花より男子/ユキワリソウ(7)


「じゃ、お休み」

「……うん」

 アパートの前で、つくしは類の車を見送った。

(キス、されなかった)

 付き合い始めてから、別れ際には必ずキスをされていたのに。それがなかったのは、初めてだった。
 はぁ、と深く肩を落として、つくしはアパートに入る。そのまま、ごろん、と畳の上に転がった。

 目を閉じれば、悲し気な類の表情が浮かぶ。いつだって、類はつくしのことを第一に考えてくれているのに。類を、傷つけてしまった。
 きつく目を閉じて、つくしは寝返りを打つ。

「ごめんね、花沢類」

 眉間に皺を寄せて、心底そう思う。
 いつも、つくしのことを大切にしてくれているのに。どうして、つくしは類を一番に思ってあげられないのだろう。何故、類にいつまでも悲しい表情をさせてしまうのだろう。

「……好き、だよ」

 誰もいない部屋に、ぼそ、とつくしの声が響く。

 側にいて欲しいとは言ったが、好きだと言ったことはなかった。きっとそれだけでも、類の不安要素になっているに違いないのに。
 類ほど、つくしを想ってくれている男性はいないだろう。それも、十分にわかっている。

 それなのに、どうしてつくしは類を傷つけてばかりいるのか。
 自分でも気づかない内に、類を傷つけてしまっている。優しいから、類は何も言わない。何も言わずに、ただ側で微笑んでくれるだけ。
 司と類を量りにかけたとき、今はまだどちらかに傾いているとは言えない。司のことも、相当好きだったから。そう、簡単には忘れられない。

 でも、類がいなくなるのも嫌だった。類が隣にいないことを、想像できない。気づけば、いつも空気のように側にいた。大切な、存在なのだ。

「ごめん……」

 つくしの目から、一筋の涙が溢れた。
 一体、いつになれば完全に司を忘れられるのだろうか。どれだけ待たせれば、類を心から愛していると言える日が来るのだろうか。
 類を大切に想う気持ちは、増える一方なのに。何故、類はいつも悲しそうな目をつくしに向けるのだろうか。

 類を思いながらつくしが規則的な寝息を発てるまで、そう時間はかからなかった。

◇ ◇ ◇


 茶室に正座をして、総二郎は目を瞑っていた。

「……」

 時折、かこん、と邸内にある添水がその音を響かせる。物事に集中している時ほど、竹筒が支持台を叩く音は耳に残って消えない。

 ――自分自身に向けた言葉なんじゃないですか?

 優紀に言われた言葉が、忘れられない。あの言葉の意味を理解すると、思わず笑ってしまう。

(俺が牧野を……ってこと、だろ?)

 自嘲気味に、ふ、と総二郎は口元に笑みを浮かべた。馬鹿馬鹿しい、とそう思う。
 確かに、そこら辺にいる女よりは気になる存在ではある。でもそれは、親友の彼女だからだ。放っておけるはずがない。だが。

 ――ジロー!

 総二郎を、そう呼ぶ女がいた。それが、総二郎の初恋の相手で。何故か、つくしが重なってしまう。

「俺、は……?」

 曇りのない瞳で、いつも優紀は総二郎を見つめていた。人を見透かすような瞳に、正直イラついたこともある。でもそれが、時には凍りついた総二郎の心を溶かしてくれることもあって。

「俺が、牧野を……?」

 口元を手で押さえて、総二郎は軽く首を横に振る。優紀の発言が、総二郎の奥底に秘められた想いまでも溶かしつつあった。

(ありえない、そんなこと)

 芽生え始める想いを掻き消すように、総二郎は頭を抱える。

(そんなこと、ありえていいはずがない……)

 総二郎の頭の中で、葛藤が始まった。

◇ ◇ ◇


 夢の中で、ピンポーン、と音がする。何かに、正解した? あ、クイズ大会?

 考えを巡らせると、ピンポーン、とまた音がした。

(クイズ大会が、正解ってこと?)

 思っていると、もう一度、ピンポーン、と同じ音が頭に響いて。目を開けたつくしは、壁に掛かっている時計に目をやった。

「……2時?」

 時計を確認して、つくしは脱力する。なかなか起き上がろうとしないつくしに追い打ちをかけるように、更にインターホンが室内に響いた。

「誰よ、こんな時間に」

 渋々起き上がり、部屋の灯りを点けてドアを開ける。

「よ」

「西門さん?」

 深夜の来訪者は、総二郎だった。だが、いつもと様子が違う。覇気が、感じられなくて。そもそもこんな時間につくしを尋ねてくること自体、おかしいのだが。

「どうしたの、こんな時間に? 明日……っていうか、もう今日だけど、出発でしょ?」

「ちょっとな。出て来れるか?」

「わかったわよ。着替えてくるから、待ってて」

 ふわわ、と欠伸をしながら、つくしはドアを閉める。回らない頭で着替えを済ませ、家の外で待つ総二郎の元へ向かった。

「何か、大事な話でもあるの?」

 つくしが聞くと、うーん、と困ったような表情をする。わけのわからないままのつくしを車に乗せ、総二郎は車を走らせた。

「どこに行くの?」

「海」

「海?」

 こんな時間に行っても、何も見えないのではないか。思うつくしであったが、今の総二郎に言っても効き目はなさそうだ。
 諦めて、つくしは総二郎の運転する車に揺られていた。



「寒いんですけど」

 深夜の海は、誰もいなくて。波の音が、寒さを増幅させる。波に向かって歩く総二郎に、つくしは何も言わずについて行った。
 波際に立ち、総二郎は身を翻してつくしを向く。月の光に照らされた総二郎は、一段と格好よく見えて。思わず、ときめいてしまう。

「らしくねぇんだよ、俺」

「え?」

 ぽつ、と総二郎が言葉を漏らす。

「おかしいんだよ。今日、優紀ちゃんに会ってから」

 真剣な眼差しに、いつものようなふざけた感じがない。何を言われるのかわからないけれど、つくしはつい心構えをしてしまう。

「俺……」

 総二郎が次に出した言葉に、つくしは自分の耳を疑った。

「俺、おまえが好きだ」

 打ち寄せる波の音が、大きくて。でも、それよりも総二郎の決意の声の方が大きかったからなのか。
 つくしの耳には、総二郎の声しか届かなかった。

◇ ◇ ◇


「ちゃんと連絡しろよ」

「わかってるって」

 総二郎の肩を抱きながらあきらが言うと、笑いながら総二郎も答えた。

「とうとう、F4も二人になっちゃったね」

 寂しそうに、類が呟く。
 司に続いて、総二郎までもが日本から離れてしまう。小さい頃からずっと一緒だった幼馴染みがバラバラになってしまうのは、やはり寂しい。

「司も、忙しそうだしな」

「プロムが終わったら、すぐニューヨークに戻ったんだろ?」

「牧野と踊るためだけに、日本に来たみたいだからね」

 ははは、と大きな声で、F3は笑い合っている。いつもの、総二郎だ。
 そんな総二郎を、何とも言えない目でつくしは見据えていた。昨夜のあれは、一体何だったのだろう。

「牧野」

 脳裏に、昨夜の総二郎が浮かび上がった瞬間に、総二郎に声をかけられて。はっとして、つくしは総二郎を見た。

「次に会うときには、鉄パン脱いでろよ」

「……ばーか」

 いつもと変わりない、ふざけた総二郎。でも昨夜は、確かにいつもの総二郎とは違っていた。

「つくし」

 ぼそ、と側で優紀に囁かれる。

「西門さんと、何かあったの?」

 優紀の言葉に、ぎく、とする。別に、何かやましい気持ちがあるわけではないが。絶対に、優紀にだけは言えないことはあった。

「何も、ないよ」

「そう?」

 思わず目を逸らして、つくしは答える。嘘を吐くのは、ツラい。でも、本当のことは言えないから。
 ごめん、と心の中で、優紀に謝る。贖罪しなければならない気分になるのは、何故なのだろうか。

「優紀ちゃん」

 総二郎が、優紀に声をかけて近寄る。

「いろいろありがとう。勉強になった」

「いえ、とんでもありません。あたしの方こそ、ありがとうございました」

 深々と頭を下げる優紀の頬に、総二郎は唇を落とす。優紀に対しても、この男は普通で。戻って来たら一番に会いに来る、と約束したと言っていたのに。
 どうして、つくしばかりがこんなに意識しなければならないのだろうか。

「じゃ、行ってくる」

 大きく手を振って、総二郎は出国ゲートに姿を消した。

「西門流の名を世界に広めてからでないと、戻ってきても追い出しますからね!」

 桜子がその後ろ姿に叫んで、手を振る。それを、皆が黙って見つめていた。

「優紀さん、美作さんの車に乗せてもらいましょうよ」

 桜子が優紀の腕を捕まえて、そうはしゃぐ。

「静かにしてるんなら、送ってくぜ」

 やった、と嬉しそうに、桜子はあきらの側に立った。

「牧野は、類に送ってもらうだろ?」

「え?」

 あたしも一緒に、とつくしは思ったが。ちら、と類の様子を伺えば、天使のような微笑みが降ってきて。とても、断れる雰囲気ではなかった。

◇ ◇ ◇


「総二郎と、何かあったの?」

 運転中の類に問われて、え、とつくしは驚く。

「いつもと様子、違ったよ」

「そ、そぉ? そんなことないよ。いつもと一緒。あたしはいつだって、元気だし。西門さんも、元気に手を振ってたじゃない?」

 笑いながら、つくしは言葉を並べるが。本当に、未だに気づいていないのだろうか。動揺すると、しゃべりだす癖に。

「わっ」

 急にブレーキを踏まれて、つくしは前のめりになる。

「な、何、急に」

 まっすぐな目で見つめられて、つくしの心臓が、どくん、と波打った。

「何があったの、総二郎と?」

 後続車の、クラクションの音が聞こえる。疑問としてではなく、類はつくしと総二郎との間に何かあったと確信して、つくしを見据えた。真剣なその眼差しに、つくしは金縛りにあったみたいに動けなくなる。昨夜、総二郎に告白されたときのように。



 ――俺、おまえが好きだ。

 つくしは、自分の耳を疑った。そうして、何度も総二郎の言葉が頭の中で繰り返される。
 何度目かそれが頭の中で巡ったときに、初めてつくしは頬を真っ赤に染め上げた。

「司と類の間で苦しんでるおまえを見て、放っておけないって思った。おまえは親友の彼女である前に、友達だし。妹みたいな感じで放っておけないんだって。そう、思ってた」

 足元に落ちていた石を拾って、総二郎は手のひらの上で転がす。

「口は悪いし乱暴だけど……、おまえ、女なんだよな」

 そう言って、総二郎はつくしを見つめた。
 女として意識していなかったのに、改めてつくしを女として意識したときに。友達以上の感情があったことに、気づいてしまったのだ。

「でも、それだけだ」

 総二郎は、持っていた石を海に向かって投げた。遠くで、ぽちゃん、と音がする。

「今だけでいい」

 何も言葉を発しないつくしの腕を、総二郎は掴む。

「今だけでいいから……、肩、貸して?」

 言いながら、総二郎はつくしの肩に顔を埋めた。頬を掠める総二郎の髪が、くすぐったい。でも身を捩ろうともせずに、つくしは呆然としていた。



 そのとき、クラクションの音が再度響いて、つくしははっとした。はぁ、と面倒そうにため息を吐いて、類は車を発進させる。類が苛立っているのがわかる。運転が、いつもよりも荒い。

「あんたは、いつもそうだ」

 ぽつり、と類が零す。

「いつもそうやって、俺の側にいるふりをしていなくなる。簡単に、俺の前から姿を消してしまうんだ」

 その言葉で。類が、どれだけ傷ついていたかがわかる。司のときもそうだった。側で、ずっと支えてくれていたのに。結局、つくしは司を選んだ。
 笑ってる表情が見れればそれでいい、とはいうものの、やっぱり側にいた方がいいに決まっている。司に奪られて。今度はまた、総二郎に奪られそうで。気が気でないのかもしれない。

 つくしの、悪い癖だ。自分のことばかりで、周囲のことを疎かにしてしまう。本当に大切なら、ちゃんと話をするべきなのに。

◇ ◇ ◇


「総二郎と牧野、何かあったんかな?」

 桜子を降ろして優紀を家まで送っている途中、あきらがそう優紀に聞いた。

「何もないって、本人は言ってましたけど」

「あー。でも、大したことじゃないと思うし。あんま、気にしちゃだめだよ」

 俯いた優紀に、しまった、と言わんばかりに頭を掻きながら、あきらがフォローする。そんなあきらに、くす、と笑みが漏れてしまった。

「美作さんて、優しいんですね」

「はは。そう、俺って優しいだけの男なんだよね」

 F4が成り立っているのはこの人がいるからかもしれない、と優紀は思う。他の3人がバラバラでも、あきらがいるから纏まっている気がする。接着剤みたいに、離れた心をくっつけてくれているのかもしれない。

「西門さんは……、多分、つくしのことが好きなのかもしれません」

「えーっと。そんなこと、ないんじゃない?」

「いいんです。見てたら、わかります」

 それもそうか、とあきらは思う。誰よりも総二郎を見ている優紀になら、わかることだ。
 総二郎がつくしを好きだというのは、あきらにも見ていてわかるのだから。

「でも、戻ったら一番にあたしに会いに来てくれるって言ってもらえたから。それだけで、満足です」

 口元に笑みを浮かべ、優紀ははっきりと言った。最初から、わかっていたことだった。総二郎が、優紀に対して恋愛感情を持ち合わせていないことは。
 それでも側にいられるのなら、と思ったのも事実だ。

「牧野に対しては、恋人っていうより同志って言った方が近いかも。恋人よりも近くて、家族よりも遠い。そんなとこじゃないかな」

 優紀を向いて、あきらは微笑む。あきらの言わんとすることが、何となくわかる気がした。

「実際、俺も結婚するなら牧野みたいな女がいいって思ってるし。親友の彼女って、最もな位置だと思う」

 今の言葉に、偽りはない。F4にちやほやするそこら辺の女の子よりも、飾らずに、自分を曝け出してF4に説教する。そんなつくしにF4の皆が惹かれていくのは、自然なことかも知れない。
 何よりも、あの司が惚れた女である。度胸も根性も、普通の女より座っている。

「心根はどうあれ、総二郎は優紀ちゃんを選んだんだ。それは、胸を張っていいところだよ」

「……はい」

 あきらの言葉が、優紀に沁みる。言ってもらいたかった言葉が降ってきて、やっと安心できた気がする。

「寂しいときは、俺が総二郎の代わりをしてあげてもいいけど?」

「え、遠慮しときます」

 目を細めて言ったあきらに、慌てて首を振って優紀は断る。その仕種に、はは、と声が漏れた。

「冗談だよ。俺も、総二郎と同穴の関係なんて、ごめんだから」

「……それ、使い方間違ってませんか?」

「や。わからないなら、気にしなくていいから」

 冷静にそう言われて、あきらは少し気恥ずかしくなってしまった。