花より男子/ユキワリソウ(6)
「うわ。やっぱ、すご」
去年も思ったが、卒業式の後のプロムの華やかさは異常である。そうして今、この場に改めて立って。1年前、司と誓い合った言葉を思い出してしまった。
――あたしが、あんたを幸せにしてあげてもいいよ。
そう、つくしは確かに司に対して宣戦布告をした。あのときの気持ちに、嘘はない。
それなのに、今は類の側にいる。こんな結末なんて、想像もしていなかった。
ふと、つくしは自分の身体に目をやった。類が用意してくれたドレス。いつだって、つくしを気遣ってくれる。すごく、優しい人。コーヒーの湯気みたいに、ふんわりとつくしを包み込んでくれる。
類が選んでくれたドレスを着ていると、まるで類に抱き締められているみたいな錯覚に陥る。類に抱き締められたことを思い出して、ほんのり頬が赤く染まってしまった。
「何、赤くなってんだよ」
「いたっ」
ぺし、と頭を叩かれて、つくしは後ろを向いた。そこにいるはずのない人間の姿に、つくしは鳩が豆鉄砲を食ったように目を大きく見開いた。
「ど、どうみょぅ……じ」
忘れていた想いが、甦ってくる。せっかく、心が類で埋め尽くされそうになっていたのに。どうして、今頃になって。
「おまえと、踊りに来た」
そう言って、司はつくしに手を差し伸べる。司の後ろでは、大切な仲間たちがつくしと司を見守っていた。もちろん、類も一緒だ。
(これで、本当に終わるんだ……)
すごく、大好きだった。何度別れても、結局司の腕の中にいて。すべてをなげうってでも、一緒になりたいと思っていたのに。今回ばかりは、そうもできなくて。
歩む道が変わってしまったのだ、と心を入れ替えなければならない。
きゅ、と唇を結んで、つくしは差し出された司の手に、自分のそれを重ねた。
ぎこちなく、つくしは司と踊る。それでも一生懸命、つくしなりに頑張っていたのだが。
「おまえ、踊るの下手」
「仕方ないじゃんっ。知らないんだから」
はぁ、とため息を漏らす司に、つくしは相変わらず毒突くことしかできない。
「類と一緒になるって決めたんなら、もっと練習しとけ。俺じゃなくたって、そういうのは変わらない」
ドキン、とつくしの心臓が踊る。
「わかってるわよ、そんなこと」
司でも類でも変わらないのは、ジュニアだということ。公の場に出る機会が多いのは、どちらを選んでも同じなのだ。
「ていうか、花沢類とのこと……」
「ああ、類に聞いた」
「そっか」
顔を見るのさえ気まずくなって、つくしは目を逸らした。いつかはバレてしまうことだが、こんなに早く知られてしまうとは。
「おまえを裏切ったのは、俺だけど。でも、俺は真剣におまえを愛してた。おまえさえいれば、他には何もいらないって……本気で、そう思ってた」
言いながら、司は踊るのを止めてつくしを見据える。その眼差しの熱さに、どくん、と胸が締めつけられた。
「俺は、賭けに負けたんだ。だから、おまえとは別の道を歩くしかなくなった」
「……賭け?」
何の話をしているか、つくしには検討もつかない。
でもつくしが検討もつかないほどの大きな賭けに司が敗けて、つくしを手放す覚悟をしたということは、何となくわかる。
司は、大きな手でつくしの髪の毛をぐしゃぐしゃにした。
「類を大事にしてやってくれ。それから、類に大事にしてもらえ。卒業祝いに、俺さまから餞の言葉だ」
結局、司の言う賭けが何なのかわからなかったけれど。つくしを大切に思ってくれていたことと、今も変わらず大切に思ってくれていることは十分に伝わった。
つくしは、司に何と声をかければいいのだろう。ありがとう? ごめんなさい? どちらも違う気がして、結局何も言えなくなってしまった。ただ、涙だけが溢れてきた。
「アンタの口から、餞なんて言葉が聞けるとは思わなかったわ。難しい言葉も知ってるのね」
「てめぇ、俺さまを馬鹿にしてるな?」
「だって馬鹿じゃん」
涙は、止まらないけれど。でも、時間は確実に進んでいる。あの日、司と滋の結婚式の日から止まったままになっていたつくしの心が、今やっと動き出した気がする。
「話は終わった?」
類にハンカチを差し出され、つくしは受け取って涙を拭いた。
「今更、やっぱり返せとか言わないでね」
「言うかよ」
目を細めて、類が司に言う。司も、笑って答えた。
「本当は、言いてぇところだけど。滋まで裏切るわけにはいかねぇからな」
「違いないね」
司の言葉に、類は笑みを溢す。一人の女を取り合った、親友同士。つくしを板挟みにして、二人の結束はより深まったことだろう。時には殴り合い、そして譲り合って。最終的に、つくしは類の元にいる。二人の間で揺れ動いていたつくしの心も、ようやく固まった。
「道明寺」
真っ直ぐに司の目を見て、つくしは口を開く。
「あたし、あんたのことが大好きだった。ホントにホントに、大好きだったの」
「……牧野」
驚いたように、司は目を大きくする。
「あたしを好きになってくれて、ありがとう。幸せにしてあげられなくて、ごめんね」
笑顔でつくしが言った瞬間、全身が金縛りにあったかのように司の腕できつく縛られた。
「幸せにしてやれなくて、悪かった」
自分の手で、幸せにしてあげたかったのに。それは、もう一生叶わない夢になってしまった。
司は腕を緩めて、つくしを放す。そうしてつくしを見つめて、額に口付ける。
「頼んだぜ、類」
司は類を向いて、拳を類の胸に当てた。
「だから。頼まれるまでもないってば」
ふ、と顔を見合わせて、どちらからともなく笑いが溢れる。つくしを通して、二人は互いに任せていた。互いに、つくしを幸せにしてやって欲しいと願って。つくしの笑顔を、ずっと見ていたいと思って。
それを自分の手で叶えられないことが残念だが、相手が類なら諦められる。親よりも大切な幼馴染みで、一番の親友である類だから。
◇ ◇ ◇
「今、何て言った!?」
つくしは、自分の耳を疑った。
「だから。向こう4年間の学費、払ってあるからって」
呆然と立ち尽くすつくしに、類は平然と言って退ける。
「じ、冗談じゃないわよ」
あまりのことに、つくしの声が震える。怒りと驚きが入り混じって、何とも言えない気分だ。
「あたし、就職先だってちゃんと決まって……」
「その会社なら、うちが買い取った」
「……はい?」
つくしの言葉を遮って、司がそう言った。
「残念だけど、つくしチャンの就職先は、司ん家の三下ってこと」
「牧野をクビにするくらい、わけないよな」
司に続けて、総二郎とあきらも口を開く。
「か、勝手なことしないでよっ」
手に、ぐっと力が入った。
「誰がそんなこと頼んだのよ!? 大学に行きたいなんて、一言も……」
「でも、行きたかったんでしょ?」
「そ、それは……」
類にさらっと言われて、つくしは言葉に詰まる。大学に進学したかったのは、事実である。
だが如何せん、牧野家には金銭的余裕が微塵もない。大学進学は、夢のまた夢だったのだが。
「いいじゃん、別に。みんな、牧野のために何かしたかったんだよ」
荒れるつくしを宥めるように、類が頭を撫でる。この大きくて優しい手に、いつも騙されている気がする。
「4人で1年間ずつ、4年分。高校生活、牧野のおかげで結構楽しめたからな。まぁ、ちょっとした恩返しってやつ?」
「牧野がいれば、大学も楽しめそうだし」
「俺たちにとっちゃ端金だ。気にすんな」
確かに、F4にとっては端金かもしれないが。つくしにとっては、大金である。それをすんなりと受け取るなんて、できるわけがない。
「本当は、俺一人で出そうと思ったんだけど。そういうことならって、みんな出すって聞かなかったんだよね」
微笑んで、類はつくしに白い歯を見せた。何だか、頑なに拒んでいるつくしが悪いように思えてくる。
「あんたたち、本当に馬鹿ね」
観念したように、つくしはため息を吐いた。本当に、泣けるくらい感動的なことをしてくれる。
「ありがとう。……嬉しい」
瞳を潤ませて、つくしは4人に礼を述べた。その満面の笑みに、F4はドキっとする。
「ぎゃっ」
不意に、類がつくしの顔面を片手で覆った。
「ち、ちょっと、何?」
「何でもない。ちょっと黙ってて」
つくしの表情に赤面してしまったなんて、格好悪すぎて見せられない。類は、もう片方の手で自分の顔も隠した。
「すげ」
「こんな表情の類、初めて見た」
「類クンてば、純情だねぇ♪」
驚いて、司とあきらはまじまじと類を見る。総二郎は面白そうに、語尾を上げて揶揄するようにそう言った。腹が立つものの、今は反論さえできない。
幼馴染みといえど、類のこんな表情を見るのは初めてだった。思い切り照れて顔を隠し、彼女の表情を他人に見せたくない、と言わんばかりの類の手。
あれだけ他人に無関心だった男が、よくここまで変わったものだ、と改めて歓心する。
「つーか、俺の前であんまりイチャつくな。別れたとはいえ、結構キツい」
寂しそうにそう呟いて、司は類とつくしを見ることなくその場を去って行った。哀愁を漂わせる後ろ姿に、つくしは胸が痛む。
先につくしを手放したのは、司の方なのに。どうして、こんなにも後ろめたい気持ちになるのだろうか。
「何だ、アイツ?」
「自分から牧野を振ったくせに」
納得がいかない、という感じで、総二郎とあきらは司の後ろ姿を見つめた。切なそうに俯いて、類は意を決したように口を開く。
「それは、司の意思じゃないからね」
え、とあきらと総二郎、そしてつくしは、その後に続く類の言葉に、更に目を丸くしたのだった。
◇ ◇ ◇
「司のこと、考えてる?」
「え?」
不意に問われ、ドキ、とした。
「な、何で?」
「何となく。そんな表情してたから」
図星だった。
――俺は、賭けに負けたんだ。
あのときの言葉の意味を、知ってしまって。
類と歩むことを決意したばかりだというのに、つくしの頭の中は、司で占領されていた。
「……」
押し黙ってしまったつくしの頭が、類の大きな手で包まれる。
類は優しい。無理に聞き出したりはせずに、いつも見守るようにつくしの側にいる。それが居心地がよくて、甘えてばかりもいられないのに、つい甘えてしまっていた。
滋との賭けに敗けて、つくしとの別れを余儀なくされた司。その胸中は、きっと穏やかではなかっただろう。
でもつくしと付き合っている状態で滋と契りを交わしたことは、つくしにとっては受け入れ難い事実だった。到底、許せる範囲内のことではない。
「まだ、言うべきじゃなかった?」
「ううん、大丈夫」
不安そうな表情で、類はつくしを覗き込む。類に傾きかけていた気持ちが、今はまた司へ向いている。それが、類にも伝わってきて。何とも言えない、歯痒い気分だ。
「あのね」
きゅ、とつくしは類の服を掴む。
「心配、しないでね。あたし、ずっと花沢類の側にいるから」
「牧野……」
思うよりも先に、身体が動いていた。愛しくて堪らなくて。きつく、つくしを腕の中に抱き竦めた。笑顔を見たい、と思って側にいた。類が側にいることで、少なからずつくしも和んでくれているだろうと思っていた。
でもいつしか、それは自己満足でしかなくなっていて。つくしの気持ちを思って側にいたはずだった。でも、そうではなくて。
何より、類自身がつくしの側にいたかったのだ、と気づいてしまった。
◇ ◇ ◇
「一世一代の賭け、か」
「え?」
グラスを片手に呟いた総二郎に、優紀が目を丸くする。
「ごめん、何でもないよ」
目を細めて言う総二郎に、優紀も何も言わずに微笑み返した。総二郎はグラスをテーブルに置いて、優紀の耳元に手を添える。ぴく、と反応して頬を染めた優紀に、そのまま唇を重ねた。
「とうとう、行っちゃうんですね」
ぽつり、と優紀が寂しそうに呟く。総二郎は、出発を明日に控えていた。だから一緒に過ごすのは、今日を終えたら2年後になる予定なのだ。
わかってはいるつもりだが、寂しくなってきて。優紀は、思わず言葉を溢してしまった。
「うん。でも、必ず戻ってくるから」
言いながら、総二郎は優紀の額にキスを落とす。
「今度会うときには、タメ語になってると嬉しいんだけど?」
「努力します」
はは、と笑いながら、優紀はそう答えた。
「優紀ちゃん」
「はい?」
総二郎に声をかけられて、優紀は不思議そうに顔を覗き込む。
「優紀ちゃんは、牧野を見ててどう思った?」
「どう、って……?」
「司と付き合ってた時の、牧野。幸せそうだった?」
問われて、優紀は言葉に詰まる。司といる時のつくしは、確かに幸せそうではあったが。御曹司である司といる時は、どこかしら窮屈そうで。
「幸せ……だったと、思います。でも、つくしはもっと普通の恋愛を望んでました。あたしも、つくしにそういう恋をして欲しかった」
何も、好んであんな恋愛をしなくてもよかったのではないか、と今も思う。傷つけて、傷つけられて。そうして傷の舐め合いをしながら、司とつくしは交際していた。
当人同士の気持ちだけなら、何の問題もなかったのに。そこに、道明寺財閥が入ってくるとなると、泣いていたのはいつもつくしで。
それを見ているのが、とてもツラかった。
「花沢さんのこと、つくしはきっと好きなんだと思います。でも、道明寺さんのことがあったから……。つくしは、また同じように傷つくのを怖れている気がするんです。自分でも気づいてないと思うけど」
「すごいね、優紀ちゃんは」
洞察力の鋭い娘だ、と改めて感心する。優紀の言っていることは、当たっている気がするから。
「好きな人に対する想いっていうのはさ、自然に薄れていくもんなんだよな。俺が、更を忘れたみたいに」
不意に更の名前を出されて、ドキ、とする。もう、完全に吹っ切れているのだろうか。でも初恋の人は、特別な気がするから。恋愛感情云々を取っ払って、大切な人には違いない。
「牧野はさ、無理に司を忘れようとしてるところがあるから。それに、類を利用してるんだって思い込んでる気がするんだよな。自分に素直になれば、男女の関係なんて紐解くよりも簡単なもんなのに」
言って、グラスに残っているワインを一気飲みする。そう。自分に素直になりさえすれば、こんなに簡単なことはないはずなのに。
「つくしのこと、よく見てるんですね」
優紀は、深く息を吐いた。総二郎の想いが、痛いほど伝わって来て。涙も、出ない。
「今の、自分に素直になればって台詞。西門さん、自分自身に向けた言葉なんじゃないですか?」
総二郎を見据えて言う優紀の目に、曇りはなかった。