花より男子/シロツメクサ(1)
「何のご冗談ですか?」
類は、思わず自分の耳を疑った。
背中を見せていた父・斗吾は、ゆっくりと振り向いて類を見据える。
「この私が、冗談を言う人間に見えるか?」
ぎり、と奥歯を噛み締めて、類は斗吾を睨む。
「花沢の不情事を、俺に押しつけるおつもりですか?」
「押しつけるわけではない。向こうから出された要求を呑むに過ぎん」
淡々と言って退ける斗吾に、類は怒りが込み上げてくるのがわかった。
そもそも、何故このようなことになったのか。それは、数日前に遡る。
花沢物産と橘コンツェルンとの共同事業で、花沢の社員がミスを犯した。
故意にしたものではなくとも、花沢にも橘にも膨大な損害が生じ、他事業間との信頼さえも危ぶまれたのだが、取引が破綻してもおかしくなかったその状況で、橘が出した代償とも言える一つの条件。
それが、橘コンツェルン社長の一人娘である芹香と類との婚約だった。
以前から、芹香は類を気にかけていたらしく。芹香にとっては、またとない好機だったのだ。
今回、橘と花沢との間に生じた溝を知った芹香は、花沢の次期後継者である類との婚約を申し出た。
橘社長は、娘のためならと今まで通り事業を続ける代わりに、芹香と類との婚約を条件にしたのである。
花沢物産の跡取り息子として産まれた類にしてみれば、政略結婚は当然の成り行きだった。
いずれはそうなるだろうと覚悟もしていたし、理解もしている。まだ、早い気がしなくもないが。
「……」
ぐ、と拳に力が入る。目を閉じれば、一人の少女の姿が浮かんだ。
――花沢類!
何故かいつも類をフルネームで呼ぶ彼女の笑顔に、類はいつも癒されていた。
親友の彼女に恋心を抱いたのはいつからだったろうか、とふと高校の時を思い返す。
淡いはずだった恋心は、いつの間にかとてつもなく大きなものに変わっていて。
ニューヨークに迎えに行ったとき、はっきりと自分の気持ちに気がついた。もうあれは、3年以上も前のことだ。
褪せることのない恋心をひっそりと胸の中にしまったまま、未だに類は友達としてつくしのそばにいた。これ以上は、もう無理なのかもしれない。
いつまでも、このままでいるわけにはいかないのだ。
脳裏に焼きついて離れないのは、つくしの姿。手に入るはずがないとわかっているのに抑えきれないこの想いは、どこへ閉じ込めればいいのだろう。どこに入れておけば、出てこないのだろうか。
――類。
瞬間、親友の顔が頭を過る。
裏切るな、と予防線を張るように類の脳裏に浮かぶ司の表情は、ひどく傷ついたもので。
(……わかってるよ)
類は、握った拳に尚も力を込めた。重々、承知している。ちゃんと、線を引いているつもりだから。
将来は疎か、明日の状況さえ見えない今の類にとって、たとえ頭の中にだけでもつくしの笑顔を浮かべることが唯一の支えだった。自分の恋人ではなくても、そばにいて笑ってくれるだけで救われる。
いずれ、親友の妻になる女だとしても。
◇ ◇ ◇
「……ふぅ」
長い廊下を足音一つ立てず、総二郎は窮屈そうにため息を吐きながら歩いていた。
和装は慣れている。総二郎が窮屈だと感じているのは、それではなくて。
「総二郎さん」
隣に並んで歩いていた母・千鶴子が、静かに総二郎を睨む。
「相手方に失礼のないように。西門の名に泥を塗るような真似だけは……」
「俺だって、そこまで子供じゃありませんよ」
決まりきった言葉を並べる千鶴子を遮って、総二郎ははっきりと言った。
見合いの場で女性に恥を掻かせるようなことだけは、プレイボーイとして名を馳せている総二郎のプライドが許さない。
だがそれでも、この見合いに乗り気でないのは事実であった。
22歳になる今年、大学を卒業して、本格的に茶道の時期家元としての活動が始まる。
30歳前には襲名して、総二郎が正式に西門流の家元となる筋書きはもう出来上がっているのだ。
今回の見合いは、その第一段階とでも言うべきだろう。身を引き締めろという意味だと受け取れる。これは警告なのだ、と。
その警告とも言える見合いの場に父親が不在なのは、まったくどういうことなのだろうか。
別に、会いたいわけではないのだが。
「……はぁ」
思うと、またため息が出てしまった。
その態度に、総二郎はまた千鶴子に睨まれる。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
これから会うであろう総二郎の見合い相手・白鳥百合は、正にその言葉通りの人物だと聞いている。名前の通り、可憐な女性なのだと。
正直、そんなことはどうでもよかった。
結婚なんて、意思があってするものではないから。少なくとも、総二郎にとっては。
――優紀は、西門さんのことをファンタジスタだって言ってた。
以前、親友の彼女に言われた台詞が不意に浮かんできて、総二郎は足を止めた。
一度だけ関係を持った、親友の彼女の親友。
遠いようで限りなく近い彼女と関係を持ってしまったのは、決して軽い気持ちからではなかった。
――あ、あたしが、温めてあげますっ。
顔を真っ赤に染め上げて言った彼女の意志を、無にしては悪いと思う気持ちももちろんあった。
だがそれよりも、ただ総二郎自身が温めてほしくて。彼女を、利用したのかもしれない。
ふ、と目を閉じ、総二郎は自虐的に笑う。
今更、思うことではない。彼女の想いを受け入れなかったのは、他でもない自分なのだから。
もし、あのとき彼女の想いを受け入れていれば。
彼女ならいつまでも自分待っていてくれるだろう、と自惚れていたのかもしれない。
彼女に対する気持ちを一時的に断ったとしても、いずれ総二郎に彼女を受け入れる準備ができたときには必ずそばに来てくれるだろう、と。
自分の中で彼女への返事を保留にして、実際にはふっていた。そんな状況だったとしても、きっと彼女ならついてきてくれたかもしれない。
そんな淡い期待を胸に抱いていた罰が当たった。それが、今回の見合いなのだ。
思いながら、総二郎は深く息を吐き出す。これが、次期家元として、その役割を果たすための初陣なのである。
◇ ◇ ◇
「結婚してくれないか?」
「え?」
突然の、恋人からのプロポーズ。いや、恋人であるからこそ、なのかもしれない。
「お、修さん、でも……」
「優紀」
戸惑い、返事を濁そうとする優紀を遮るように、谷原修はテーブルの上に置かれた優紀の手にそっと自分の手を重ねた。
「急でも何でもないだろう? 交際していれば、当然の流れだと思う」
修の言うことは、もっともかもしれない。だが。
「あたし、まだ……21歳です」
優紀の脳裏に浮かんだ、一人の姿。処女を捧げた、未だに忘れられない男性。
優紀にとってのファンタジスタ――夢を、見せてくれた人。
「優紀が渋る原因は、年齢だけじゃないだろう?」
修の言葉に、優紀ははっとする。
「君はずっと、僕を通して別の人を見ていたみたいだからね」
「ち、ちが……っ」
違う、と否定したとして、一体何が違うと言うのだろうか。
思わず言い淀み、慌てて口元を押さえる。
修に言われて、初めて気がついた。ずっと、修に総二郎を重ねていたことに。隣にいるのは総二郎であってほしい、という願いから。
「目を見れば、君が誰を見ているのかくらいわかるさ。当然、それが僕でないこともね」
がた、と椅子を引いて立ち上がり、修は財布から紙幣を取り出す。
「来週、またここで会おう。そのときに返事を聴かせてくれ。君が少しでも僕を必要としてくれているのなら、プロポーズは受け入れてほしい。優紀の心に誰がいても構わない。君が僕の隣にいる。それが、何よりも重要だから」
数枚の紙幣をテーブルに置き、じゃあ、と言い残して修はその場をあとにした。
そうして、取り残された優紀は。空になった皿を見つめ、その白い皿の表面に総二郎の姿を浮かべる。
ずっと、忘れたと思っていた。忘れたつもりだった。今日、修に指摘されるまでは。
修に言われて、初めてそのことに気づくなんて。
「……どうしよう」
はぁ、と重苦しい息を吐き出し、優紀はまるで皿に描いた総二郎に相談するように言葉を口にした。
「忘れないと、だめ……ですよね?」
念を押すように皿を見つめていた優紀の前から、失礼します、と皿がなくなった。
ウェイターが、テーブルに並べられた空の皿を手の上に乗せていく。その1枚1枚が、優紀の総二郎への想いのようであり。
無意識に、忘れろと言われている気がした。
テーブルに置かれた紙幣を握り、優紀はレジへ向かう。
こんなとき、総二郎だったら。きっとさり気なく、支払いを済ませて出ていたかもしれない。
総二郎だったらきっと、気持ちを押しつけるようなことは言わなかったかもしれない。
思って、優紀はブンブンと首を横に振る。
修との交際を決めたのは、優紀自身なのだ。それを今更総二郎と比べるなんて。失礼極まりないことである。
恋をしよう。あのとき、そう決めた。そうして、修に恋をした……つもりだった。
それが、自分の心に目隠しをしていただけなんて。
できることなら、このまま気づかずにいたかった。だが、気づいてしまった。
来週までに、優紀はこの想いに決着をつけなければならない。
修と、新しい未来を育むために。
◇ ◇ ◇
「絶対に、イヤ」
「……滋」
「あたしは、司じゃなきゃ結婚しない」
SPによって磔にされるように両手首を後ろ手に握られ、滋は動きを拘束されていた。それでも口だけは自由で、父・亘に対し声を張り上げる。
「だが司くんには、婚約者がいるという話ではないか」
はぁ、と深くため息を吐き出し、亘は滋を見つめた。
「でも、それでも……っ。あたしは、司がいいの! 司でなきゃ、結婚したって意味がないもの!!」
「滋……」
涙ながらにそう叫ぶ滋の姿は、娘だからなのかとても痛々しい。何故こんなにも想っている滋のことを、司は好いてくれないのだろう。怒りの矛先が、そちらに向いてしまいそうだ。
「司がいいの。あたし、司でなきゃ……自分らしくいられない!」
決心したように、亘は口を一文字に結び。ゆっくりと滋に歩み寄って、ぱん、と頬を叩く。突然の亘の行動に、滋は目を丸くした。
父に叩かれたことなんて、今まで一度もなかった。
それくらい、今回の亘も本気だということなのだろう。だが今更、司への想いを隠すことなどできない。
「お前も大河原に産まれた娘なら、当然のことだと諦めなさい。司くんにしたって、最初は嫌がっていたじゃないか。きっと今回も……」
「無理よ」
亘の言葉を遮った滋の頬を、涙が伝う。
「パパ。あたし、もうあの頃とは違うの。司に、出会ってしまったから。あたしの心は、司に持って行かれちゃったの」
「……」
娘の哀願とも呼べる台詞に、亘は言葉を失くした。それほど、司のことを想っているのだろう。
たとえ、それが一方通行だとしても。滋の想いは、変わらない。
「お願い、パパ。あたしに、もう少し時間をちょうだい? もう少しだけ、司を好きでいさせて」
くるり、と踵を返し、亘は滋に背を向ける。パパ、と亘を呼ぶ滋の声がし、亘は徐に口を開いた。
「見合いには、行ってくれ。今更、断ることはできん」
亘も、好きで滋を嫁に出すわけではない。会社を成り立たせる上で、避けては通れない道。その一つが、政略結婚なのかもしれない。
父の背中にそのことを感じ取った滋は、項垂れて。掠れるほどの声で、呟くように口を開いた。
「あたし、司が好きなの」
「……ああ、覚えておくよ」
哀愁を漂わせる、父の背中。子供の頃にはとても大きかった背中が、何故か今はとても小さく見えて。
滋の父親として、そして会社を支える経営者として。今、亘は苦しんでいる。滋のために、今回の見合いを断るべきか。それとも心を鬼にして、大河原財閥のために無理にでも見合いを成功させるか。
亘の苦悩の原因は、滋である。大好きな父を、悩ませているなんて。
とはいえ、滋にだって言い分はあるわけで。
司を好きな気持ちに、偽りはない。だからこそ苦しんでいる。父を、苦しめている。
ゆっくりと去り行く亘の後ろ姿に、滋は司を重ね。会いたい気持ちに、胸を膨らませるのであった。