花より男子/ユキワリソウ(20)


「あーっはっはっはっ」

 腹を抱えて笑い転げるあきらを、類は睨む。

「……あきら、笑いすぎ」

 目尻の涙を拭きながら、それでも笑いを堪えられないふうに、あきらは類に、悪い、と言うが。

「で、でも……。う、くく……。あんな記事見たら、誰だって笑うだろ?」

「……」

 思い出してまた笑うあきらに、類は深く、ため息を吐いた。

 今朝の新聞を賑わした記事は、類とラウルの空港でのキスシーン、だった。

「それにしても、見事に撮れてるよなぁ」

 まじまじと見直すあきらの手から新聞を取り上げ、類はそれをぐしゃぐしゃに丸めた。

「何度も見ないでよ。気分悪い」

「悪いって。もう言わねぇよ」

 はぁ、と落ち着いたように吐き出して、あきらは窓際に寄った。

「今日、西門さんは? 一緒じゃないんだね。そろそろ、また日本を発つのかな?」

 二人のやり取りを黙って見ていたつくしが、ようやく口を開いた。ああ、と頷いて、あきらはつくしに答える。

「いつも一緒ってわけでもねぇし。ま、旅に出るのは、どうだろうな。あいつ、ふられたらしくて。今、女と遊ぶのに夢中だから」

「え?」

 あきらの言葉に、つくしは目を丸くした。

「ふられたって、優紀……? 西門さんが、そう言ったの!?」

「言うかよ、総二郎が」

 思わず声を荒げたつくしに、あきらは冷静に対応する。

「見てりゃわかるっつの。何年友達やってると思ってんだよ? 一人の女に絞って真面目になってたあいつが、急に遊び出すなんて。理由は、一つしかねぇだろ?」

「……」

 思うよりも先に、つくしの身体は動いていた。
 バッグを手に取り、ドアノブに手をかける。その手を、類が掴んだ。

「総二郎のところに行くつもり?」

「……お願い、行かせて。優紀にふられたなんて、ありえないよ。やめさせなきゃ」

 ノブを握る手に、ぎゅ、と力が入る。

「あんたのせいだとは、思わないの?」

「え?」

 類の言葉に驚いて、つくしは隣に立つ類を見上げた。

「あんたを好きな総二郎とはいられないって、あんたの友達が判断したとしたら? それこそ、あんたには関わってほしくないんじゃない?」

「……そんなこと」

 ない、とは言い切れない自分が、悔しい。優紀のことだから、たとえ総二郎が誰を好きでも側にいただろう。手放した理由は、きっと総二郎のためを思って、だ。
 総二郎に、気持ちを押し込めたままでいてほしくなくて。これから先の未来を、明るくしてほしいから。

 俯いてしまったつくしの頭に、類の大きな手が乗った。

「放っとけないのは、あんたの性分だもんね。仕方ないから、俺も一緒に行くよ」

「……ありがとう」

 そう言って、つくしは笑顔を向けた。

◇ ◇ ◇


 外観からは想像もつかない総二郎の自室に、つくしは目を丸くした。

「こんな部屋があるなんて、きっと誰も想像できないわね」

 ぼそ、とつくしが呟けば、はは、と声を上げて総二郎は笑った。

「いつか、誰かにも似たようなことを言われたな」

 それを言ったのは、更だった気がする、と思ったが。それ以上は思い出したくなくて、総二郎は考えるのをやめた。

「つーか。何、いきなり? 俺、今からデートだから。用件は、手短に頼むぜ」

 打って変わったように、総二郎はわざと明るく言う。

「……デート?」

「そ」

 訝しげに見つめるつくしと、総二郎は目を合わそうとしない。
 触れられたくないのだろう。そう思ったが、言わずにはいられなかった。そのために、ここまで来たのだから。

「優紀とは、どうなったの?」

 ぴく、と総二郎の肩が反応したのがわかった。ごく、と唾を飲んで、つくしは言葉を続ける。

「本当に、別れちゃったの?」

「そもそも、付き合ってなんかなかったんだよ、俺たちは」

 そう言って遠くを見つめる総二郎の目が、とても寂しそうで。

「でも、優紀は西門さんのことが好きなんだよ? それなのに、どうして……?」

「俺がおまえを、好きになったから……、だろ?」

 どくん、と心臓が波打つのがわかった。

「優紀ちゃんを幸せにしたいって思った気持ちは、嘘じゃなかったんだけどな。あの子には、伝わらなかったらしい」

「――一期一会、でしょ?」

 それまで黙っていた類が、ようやく口を開いた。

「ここで手放したら、本当に終わるよ? 本当にあの子の笑顔を見たいと思うなら、どう思われてたって、そばにいるべきなんじゃないの?」

「……類に言われると、本当にそう思うよ」

 固く繋ぎあったつくしと類の手を見て、総二郎がそう呟く。司とつくしが付き合っているのを知っていて、それでも類はつくしのそばにいた。
 それこそ、不即不離の関係を保っていて。そうして、ようやく類は手に入れたのだ。牧野つくしという、類の運命を変えた女を。

「悪いけど、牧野は渡さないし。見込みのない恋愛をするよりは、目先の恋愛を大切にしなよ」

「お前、言ってることめちゃくちゃだな」

「そう? 俺は、見込みがあると思ったから、ひたすらに牧野を追いかけてたんだよ」

「え? それって、あたしが道明寺と別れるって思ってたってこと!?」

 類の言葉に驚いて、つくしは類を向いた。に、と口元を綻ばせて、類は優しくつくしを見つめる。

「そういう可能性は、十分にあったからね」

「じゃ、俺にもまだ可能性があるとは思わねぇの?」

 総二郎が、間髪入れず、そう問うが。きっぱりと、類はそれを否定した。

「ないよ。俺は、1ミリだって牧野を譲る気はないから」

「あー、そうですか」

 はいはい、と呆れたように総二郎は類とつくしに目を通す。それから、ふぅ、と息を吐いて、背伸びをした。

「んじゃ、ま。もう一度、砕けてみっかな」

「西門さん……」

「牧野のこと、好きだけど。俺、やっぱり優紀ちゃんも好きなんだよな」

「……うん」

 すとん、とつくしの心に総二郎の言葉が入ってきた。
 この前は、あんなに動揺してしまったのに。今なら、素直にその言葉を受け止められる。

「じゃ、俺行くから。……ああ、類。ちょっと、耳」

 部屋を出て行こうと足を向けて、総二郎は思い出したように類に耳打ちした。
 了解、とちょっと困ったような表情を類がすると、総二郎は、ごゆっくり、と言い残して出て行った。

「西門さん、何て言ったの?」

 持ち主のいない部屋で、つくしは類に問う。

「ん? ベッド脇のサイドボードに、入ってるからって」

「入ってるって、何が?」

 きょとん、としたつくしの耳元に、類はそっと口を寄せて。

「……!?」

 囁かれた言葉に、つくしは頬を真っ赤に染め上げた。

「使う?」

「つ、使うわけないでしょーがっ」

「いいの、子供できても?」

「そういう問題じゃ、なーい!!」

 淡々と話す類に、つくしはりんごのような顔で怒鳴ったのだった。

◇ ◇ ◇


「ゆ、優紀、優紀ぃ!!」

 部屋を、どんどん、と叩いて、それからすぐにドアが開かれた。

「あ、あんたに、お客さんっ。前に来たことのある、すっごいカッコいい人!!」

「……え?」

 今更、何の用があるのだろう、と。優紀は、出るのを躊躇ったのだが、姉に急かされて、渋々玄関を開けた。そこには、予想通り、総二郎がいて。
 顔を見るだけで、こんなにも涙が出そうになる。総二郎との別れは、優紀の中では一大決心だったというのに。
 その優紀の決意を、いとも簡単に崩してしまうのだな、と。少し、苛立ってしまった。

「ごめんね、突然」

 顔を見ないように俯いたまま、優紀は、いえ、と答える。
 多分、総二郎の知り合いの女性の中で、今一番可愛くないのは優紀なのではないか、と思うほど、可愛くない言動だ。

「少し、話がしたいんだけど」

「話すことなんて、ありませんから」

 失礼します、と言って背を向けた優紀を、総二郎は後ろから抱き竦める。

「頼むよ。俺に、もう一度チャンスをちょうだい」

「……」

 総二郎の腕の中にいると、胸が熱くなって。やっぱり、この人のことが好きなのだ、と。優紀は、再認識してしまった。

「はな、して……」

 それだけ言うのが、精一杯で。それ以上、口を開いてしまえば、泣いてしまうのがわかっていたから。

「……俺の話を、聞いてくれるなら。放すよ」

 総二郎の腕に、ぐ、と力が入る。優紀は、耳元でそう囁かれて。観念したように、首を縦に振った。



「覚えてる、ここ?」

「……もちろんです」

 一度、偽装デートをしたときに訪れた場所。つくしと司に見せつけるために、ここで肩を抱かれたことは忘れたくても忘れられない。

「俺、ね。やっぱり、優紀ちゃんを幸せにしたいんだ」

「……え?」

 思いがけない総二郎の言葉に、優紀は耳を疑った。

「更のときには逃してしまったけど。優紀ちゃんは、離してしまいたくないんだ。もう、二度と後悔したくないんだよ」

「……」

 今の、言葉は。総二郎の口から、出た言葉なのだろうか、と。どうしても、自分の耳を信じられなくて。
 優紀は、目を丸くしたまま、固まってしまった。

「だから、正直に言うよ。俺は、牧野が好きだ」

「……はい」

 ああ、やっぱり総二郎の言葉だった、と。優紀は、ようやく納得した。
 つくしのことが好きだ、と、そうはっきり言ってくれたのは初めてだったけれど。言われて、すっきりしている自分がいた。

「でも、優紀ちゃんのことも、好きだから」

 その後に続いた言葉に、優紀は再度、目を丸くして。

「幸せにしてあげたいって思った気持ちは、本物だよ。優紀ちゃんといると、心が安らぐんだ。結婚する上で、そういうのって大切だと思わない?」

「……けっ、こん?」

 一体、何を言っているのだ、この人は。優紀が想像を絶する言葉が、どんどん出てきて。頭が、爆発寸前だった。

「うん。俺は、結婚するなら優紀ちゃんとがいいよ」

「にしかど、さん……」

 視界が、歪む。優紀の瞳に映る総二郎が、揺らいで見える。

「改めて、言う」

 今ほど、真剣な総二郎の目を見たことは、なかったかもしれない。まっすぐに優紀を見据えて、総二郎は口を開いた。

「松岡優紀さん。俺と、結婚して下さい」

 優紀の頬に、涙が伝った。

◇ ◇ ◇


「ケッコン!?」

 類の言葉に、つくしは思わず声を張り上げた。

「な、何考えてんの……?」

 だらだらと、変な汗が出てくるのがわかった。類の言葉を、一度では理解しきれなくて。

「牧野のこと。だから、結婚しようって言ってるんでしょ?」

 そうじゃなくて、とつくしはツっこみたくなるのを、何とか堪える。

「だ、だって、あたしたち、まだ婚約したばっか……」

「うん。だからね、父さんたちも、やっぱりこの間のラウルと牧野の記事のことは、あまりよく思ってなくて」

 それはそうだろう。息子と婚約したばかりの女が、他の男とホテルで密会したという記事を見て、冷静でいられる親がいたら、逆に見てみたいものだ。

「誰かに盗られる前に、いっそのこと結婚したらどうだって」

「……」

 さすがは類の親だ。つくしは、そう思わずにはいられなかった。まるで突拍子もない考えは、類と同じである。

「牧野は、俺と結婚する気はないの?」

「え? そ、そりゃあ、婚約の延長上に結婚があるとは思ってるけど、こんなにいきなりじゃ、誰だってビックリするよ」

 ビー玉の瞳に見つめられてドギマギする心を抑えながら、つくしは答える。
 類と、結婚したくないわけではない。もちろん、将来は一緒にいれたら幸せだろうな、とは思っている。でもそれが、こんなに急だとは。

「手、出して?」

「へ?」

「屁じゃないよ、手」

「……」

 わかってる、と言いたい気持ちを抑えて、つくしは言われた通り、類に手を差し出す。

「はい、これ」

 言葉と一緒に、手のひらに置かれたのは。

「……ゆび、わ?」

 スカイブルーの小さな宝石が乗った、シルバーリングだった。

「婚約指輪。まだ、渡してなかったから」

「……」

 つくしは、言葉をなくした。それと同時に、わずかに手が震える。思ってもみなかった、プレゼントに。目頭が、熱くなってきた。

「この宝石はね、アクアマリンなんだ。俺の、誕生石。これならいつでも俺に見られてるって気がして、浮気なんかできないでしょ?」

「しないよ、浮気なんか」

 類が、いるのに。こんなにも、類でいっぱいなのに。
 嬉しくて涙が出そうになるのを、何とか堪える。それでもやっぱり、涙目になるのは抑えられなくて。

「あんたにその気がなくても、寄ってくる男がいるからね。婚約指輪は、売約済みって印なんだって」

 そっと、慈しむように類はつくしを抱き寄せた。優しく髪を撫で、そこに唇を落とす。

「結婚、しよう?」

 そう、囁かれて。手のひらの指輪を、ぎゅ、と握り締めたまま、つくしはゆっくりと頷いたのだった。