花より男子/ユキワリソウ(2)


 窓辺に佇んで外を眺めていると、司がノックもせずに部屋に入って来た。滋を別の部屋に寝かせてくる、と類は待たされていたのだ。

「待たせたな」

「……いや」

 思っていたよりも、ずっと穏やかな表情をしている。一体、何を考えているのだろう。つくしのことを考えると、本当につくづく腹が立つ。

「おまえに、確認しときたいことがあって」

 室内にただ一つ置かれたベッドに腰を下ろして、司は口を開いた。

「まだ、牧野のことが好きか?」

 真っ直ぐに、司は類を見据える。その目に応えるように、類も司の目を見て言った。

「好きだよ」

 つくしを友達として見れたなら、どれだけよかっただろう。でも、そう見れなくて。
 胸に閉まっているつもりだった想いを、類は改めて口にした。ニューヨークで自分の気持ちに気づいた時からずっと変わらない慕情を。

「本気か?」

「うん」

 だからこそ、こんなにも司に腹が立っているのだと思う。いつまで経ってもつくしを傷つけることしかできない司に。

「……それを聞いて、安心した」

 両手を組んで顎の下に置き、深い息と共に司は思いを言葉にする。本当なら誰にも頼みたくない願いを。

「牧野を、幸せにしてやってくれ」

 不本意で言っているのが、痛いほど伝わった。司も、きっとまだつくしを愛しているのだ。
 でも、そうすることができなくて。それで、司も苦しんでいたということが分かる。怒鳴りたいのに、そうできなくなる。

「どうして?」

 拳を握り締め、類は問う。そんな一方的に言われても、納得できない。

 ふー、と全身から息を吐き出して、司は自分の中で葛藤していたことを口にした。

「親父が、倒れて。俺は本当に、道明寺家を背負う人間になった。ニューヨークに4年滞在して、世界の道明寺司になって戻ってくる。そう牧野に約束したが、あっちで生活していく内に、政略結婚の本当の意味がわかったんだ。俺個人の問題なら、絶対に牧野を手放したりしねぇ。でも道明寺財閥のことを考えたら、そう簡単にも行かなかった」

 それは今までも、十分にわかっていたことではないのか。それをわかった上で、つくしと交際していたのではなかったのだろうか。

 類は黙って、司の口から紡がれる言葉を聞いていた。

「人生の岐路に立って、俺は改めて自分のことだけを考えていられる人間じゃねぇってことを思い知らされた。財閥のことを考えたら、間違いなく嫁は滋……いや、滋じゃなくても、同じ財界の女なら誰だってよかったんだ」

 はー、と息を吐き出して、司は続ける。

「それでも俺は、牧野が好きで。牧野以外の女と結婚する気なんて、更々なかった」

 語尾が、震えているのが分かった。

 一個人として生きられないのが、財閥の後継者として産まれた司の宿命である。司の下に、何千、何万という人間の生命があるのだ。軽率な行動は、許されない。

「そんなとき、滋が……一度だけでいいから抱いてくれって言ってきたんだ。それで子供ができたら、牧野を諦めて自分と一緒になってくれって。でもできなかったら、そのときは本当に、家を棄ててでも牧野と一緒になれって」

 苦虫を噛み潰したような表情で、司は類を見つめる。

「俺は、道明寺財閥の命運を賭けて滋と一夜を共にした」

 その一度で、滋は妊娠してしまった。道明寺財閥の行く末を心配した神が、授けたのかもしれない。
 司の一存で、何万という人間を路頭に迷わせてはならない。神が、そう判断したのかもしれない。
 司にとって、道明寺財閥にとって、それが一番いい解決策なのだと。

「俺が、幸せにしてやりたかった」

 組んだ手を離し、司は自分の手を見つめた。

「俺が、この手で……ッ」

 両手で、司は顔を覆う。司なりに、悩んで苦しんだ結果なのだ。

 責められない。こんな司を見てしまったら。
 こんなに小さく見える司は、今まで見たことがなかった。いつだって毅然としていて、前しか見ていないような男だったのに。

「類以外には、頼めない……。頼みたくないんだ、牧野のことは」

 本当に、大切な女だから。絶対に手放さないと誓った、初めて本気で惚れた女だから。一番信頼している類以外に、つくしを託したくない。
 司以上につくしを愛しているのは、類以外にはいないのだから。

「牧野は……まだ、司のことが好きなんだよ」

 それまでずっと押し黙っていた類が、漸く口を開いた。

「でも、今までも。これからもずっと、牧野を支えていきたいって気持ちは変わらない。司に頼まれるまでもないよ。俺は、牧野の側にいる」

 たとえ、つくしが誰を好きでも、側でつくしの笑顔を見ていたい。司という障害がなくなった今、誰よりも側にいられるのだから。

◇ ◇ ◇


「牧野、これ食えよ」

「これも美味いぜ」

 総二郎とあきらは、代わる代わるつくしの取り皿に食事を乗せてくれる。いつも以上に高いテンションで。

「こんなに食べられないってば」

 二人を見ていたら、自然と笑みが溢れる。
 落ち込んでばかりもいられないな、と思う。支えてくれる人がいるから。励ましてくれる人が、いてくれるから。

「ごめんね、落ち込んでばかりで。もっと、しっかりしなきゃね」

 顔を上げて、つくしは総二郎とあきらに笑顔を見せる。もう、どうすることもできないのだから。
 司と滋が結婚したのは事実。今更、打ち消しようがない。
 これからは、司を忘れて前を向いて歩いて行かなければならないのだから。

「司はもちろんだけど、俺たちは、お前のことも大事な親友だと思ってっから」

 総二郎が、つくしの頭に大きな手を乗せる。

「そうそう。親友が落ち込んでたら、励ましてやるのは当然だろ?」

 同じように口元に笑みを浮かべて、あきらもそう言う。本当に、この二人には助けられている。
 いや、二人だけではなくて。

「お待たせ」

 いつの間にか側に来ていた類が、つくしの頭の上に置かれた総二郎の手を退ける。

「……抜け目のねぇ奴」

 ぼそ、と総二郎が呟いた。つくしに触れているのが気に入らなかった故の行動だと、すぐにわかる。

「司の話は終わったのか?」

「うん」

 表情を変えずに、類は頷く。あきらと総二郎以上につくしを支えてくれたのはこの人なのだ、と改めてそう思った。

「ありがとう、みんな」

 本当に、F3にはどれだけしても足りないくらい、感謝している。類だけではなくて、総二郎とあきらの存在も、つくしの冷え切った心を温めてくれた。

「俺たち、先に帰るから」

 つくしの手を握り、類が総二郎とあきらを向いて言う。え、と思ったが、つくしは何も言わなかった。

「ああ」

「気をつけてな」

 笑んで、二人は類に声をかける。類がつくしの手を引き、総二郎とあきらに背を向けた瞬間、総二郎が声を上げた。

「類」

 振り向いて、類は訝しげな表情をする。

「頑張れよ、いろいろ」

「何それ?」

 総二郎の言葉に、ふ、と口元に笑みを溢して、類は再度背を向ける。そうして背を向けたまま、二人に対してVサインを送った。
 今のは、多分つくしに対してのことだろうと思う。何かと、勘の鋭い男だから。
 きっと、類が司に呼び出された理由も何となく気づいていたのかもしれない。

「いいの、先に帰っても?」

「うん」

 不安そうに、つくしが類を見上げる。その不安を掻き消すために、素早く類は答えた。繋いだ手に力を入れると、つられるようにつくしも握り返してくる。

「明日、どっか行かない?」

「え?」

 不意な類からの誘いに、つくしは目を丸くする。

「バイト?」

「う、うん」

「何時まで?」

「8時、だけど」

「じゃあ、その頃迎えに行くよ」

「うん……。わかった」

 類の優しさが、身に沁みる。温かくて、傷ついた心が癒される。
 類に恋をしていた時は、こんなに穏やかな時間を過ごすことはなかったのに。
 また、つくしは類に恋をしてしまうのだろうか。もう一度、初めから。恋をするところから、始まってしまうのだろうか。

 ふと類を見上げれば、微笑んで額にキスが降ってくる。以前は、あんなに動揺していたのに。今では、それを自然に受け入れられる自分がいた。

 空気のように当たり前に側にいてくれる、類のおかげで。