花より男子/ユキワリソウ(8)


「はぁ……」

 バイト先の千石屋でカウンターに立ちながら、つくしは深くため息を吐いた。
 総二郎を見送った日。類に家まで送ってもらってから、類に会っていなかった。1週間も経過しているのに、類からの連絡は一切なく。

「……はぁ」

 思ってまたため息を吐いた瞬間、不意に自動ドアが開いて、カウンターに打つ伏すつくしの前に一人の男性がいた。それは紳士と呼ぶに相応しい、まるで紳士という言葉は彼のためにあるような佇まいの男性で。どこかしら、誰かを思わせる雰囲気のある男性だった。

「失礼。一つ、頂けますか?」

「あ。は、はい」

 慌てて、つくしは指差された和菓子をショーケースから取り出し、箱に詰める。

「263円になります」

「じゃあ、これで」

 そう言って、紳士は1万円札をつくしに差し出した。お釣りを渡して、つくしは続いて商品を手渡そうとするが、それを制される。

「あなたが、とても疲れた表情をしていたので。その和菓子のように、微笑んでいて下さい」

 微笑む紳士に、つくしの胸が躍る。やっぱり、誰かに似ている気がする。

 唖然としているつくしを尻目に、紳士は千石屋の前に止められた車に乗り込んで、行ってしまった。はっと気づいたように、つくしは詰めたばかりの箱を覗いた。黄色の向日葵がモチーフの、ぱっと咲いた笑顔のような和菓子。

 ――その和菓子のように、微笑んでいて下さい。

 客に心配をかけてしまうなんて、とつくしは自分で自分を小突く。でも先ほどの紳士を見ていると、不思議と胸が落ち着いた。つくしが安心できる空気を醸し出している男性だった。
 胸に手を当て目を瞑って、ふぅ、と息を吐く。心臓が早鐘を打っている。恋、とかそういう感情ではなくて。でも、限りなくそれに近い動悸がした。

◇ ◇ ◇


「へー。昨日、そんなことがあったんだ?」

 エプロンをつけてバイトの準備をしながら、優紀はつくしの話を聞いていた。

「うん。紳士って、ああいう人のことを言うんだなーって思った」

 優紀の言葉に頷きながら、つくしは昨日のことを思い出す。

「F4も紳士だと思うけど?」

「あの人たちは、紳士とは言わないよ」

 反論するように、つくしは優紀を見た。司は教養が足りないし、あきらと総二郎は女に節操がない。類が一番近いかもしれないが、彼はどこかネジが外れている部分がある。
 カウンターに立ってショーケースの上に肘をつきながら、そうかなぁ、と優紀はつくしの言葉に不満そうな表情をしていた。

「絶対そうよ」

 つくしが言い切ると同時、自動ドアが開いた。いらっしゃいませ、と二人は入ってきた客に笑顔を見せる。

「今日は、笑っているんですね」

「あ!」

 今、優紀と噂していた、昨日訪れた紳士が、そこにいた。驚いて目を丸くし、つくしは頭を下げる。

「昨日は、ありがとうございました」

「いえ。私が勝手にしたことですから。あなたがお礼を言う必要はありません」

 口元を綻ばせながら、優しい口調で紳士は言う。

「昨日と同じものを一つ、頂けますか?」

「あ、はい。それはもちろん。……あ、でも」

 ショーケースから和菓子を取り出そうとして、つくしは戸惑う。もしまたつくしに渡すつもりなのだとしたら、申し訳ない。
 それに気づいたように、ふ、と微笑んで、紳士は口を開いた。

「今日は、ちゃんと頂いて帰ります」

「あ……。はい」

 見透かされていたのが恥ずかしくて、つくしは頬を染めた。手際よく和菓子を取り出して、箱に詰める。

「お代は結構です。昨日の、お礼です」

「それでは、私があなたに差し上げた意味がなくなってしまいますから」

 つくしが言うと、紳士は首を振って500円玉を差し出した。仕方なく、つくしはお釣りを用意して紳士に渡す。

「どなたかに、プレゼントですか?」

 和菓子が入った箱を渡しながらつくしが問うと、ええ、と紳士は頷いた。

「私の息子に。最近、元気がないみたいなので」

「息子さんに?」

「ええ」

 箱を受け取り、ありがとう、とつくしに笑顔を見せると、紳士は店の外に出て行った。

「カッコいい……」

 その後ろ姿に、ぼそ、と優紀が呟く。

「でしょ? あの人だよ、さっき話した人」

「今のやり取りでそれはわかったけど。でも今の人、誰かに似てない?」

「あ、優紀も思った? あたしもそう思うんだけど、誰かわからないのよ」

 うーん、と考え込む二人。二人の共通の知り合いと言えば、中学の同級生だろうか。
 しばらく考えたが、その答えは出なかった。

◇ ◇ ◇


「俺の誕生パーティ、ですか?」

「そうだ」

 類は、父・斗吾とうごに呼ばれ、花沢物産の社長室に足を運んでいた。そこでソファに座らされ、第一声に言われた言葉が、来週の類の誕生パーティの件だった。

「そこで、大々的におまえの婚約を発表する」

 いよいよか、と類は思う。社長の息子として産まれた以上、政略結婚は避けては通れない人生なのだから。

「わかりました」

 立ち上がり、類は社長室のドアに手をかける。

「類」

 呼ばれて、類は、何ですか、と振り返った。

「どうも、最近疲れた表情をしているな。これでも食べて、少し身体を休めなさい。疲労回復には、甘いものがいい」

 言いながら類に歩み寄って、斗吾は紙袋を類に差し出す。その紙袋に印字された店名に見覚えがあって、類は一瞬険しい表情をしてそれを受け取った。

「これ、どうしたんですか?」

 鋭い目を、斗吾に向ける。

「買ったんだ。おまえに食べさせてやりたくてな」

 絶対に、斗吾はつくしのことを知っている。知っていて、わざわざこの店を選んだに違いない。類は、そう確信していた。

「婚約を発表するつもりではいるが、まだ相手を決め兼ねているんだ。ここに、候補者のリストがある。お前自身で決めなさい」

 差し出された1枚の紙を見て、はぁ、と類はため息を吐く。

「いいですよ、別に。誰だって、構わない」

 牧野以外なら。そう思ったが、口にはしなかった。

 総二郎を見送った日以来、類はつくしに連絡を取っていなかった。何度も電話をしようと携帯を握ったのに、いざかけようと思うと勇気が出なくて。つくしの笑顔を見ているだけでいい、とは言ったが、さすがに虚しくなってしまって。

「そうか。では、こちらで勝手に決めさせてもらう。異存はないな?」

「……はい」

 頷いて、類は部屋をあとにした。
 ふぅ、と息を吐いて、斗吾はイスに座る。そうして類に渡そうとした婚約者リストの名簿を見て、思わず笑みが漏れてしまった。

◇ ◇ ◇


「あ……。来週、だ」

 カレンダーを見ながら、つくしは思ってしまった。
 来週、3月30日は類の誕生日である。今までは司と付き合っていたため、特別に何かをするということはなかった。今年は今までのお礼も兼ねてお祝いをしよう、と思っていたのに。ケンカをしたままでは、それもできない。

 はぁ、と息を吐いて、つくしはバイト先をあとにした。

「お疲れさま」

 千石屋を出るとすぐに声をかけられて、つくしは声のした方を向いた。

「……あ」

「今日は、もう仕事は終わりですか?」

 連日、千石屋に足を運んでいる紳士が、そこにいた。

「はい。今から帰るところです」

「そうですか。では、少し時間を頂けませんか?」

「え?」

「あなたに、お話したいことがあって」

 そう言いながら微笑む紳士の表情は、やっぱり誰かを連想させて。そうして、断れない空気を持っている。
 言われるまま、つくしは紳士の車に乗り込んだ。

「今度行われるパーティで、息子の婚約を発表することにしたんです」

「そうですか。おめでとうございます」

 紳士の言葉に、つくしは頭を下げる。だがそれを制して、紳士は面白いことを口にした。

「他人事のように言わないで下さい。あなたを息子の婚約者に、と思っているのですから」

「……はい?」

 思いがけもしない紳士の言葉に、つくしは鳩が豆鉄砲を食らったような表情になってしまった。

「嫌ですか?」

「え? あ、あの……。嫌とか、そういう問題じゃ……」

 会ったこともない紳士の息子と婚約なんて。いきなり、何を言い出すのだろう。
 あまりにも常識外れなことを言われてしまって、つくしは言葉に詰まる。

「あなたは、息子の人生を変えてくれた女性だ。確かに、地位も名誉もないかもしれない。でもそれ以上に、あなたには人の心を動かす力がある。それは、地位や名誉などより素晴らしいものだ」

 ありがたい言葉を言われているのはわかる。それはわかるが、それだけで息子の婚約者に、などと言われる理由がわからない。
 息子の人生を変えた、ということは、つくしは紳士の息子と接触があった、ということなのだろうか。

「あなたは、一体……?」

 まっすぐに紳士を見て、つくしは問う。目を細めてつくしを見つめる紳士を見て、つくしははっとした。

(そうか、この人!)

 言われる前に、気づいてしまった。そうだ。ずっと、誰かに似ていると思っていたのは、錯覚ではなかった。

「失礼。私は、花沢物産の社長をしております、花沢斗吾と申します。類の、父です」

 このビー玉のような瞳は、彼しかいないのに。どうして、今まで気づけなかったのだろう。



「どうして、あたしを……?」

 目の前に並べられた食事に手をつけずに、つくしは斗吾に聞いた。
 フォークをテーブルに置いてナフキンで口元を拭いたあと、斗吾は肘をテーブルにつけて手を顎の下に置く。

「失礼ながら、あなたのことは調べさせて頂きました。類の素行を探っていると、いつもあなたのことが出てきたものですから。類とはどういう関係でどういう女性なのか、知る必要があった」

 きゅ、と唇を噛み締めて、つくしは俯く。やっぱり、この人も道明寺楓と同じなのかもしれない、と思ってしまった。口調は優しいが、人の素性を探る行為は楓がしていたことと変わらない。

「類も、私の跡を継ぐ人間なので。その類の側にいる女性の素性を調べるのは、当然のことと思ってください」

「そう、ですね」

 膝の上で、つくしは拳を作る。斗吾の言っていることは最もではあるが、すんなりと納得できる話ではない。
 何をしても、すべての行動が斗吾に流れているという事実。それは、やはり気分のいいものではなくて。

「類は、あなたをとても必要としているようだ。あなたの前では、普段見せない笑顔を見せるらしいとの報告が多々あった。人形でしかなかった類に心を注ぎ込んでくれたこと、深く感謝します」

 そう微笑む斗吾の表情は、類そのもので。思わず、胸が弾む。

「あなたに、花沢物産の社長を支える杖になって頂きたい。その役目は、あなたにしかできないと思っている」

「……あたしは」

 答えようとした瞬間、つくしは司とのことを思い出してしまった。ずっと好きで、離れたくない、と切に願った。でも結局、身分の違いから別れを余儀なくされてしまった。
 それがトラウマになっているとは言い切れないが、やはり類とのことに踏み切れない原因になっているのは事実だ。

 類に側にいて欲しい。それは素直な気持ちではあるけれど、そこには不安が伴う。いつか別れなければならないのなら、最初から一緒にいなければいい、と予防線を引いてしまっている自分がいる。類の父親である斗吾の提案に、そうする必要はないにも関わらず。

「急く必要はない。類の誕生日の前日までに連絡を頂けるとありがたい。もしあなたが断れば、次の候補者に連絡を取らなければならないので」

 斗吾の言葉に、ずきん、とつくしの胸が痛んだ。

 そうだ。何もつくしでなくても、他にも類の婚約者に相応しい女性はいるのだ。類の、隣にいられる女性は。

「私は、あなたの意見を尊重したい」

 楓と違い、つくしのことを考えてくれている。そうして、庶民であるつくしを必要としてくれている。
 ありがたい反面、これから何が起こるかわからない世界に飛び込んでもいいものか、と不安が襲う。側にいたい、と思う気持ちだけで、類の元へ行ってもいいのだろうか。

 ――人生は、一期一会だぞ。

 そう言う、総二郎の言葉が聞こえた気がした。