花より男子/ユキワリソウ(3)
「じゃあ、今からデートなの?」
バイト先の千石屋で、優紀は後片付けをしながらつくしに聞いた。優紀と同じような作業をしながら、うん、とつくしは答える。
「うん、て……。つくし、花沢さんと付き合うの?」
「まさか」
優紀の疑問を、つくしはきっぱりと否定する。
「そういうんじゃないの、花沢類とは」
つくしはそう言うが。
類にしてみれば、まったく下心がないわけではないと思うのだが。
確かに、傷ついているつくしに無理矢理何かをしたりするような人間ではない。
それはわかっているつもりだが、恋人であった司と別れてしまった今、類からのデートの誘いを受けるということは、類の気持ちを知った上でそれを肯定することにはならないのだろうか。
「……でも」
手を止めて、つくしは呟く。
「今は、本当に花沢類の存在がありがたくて。言葉は悪いけど、利用……してるトコがあるかも」
好きとか嫌いとか。そういう言葉では言い表せないほど、大切な存在で。今のつくしが、誰よりも必要としているのは類だ。
「花沢類といると、温かくなるの。気持ちが落ち着いて、ぼーっとできる」
いつかつくしも、誰かのそういう存在になりたい。側にいるだけで、安心できるような存在に。
「つくしが傷つかないなら、それでいいの」
優紀は、心配そうにつくしの顔を覗き込む。
「つくしには、もっと普通の恋愛をして欲しいから」
傷つかない、恋愛を。司との恋愛は、側で見ているだけではつくしが傷ついていることしかわからなかったから。一緒にいるのが幸せだと、それだけでは埋まらないほどつくしは傷ついていたから。
だから、今度誰かを好きになるときには、もっと真っ当な恋愛をして欲しい。優紀は、切にそう願っていた。
「ありがと、優紀」
そんな優紀の思いが、つくしにも伝わる。司と付き合っていたときには、優紀にも色々と迷惑をかけてしまった。つくしと、司のせいで。今度こそ、誰にも迷惑をかけない恋愛をしたい。
つくしは、心底そう思っていた。
バイトが終わって店を出ると、既に類が待機していた。その隣の影に、つくしは目を丸くする。
「あれ、西門さん?」
「よ」
つくしに気づいて、総二郎は手を上げた。
「どうしたの?」
「ちょっと、優紀ちゃんに話があって」
「え? あたし、ですか?」
つくしの質問に総二郎が答えると、見る見る優紀の顔が赤く染まる。なんて純情な女の子なんだろう、とつくしは女の目から見ても可愛いと思ってしまった。
「乗って」
総二郎は、車の助手席のドアを開けて優紀を見る。慌てて、優紀は車に乗り込んだ。
「じゃな、類、牧野。ちゃんと避妊しろよ」
「し、しないわよ、馬鹿っ」
笑いながら去っていく総二郎に、つくしは頬を紅潮させて怒鳴る。いつもいつも、そういうことばかり言って、総二郎はつくしを困らせる。類とは、そういう関係ではないというのに。
「しないの、避妊? 赤ちゃんできちゃうよ?」
「……!!」
つくしの耳元で、わざとらしく類が囁いた。
「だ、だから……っ。避妊とか、そういう問題じゃなくて……!」
ムキになって言い訳するつくしが、尚更かわいくて。類は、噴き出して笑ってしまった。
「もう、知らないっ」
「ごめんごめん」
怒って背を向けたつくしの肩を、笑いながら類は捕まえる。
「とにかく、乗って。どこに行きたい?」
「……」
この、ビー玉のように輝く瞳で言われたら。怒っていた気持ちが、一瞬にして沈んでしまう。何だか、怒っているのがバカみたいな気がして。
「お腹空いたから、何か食べに行こ。今あたしをからかった罰として、花沢類の奢りね?」
「あい」
つくしは、常に類と対等でありたいと願っている。食事に行っても、いつも割り勘で。本当はいつだって出してあげたいのに、つくしはそれを頑なに拒んでさせてくれない。
時折こうして、つくしを揶揄して奢らせて貰えるのならそれもいいかもしれない、と類は思った。
◇ ◇ ◇
「――…え?」
優紀は、目の前が真っ暗になった。総二郎に言われた言葉を、素直に受け止められない。
「2年は戻らないと思う」
上品に手を動かして、総二郎は食を進める。手が震えて、優紀は上手く食べることができなかった。
世界中に、お茶の文化を広めたい。その総二郎の願いは、茶道の次期家元として当然のことだと思う。
でも、2年もいなくなるなんて。考えただけでも、涙が出そうになる。
そんな気持ちはおくびにも出さないで、優紀は総二郎に笑顔を見せた。
「西門さんなら、きっと素晴らしいお茶の文化を世界中に広められますよ。期待しています」
持っていたフォークを置いて、総二郎は顎の下で手を組んで、真っ直ぐに優紀を見つめる。
「戻ったら、一番に優紀ちゃんに会いに行くよ」
「え?」
ドキン、と優紀の心臓が波打つ。
総二郎のことを愛しいと思う気持ちが、溢れ出してきて。こんなにも総二郎のことを好きだったのか、と改めて実感する。
「優紀ちゃんは、俺に革命を起こしてくれた。誰よりも大切な女の子だよ」
恋愛の対象かどうかは別として。思ったが、総二郎は口にはしなかった。
今は、そこまで傷つけるべきではない。それに、総二郎がそう思っていることは優紀が一番わかっているはずだから。
「やだ、もー……」
総二郎の言葉に、優紀の涙腺が緩む。
「反則ですよ、今の」
嬉しくて、涙が止まらない。恋人にしてもらうよりも、嬉しい言葉かもしれない。
せっかく、笑顔で見送ってあげようと思ったのに。
「今日、上に部屋を取ってあるんだ。時間、大丈夫?」
総二郎の問いに、優紀は笑顔で頷いた。
「西門さんに誘われて、断る人なんているんですか?」
「普通の女の子は断らないよ。断る女がいるとすれば、牧野くらいだろ」
「つくしは普通じゃないんですか?」
「普通じゃないよね。F4にケンカ売るような女は」
「ですね」
くす、と優紀は笑う。でもそのおかげで、今こうして総二郎といられるのだ。
つくしがそこら辺のありきたりな女の子だったら、きっと司も類も、つくしを好きになったりはしなかっただろう。総二郎やあきらに大事にされることもなかったのだ。
◇ ◇ ◇
「っくし」
ずず、と鼻を啜ると、運転中の類からハンカチを渡された。
「大丈夫?」
類の手からハンカチを受け取って、鼻に当てる。類の香水の匂いが、心地いい。アロマテラピーみたいに、胸にじんと来る。
「ちょっと、家に寄ってもいい?」
ハンドルを切りながら、類がそう問う。
「え? いいけど。何かあるの?」
「司のこと。ちゃんと、話しておきたくて」
名前を出されただけで、ずきん、と心臓が痛む。もう、終わってしまった恋の相手なのに。
「……いいよ、道明寺のことは」
俯いて、つくしは口を開く。
「もう、終わったんだよ」
たとえ、まだ心の中に残っていても。どれだけ好きでいても、仕方のないことだから。今更、何を聞いても、どうすることもできないのだから。
「あんな中途半端なケリのつけ方じゃ、アンタだって納得できないでしょ。ちゃんと、説明するから」
「いいってば!」
少し声を荒げて、つくしは言う。口にしてから、はっとしてしまった。類に当たることではない。
「ご、ごめん。今の、八つ当たり……」
「いいよ、別に。気にしてない」
平然と、類はそう言ってくれた。類がつくしを心配してくれているのは、よくわかる。
でも今は、司のことに触れて欲しくなくて。つい、声を荒げてしまった。こんなに優しくしてくれる類に、八つ当たりしてしまうなんて。
自己嫌悪に陥って、つくしは類から顔を背けて窓の外を眺めた。景色が、まるで司との思い出を消し去ってくれているかのように流れていく。
忘れなければならないのだ、司とのことは。
ぐ、と涙が込み上げてきそうになった瞬間、そっとつくしは手に温もりを感じた。
類が、膝の上に置かれたつくしの手に、自分の手を重ねてくれている。やっぱり、傷ついた心を癒してくれるのはこの人しかいない。
目を瞑って、つくしは類の温もりを感じていた。
「相変わらず、殺風景な部屋だね」
類の部屋に通されて、つくしは部屋中をぐるりと見渡しながら呟いた。
「もっとさ、インテリアとか置いたら?」
くるり、と類を向くと、類は穏やかな表情でつくしを見つめていた。
「あんたがそうしたいなら、好きにしていいよ。今度、一緒に買いに行こうか?」
ベッドに腰を下ろして、類は言う。思わず、つくしは言葉に詰まってしまった。つくしが、どうこうしていい部屋ではないのだから。
「司のこと、なんだけど」
ぽつり、と類が口を開く。
「聞きたくないかもしれないけど、ちゃんと聞いて。司はね……」
「ごめん、花沢類」
類の言葉を遮って、つくしは類に背を向ける。
「もう少し待って。今はまだ……あいつの言葉を受け入れる勇気がないの」
それは、正直な気持ちだった。心の底からおめでとうを言える日が来るまで、司のことは耳にしたくない。
ちゃんと、けじめをつけなければならないこともわかっている。でも今はまだ、時間が欲しい。
二人のことを受け入れて、激励の言葉を捧げる勇気が今はない。
「わかったよ」
大きな手をつくしの頭に乗せて、髪をくしゃくしゃにする。類の穏やかな表情に、つくしはほっとした。
やっぱり恋愛云々を抜きにして、一番側にいて欲しいのは類だと改めて思った。
「司はさ、牧野の運命の人じゃなかったんだよ」
「……そうだね」
類を見上げれば、類の顔が落ちて来た。ふわ、と風のように、唇に体温を感じる。
え、と思う時間もないほど一瞬の出来事だった。
「インテリア、か。俺はテレビとベッドがあればいいと思ってたから、今まで考えたこともなかったけど。せっかくだから、何か飾ろうかな」
類が並べた言葉も、今のつくしの耳には届かなくて。視点さえ定まっていなかった。
「初めてってわけでもないのに、いちいち固まらないでよ」
呆然としたつくしを見て、呆れたように類が口を開く。
「か、固まるなって……」
無理だから、と声を上げたいのを堪える。本当に、類は唐突過ぎる。
「司が運命の人じゃなかったんなら、俺って可能性もあるわけでしょ? これ以上、遠慮する気はないから」
「そ、そう」
類がつくしを支えてくれていたのは、友情だけではなくて、そこに愛情があったから。だから、総二郎やあきら以上につくしのことをいつも気にかけてくれていたのだ。
わかっているつもりではいたが、改めて言葉を聞くと恥ずかしくなってくる。
「俺のこと、嫌い?」
口元は笑みを浮かべ、でもどこかしら寂しそうな瞳をして、類は問うた。
「そんなことあるわけないでしょ」
「じゃあ、好き?」
好きか嫌いか。それだけで聞かれたら、答えはもちろん決まっている。
「……そりゃ、好きだよ」
「じゃあ頑張る」
不意につくしの視界が遮られて、甘い香りが鼻を掠めた。つくしの瞳に映るのは、類の厚い胸板のみ。
「いつか、当たり前に。いつも牧野の隣にいれるように」
きつく、つくしを抱き締める腕が心地いい。今だって、当たり前につくしの隣にいるのに。
でも今はまだ、友達以上恋人未満の位置だから。それを、恋人以上の位置に変えたくて。
踏み出せなかった一歩を、ようやく踏み出すことができた。親友の彼女という鎖がなくなったおかげで。
以前はただ、側でつくしの笑顔が見れるだけでよかったのに。なんて欲張りな人間になってしまったんだろう、と類は思う。抱き締めても、キスしても。それ以上を望んでしまう。早くこの手に抱きたい、と願ってしまう。
つくしを抱き締める手を緩めて、類はつくしを見つめた。そうして、ゆっくりと顔を落としてつくしに口付ける。唇を離せば、真っ赤に染まったつくしの顔が目に入った。
ぷ、と噴き出して、類はつくしを抱き締めたまま声を上げて笑う。ずっと、触れたくて。でも、触れることができなくて。今やっと、つくしをこの手の中に留めることができた。
いつ飛んで行ってしまうかわからないつくしを、どこにも行かせはしない。それは、司に言われたからではなくて、類がそうしたいから。類自身が、誰よりもつくしに側にいて欲しいと願っているのだから。