花より男子/ユキワリソウ(9)
――花沢物産の社長を支える杖になって頂きたい。
斗吾の言葉が、脳裏に焼きついて離れなかった。
楓と違って、斗吾はつくしを認め、つくし個人を必要としてくれている。それは、とても喜ばしいことではあるのだが。すんなりと受け入れられなのは、やはり司のことがあるからで。
「……はぁ」
最近、ため息しか吐いてないな、と思いながら、つくしは台所に向かった。コップに水を注ぎ、それを一気に飲み干す。
ふー、と全身の力を抜くように息を吐き出して、つくしは携帯を手に取った。
◇ ◇ ◇
「牧野に呼び出されるのなんて、初めてじゃねぇ?」
物珍しそうな表情で、あきらはつくしを見る。
「そっかな? たまにはいいじゃん」
はは、と乾いたように笑いながら、つくしは目の前にあるコーヒーカップに口をつけた。一人で悩んでいても、答えは出なくて。
「他に、相談できる人がいなくて。一人で悩んでても、答えが……」
「あー。いいよ、別に。何だって聞いてやるよ」
いつもそういう役回りだし、という言葉を飲み込んで、あきらは口元を綻ばす。聞き上手だな、とつくしは思う。話していて、ほっとする。
「花沢類のお父さんの気持ちは、すごくありがたいんだけど。でも、道明寺が滋さんとの賭けに応じたのだって、結局は財閥のことを考えて、なわけでしょ? もし花沢類が同じ立場になったとき、道明寺と同じことをしないって言い切れないわよ」
言いながら、つくしは胸が締めつけられそうになった。いつしか類の口から聞かされた、司がつくしとの別れを決意した理由。その賭けの内容を思い出す。
つくしが相応の身分の娘だったなら、きっと司も悩むことはなかっただろう。楓も、きっとつくしを受け入れてくれたはずだ。愛し合っていても、とどのつまり身分が一番なわけで。
そういう過去を持っているつくしだからこそ、すんなり類との婚約を受け入れられないのだ。
「類の親父さんからの提案なら、そんなこと気にする必要ねぇだろ?」
「そう、なんだけど」
「お前の気持ちは、どうなんだ?」
じっとあきらに見据えられて、つくしは言葉に詰まる。
「……わかんない」
目線を下に落として、そう答えると。あきらは、にっと微笑んで、つくしの前に顔を近づけた。
「ぎゃっ!? か、顔ちか……っ」
「俺と、キスできる?」
「はぁ!? で、できるわけないじゃんっ」
「総二郎とは?」
「し、しない……よ」
出発前日の総二郎を思い出して、少し戸惑う。あきらから目線を外して、つくしは答えた。
「司とは?」
「できる、かもしれないけど、今はしたくない」
既婚者である司と、そういうことをしてはいけないと思うから。100パーセント司を忘れたわけではないから、キスはできるかもしれない。でも、してはいけない、と自身に釘を刺す。
「類とは?」
「……」
つくしは、口を閉ざす。迫られたら拒めないし、嫌ではない、と思う。つくしの気持ちを察したのか、あきらは大きな手をつくしの頭の上に置いた。
「そういうこと。答え、出てるじゃん」
「え?」
「答えは、おまえの中にしかないんだぜ? おまえが相手に対して思う気持ちが、そのまま答えになるんだ」
「美作さん……」
「俺とも総二郎とも司ともできないのに、類とはできる。それが、何よりも答えになってると思わないか?」
「……うん」
そうか。そうだったんだ。こんなに、簡単なことだったんだ。あれこれ考えずに一つの質問に対しての答えを探せば、自ずと答えが見つかった。
やはり、つくしは類を必要としていたのだ。類が、つくしを必要としているように。
「ありがとう、美作さん。今の話は……」
「わかってるよ。誰にも言わない」
言って、つくしの頭の上に乗せていた手を、あきらは後頭部にずらした。そうしてそのまま、勢いに任せてつくしを引き寄せる。つくしの額に、あきらの唇が触れた。
「!?」
「お礼、もらったし」
額を押さえて、つくしは後退る。やはり、総二郎の友達だ。油断も隙もない。
じゃあな、と手を振って、あきらはつくしの前から姿を消した。寂しそうな背中を、見せながら。
あきらは、複雑な気持ちだった。
相談してくれるというのは、頼りにされていることだと思う。妹、みたいな感じで。放っておけないのは、総二郎と同じかもしれない。親友の彼女。それ以上近寄れない位置に、いつもいるつくしを。愛しいと感じるのは、親友に対する裏切りではない。誰よりも幸せになって欲しい、と切に思う。
◇ ◇ ◇
『はい』
「牧野つくしです」
斗吾から渡された電話番号が書いてある紙を握り締めて、つくしは番号を押した。斗吾の言っていた期限、ギリギリまで悩んで。ようやく、決意が固まった。
「あたし……、花沢類の杖には、なれません」
きっぱりと、つくしは言う。残念そうな斗吾の声が、電話口から聞こえる。
『そうですか。残念ですが、あなたが決めたことなら……』
「でも、柱になりたい」
斗吾の声を遮って、つくしは続ける。
「花沢類と一緒に、花沢物産を支える柱になりたい」
『……それは、いい返事と受け取りますけど。構いませんか?』
「はい」
強い口調で、つくしははっきりとそう答えた。あきらに背中を押してもらって、やっと勇気が出た。この気持ちを恋と呼ぶのかわからないけれど、離れたくない、と思う気持ちは本当だから。
『ありがとう。類も喜ぶ』
電話口から、安堵した声が漏れる。
『類には、パーティ当日に婚約者を連れてくる、とだけ言ってあります。類の驚く表情を見てみたいので、このことはまだ内密にしていてください』
「わかりました」
やっぱり類の父親だな、と思う。しっかりしているように見えるのに、どこかズレていて。ほっとする。
『では、当日。車を寄越して類にバレるといけないので。申し訳ないが……』
「大丈夫。自分で行きますから。じゃあ、失礼します」
電話を切って、つくしは、ふぅ、と息を吐く。とうとう、決めてしまった。類と、将来を歩んで行くことを。
2週間近く、会っていなくて。類のことを考えたら無性に会いたくなって、気づけばメールを送っていた。
『会いたい』とだけ記されたメール。その返事に、電話がかかってきた。久しぶりの、類からの電話。心拍数を抑えるように深呼吸してから、電話に出る。
「はい」
『あ、牧野……?』
耳元で響く類の声に、ドキン、とする。会いたい気持ちが、強くなる。
『今、メール……くれた?』
もしかしたら、誤送信かもしれない、と不安に思ったのだろう。そう聞く類の声は、少し沈んでいた。迷いのない声で、つくしは答える。
「うん、送った。会いたいの、花沢類に」
『……』
言いながら、目尻に涙が溜まる。こんなに素直に自分の気持ちを言えるなんて、自分でも信じられない。
でもそれくらい、類に会いたくて仕方がなかったのかもしれない。
『すぐ、行くから。待ってて』
うん、とつくしが言ったのを聞くと、類はすぐに電話を切って車の鍵を取った。邸の中を走って、駐車場に急ぐ。つくしの気が変わらない内に、急いでつくしの家に行かなければ。
会いたいのは、こっちの方だ。ずっとずっと会いたくて、連絡をしたかったのに、それができなくて。ずっと、我慢していた。メールが届いたとき、ただただビックリして。でも、死ぬほど嬉しくて。
気づいたら、電話をかけていた。そうしてつくしの声が耳元でして、はっと我に返った。もしかしたら、送る相手を間違えたのかもしれない、と。
そんな類の不安の打ち消すように、つくしははっきり、会いたい、と言ってくれた。そのとき、どんなに類が嬉しかったか。つくしはきっと、知らないだろう。
どうか、夢なら覚めないで。そう願いながら、類は車を走らせていた。
◇ ◇ ◇
「わ、ビックリ。早かっ……」
玄関のドアを開けて、類の姿に驚くつくしを無視して、類はつくしを思い切り抱き締めた。ずっと会いたくて、会えなかったつくしを。離れていた時間を埋めるように、力の限り抱擁する。
「ち、ちょっと、はな……」
「もう少し。1分だけ」
類の腕の中でもがくつくしを制して、静かに類は言う。その言葉に観念したように、つくしは暴れるのをやめて類に身体を預けた。そうしてゆっくりと、類の背中に手を回す。
「……今まで、ごめんね」
ぽつり、とつくしが口を開く。
「あたし、逃げてたの。道明寺からも、花沢類からも。答えを見つけるのを怖れて、二人には触れないようにしてた」
類は、黙ってつくしの言葉を聞いていた。つくしは、ばっと顔を上げて類を見る。
「もう、逃げないから。ちゃんと、二人に向き合うって決めたから。だから……」
「いいよ、もう」
つくしの言葉を遮って、類はつくしの唇にそっと触れる。
「今は、こうしてて。理由なんかいらないから。ただ、こうして俺の胸の中でじっとしてて」
言いながら、類は腕の力を強める。うん、と頷いて、つくしは目を閉じて類の胸に頭を寄せた。相当慌てていたのだろう。類の心臓は、早鐘を打っている。
どんなに強く抱き締めても、その手を擦り抜けていなくなってしまうから。こうして腕の中につくしの体温を感じるのに、安心できない。
言葉をもらっても、素直に安堵できなくて。いつになれば、この不安が取り除かれるのだろう。
「あっ」
腕の中のつくしが急に声を上げて、類の腕から逃れるようにいなくなった。今まで感じていた温もりが、一瞬にして覚めてしまう。ぽりぽり、と頭を掻いて、類は居間に移動したつくしの後ろに立った。
「3、2、1……」
数字をカウントしながら、頷くように頭を動かして。ゼロ、と言ったあと、つくしは類を振り返った。
「誕生日おめでとう、花沢類っ」
ぱっと咲いた花のように、つくしは満面に笑みを浮かべる。
「一番に、言いたかったの。よかった、間に合って」
無邪気に微笑むつくしに、自然と類にも笑顔が溢れる。ありがとう、と素直に言葉にできる。
「でね、プレゼントなんだけど……」
「もう、もらったよ」
つくしに近寄って、そっと口付ける。
「あんたと、一緒にいられる。それが、俺にとっては何よりのプレゼントだよ」
目を丸くするつくしを尻目に、類は再度キスをする。今度は、深く。舌をつくしの口内に滑り込ませて、つくしのそれと絡めさせる。時折漏れるつくしの声が、かろうじて保たれている類の理性を吹き飛ばしてしまいそうになる。
そう思って、類は唇を離した。これ以上続けていたら、本当にそれから先を求めてしまいそうで。
「あたしが用意してたプレゼントは、いらない?」
呼吸を整えてから、つくしは残念そうに類に言った。その表情に、くす、と笑ってから、類は口を開く。
「せっかくだから、もらおうかな」
類の言葉を聞くと、嬉しそうに笑顔になって、次の瞬間、顔を赤らめてつくしは俯いてしまった。
訝しげに顔を覗き込もうとした類を制して、つくしは類の首に腕を回す。
女は、度胸。言い聞かせて、つくしは類の耳元で囁いた。