会いたくなる。会えない立場にあるからこそ、会いたくなる。
 想うだけなら勝手だろうが、静かに想うことさえも許してはくれない人間が類のそばにいて。
 ポケットの中で煩わしく震える携帯を、何度投げ捨てようと思ったか知れない。

「お待たせしました」

「随分と早かったね」

 慌てて着替えたであろう優紀は、水色のワンピースにその身を隠して現れた。ガードレールに腰かけていた類は、ゆっくりと立ち上がる。

「じゃ、行こうか」

「はい」

 類はそばに停めてあった自分の車の助手席のドアを開けた。優紀がそこに乗り込もうとした瞬間、ちょっと待って、と優紀を制す。

「やっぱり、後部座席に座って」

「あ、はい」

 類に言われるまま、優紀は助手席ではなく後部座席のドアを開けて乗り込んだ。類は無人の助手席のドアを閉めながら、またつくしを思い返してしまった。

 助手席に乗せるのは、つくしがいい。つくし以外の女の子を、助手席には乗せたくなくて。思わず、優紀を後部座席へ誘導してしまったのである。

 これから、総二郎の誕生パーティであきらとつくしのツーショットを見なければならないと思うと、胸が苦しくなる。司となら、それも諦められたのに。
 まさか、F4の中で一番該当しないであろうあきらが、親友の彼女であるつくしを誘ったなんて。未だに、信じられない。

 確かに、今回のパートナー同伴はつくしのためでもあると思う。
 一友人として誕生パーティに来てしまえば、またつくしが窮屈な思いをするかもしれない。パートナー同伴にすれば、そこまで窮屈な思いをすることもないだろう。
 総二郎なりに、つくしがパーティに来やすいように気を遣ったのだ。

 総二郎からの招待状を、もっと早くに読んでいれば。そうすれば、今頃は優紀ではなくつくしを車に乗せていたかもしれない。
 だがこれ以上思うことは、優紀に対しても失礼である。

 運転席に座った類は、空席の隣を見つめ。それから、バックミラーに映った優紀を見つめたのであった。