花より男子/ユキワリソウ(19)
「つーか、部屋に入る前は、ノックするのが礼儀だろうが」
怒りを露にした司は、類を睨んでそう言った。
「自分の部屋にわざわざノックして入る人間がいたら、見てみたいよ。それ以前に、司はそういう礼儀さえ、学んでないだろ?」
顔を背けるようにそっぽを向いて、類は答える。
「そもそも、人の部屋で何やってんだよ、お前は」
「ホント、常識からかけ離れてるよな」
呆れたように、総二郎とあきらは司を見やる。うるせぇ、と言葉を吐き捨てて、司は立ち上がった。
「そもそも、お前らがいねぇのが悪いんだろ? 俺さまがわざわざ日本まで出向いてやったっていうのに。揃いも揃って、どこに行ってやがったんだ?」
声を荒げて、司は三人を睨む。その司の後ろで、滋は小さくなっていた。
花沢邸に着いたつくしたちは、その足で類の部屋へ向かった。
そうしてドアを開けて目に入ったのは、裸で抱き合う、司と滋だったのである。
「牧野を奪還しに行ってたんだよ」
「奪還? 掴まってたのか、牧野?」
振り向いた司に、はは、とつくしは引きつった笑みを浮かべる。
「ま、その件については、一応無事に解決したわけだし。ようやく、落ち着いたよ」
総二郎が、つくしに向かって微笑むと、その反動で、つくしは少しだけ頬を赤らめた。そんなつくしの手を握り、滋が真剣な表情でつくしを見つめる。
「ごめん、つくし。つくしがそんな大変な目に遭ってる時に、あたし、何にもできなくて……」
「ううん、そんなことない」
滋の言葉に首を振って、つくしは手を握り返した。
「あたしの方こそ。滋さんが大変なときに、何もしてあげられなかったから。身体は、もう大丈夫なの?」
滋の腹部に視線を落として、つくしが不安げな表情を見せた。うん、と大きく頷いて、滋は目尻に涙を浮かべる。
「司が、そばにいてくれたから……。だから、大丈夫」
「……滋さん」
幸せなんだな、と感じてしまった。司が、いることが。司といられることが、何よりも幸せなんだ、と。
「おめでとう、滋さん」
初めて。ちゃんと、面を向かって言えた。
招待状をもらったときには、言えなかったけれど。今は、心からそう思える。祝福して、あげられる。
「つくし、ありがとう」
嬉しそうに、滋も微笑んだ。そうしてまっすぐにつくしを見て、あれ、と首筋に視線を落とす。
「これって、キスマーク?」
滋の言葉に、つくしは血の気が引くのがわかった。
そうして、ラウルとの取っ組み合いを思い出す。あのとき、一瞬首筋に電流が走った気がしたのは、これだったのだ。
「やだ。つくしってば、類くんとラブラブなのね。なのに、あたしったら……。妙なヤキモチ妬いちゃって、馬鹿なことして。本当、みっともないな」
はは、と滋は微笑うが。つくしには、とても微笑えなくて。視線を、動かすこともできない。
「それ、俺じゃないよ」
「え? だって……」
滋は、類とつくしの顔を代わる代わる見て。それから、初めて、自分が地雷を踏んでしまったことに気づいたのである。
「じゃ。俺ら、帰るわ」
蒼くなった滋の手を取って、司は、じゃあな、と言葉を残して類の部屋をあとにした。
「あ、えーと……」
「俺らも、帰る、かな」
あきらと総二郎も顔を見合わせて、そそくさと出て行ってしまった。
「ち、ちょっと待ってーっ!!」
つくしの声も虚しく、類の部屋には、すこぶる機嫌の悪い類と、つくしが残されたのであった。
「キス以上のことはしてないって言ったクセに」
「……」
すっかり拗ねてしまった類の隣で、つくしは小さくなっていた。何を言っても、言い訳にしかならない気がして。
「あんたは、どこまで俺に嘘を吐くの?」
「う、嘘なんて……」
「吐いてるじゃん。総二郎のことにしたって、何もないって言ってたクセに。告白されて、キスまでしたんでしょ?」
「あ、あれは、キスとは……」
言わないよ、と言おうとしたが、やめた。これ以上、類の神経を逆撫でするようなことは、言わない方がいい。そう、判断して。
「ねぇ、牧野?」
寄り添うように、そっと類はつくしの手を取る。
「俺の婚約者になるって決めたのは……、あれは、嘘じゃないよね?」
「花沢類……」
類を、どれほど傷つけていたのか。艱苦に耐えていた、と言わんばかりの類の表情に、ずき、とつくしの心が痛む。
安心させるように、つくしはそっと類に顔を近づけ、唇を触れさせた。
「心配ばっかかけて、ホントにごめん。でも、花沢類の未来にあたしがいたいって思った気持ちは本当。これから先も、ずっと花沢類といたいって、そう思った気持ちは、嘘じゃないから」
言って、つくしはもう一度類に口付ける。目を見開いていた類は、やがてその目を細めて、悪戯に微笑んだ。
「……今日は、キスだけじゃ足りない、な」
「え?」
言葉の意味を理解して、つくしの顔はみるみる真っ赤に染まる。
そんなつくしを尻目に、類は自分ではない人間がつけたつくしのキスマークに、そっと触れた。
「こんなもの、付けて帰ってくるなんて。ホント最悪」
「……ごめんなさい」
しゅん、と落ち込んでしまったつくしの唇に、類は啄むように口付け、しばらくそうしたあと、それは深いものに変わった。
舌を絡めて、口内の水分をすべて吸い取るように、深く。類は、つくしを掻き回す。
「……ん」
思わず漏れてしまったつくしの声に、類は理性を弾き飛ばされた。
「今日は、だめって言わないで。言っても、今日はやめない」
「……類」
名前を呼んで、潤んだ瞳で類を見つめる。くす、と微笑んで、類はつくしの首筋に顔を埋めた。
「嬉しい」
類が洩らした言葉に、つくしが反応する。
「え? ――…っ」
ラウルのそれとは反対側の首筋に、類はつくしの肌にキスマークをつけた。そうしてもう一度、つくしの唇に触れる。
「もっと、名前呼んで?」
「名前って、……類?」
「うん。そう」
嬉しそうに、類はつくしを抱き締める。
「自分の名前なのに、何でだろ。あんたに呼ばれると、特別な気がする。花沢類って呼ばれるより、ずっと牧野を近くに感じる」
ぐ、と類の腕に力が入った。
――嬉しい。
何に対して嬉しかったのか。今なら、わかる。つくしが、花沢類ではなく、類と呼んだから。そんな些細なことでさえ、今は嬉しくて。
もっと、名前を呼んで欲しい、と。こんなにささやかな願いすら、つくしは叶えてあげていなかったのだ。そのことが、今更ながら非常に申し訳なく思えてきた。
「今日だけは、嫌がらないで。黙って、俺を受け入れて」
「嫌がる、って……」
類に触れられて、嫌がることなんか、ない。ただ、気持ちがついていけないだけで。
つくしに触れる類の手が、加速する。不安で、仕方がなくて。ずっと、触れたくて。我慢していた思いが弾けたように、止まらない。
抱き締められる度、キスをする度、少しずつ類に心を奪われていって。もう、離れられなくなってしまって。こんなに幸せでいいのかな、と思う自分がいて。愛されるのが、怖い、なんて。
幸せすぎるから、そう思うのかもしれない。愛されすぎて、この愛がなくなってしまうことを、怖れてしまって。
でも、もう戻れない。この愛がない世界には、戻りたくない。
「類――…」
手と手が重なって、深く、身体の奥まで繋ぎ合う。互いにとっての、一部のように。
◇ ◇ ◇
「牧野、無事に取り返したよ」
総二郎の言葉に、優紀は口元を綻ばせた。
「よかった。これで、花沢さんも安心ですね」
「ま、一応ね。牧野のことだから、またすぐにトラブルを運んでくるだろうけど」
ふふ、と微笑する優紀を、総二郎は穏やかな表情で見つめていた。
優紀といると、安心できる。砂漠の中に佇むオアシスみたいに、総二郎の傷ついた心を癒してくれる。
優紀の存在が、何よりもありがたい、と総二郎は感じていた。
「優紀ちゃん。俺、さ……」
「西門さん」
言葉を遮って、優紀はまっすぐに総二郎を見据えた。
「あたしね、西門さんには、いつも前を向いていてほしい。諦めないで、ちゃんと現実を見据えて向き合ってほしいの。あたしは、そういうあなたを好きになったから」
「……優紀ちゃん?」
「この間言ってくれたこと。あたし、本当に嬉しかった。だから、それだけで……、あたしは満足です。無理に、あたしを選んでくれなくてもいいんですよ」
下がり眉を、尚更下げて。涙を堪えているのが、痛いほど伝わってくる。
「優紀、ちゃん……」
次に出てくるであろう優紀の言葉が、総二郎にも予想できてしまった。
「今まで、ありがとうございました。……さようなら」
その言葉を言ってしまえば、すべてが終わる。そう、わかっていたのに。
本心を押し殺してまで、一緒にいて欲しくなかった。
――西門さんは、あたしにとってのファンタジスタなの。
いつか、つくしに言った台詞を優紀は思い出した。夢を、見せてくれる人。
総二郎は、優紀にとってそう呼ぶに相応しい男性だった。
愛しているから、そばにいてほしくて。
愛しているから、そばにはいられなくて。
一緒にいれば、心が温まって。幸せを、感じられた。でもそれも、もう終わる。
優紀が手を離した瞬間に、すべてが終わってしまうのだ。総二郎は、決して去る者を追う人ではないから。
寂しげな優紀の後ろ姿を、総二郎は呆然と見送っていた。
◇ ◇ ◇
『ラウル、そろそろ行かないと』
腕時計で時刻を確認しながら、莉亜はラウルを向いた。頷いて、ラウルは莉亜のあとについて行く。
「ラウルっ、莉亜さんっ!!」
声が響いて、ラウルは思わず振り向いた。駆け寄ってくるのは、つくしと類だ。何故か、口元に笑みが溢れた。
「よかった、間に合って」
はぁ、と息を吐いて、つくしはラウルを見つめた。
「わざわざ、見送りに……?」
目を丸くして、莉亜が問う。面倒そうに頷いて、類が口を開いた。
「変な奴でしょ。自分を嵌めた奴の見送りなんて」
「莉亜さんは関係ないじゃんっ。悪いのは、ラウルでしょ!?」
つくしが、きっ、と睨んでそう言えば、はいはい、と類は肩を竦めた。
「元気でね、莉亜さん」
「……つくしさんも。花沢さんと、仲よくね」
握手を交わし、微笑み合う。それからつくしは、ラウルを向いた。
「莉亜さんのこと、忘れられるの?」
「まさか」
ふ、と微笑って、ラウルは莉亜の肩を抱いた。
「願えば、いつカ想いが届くってこと、ルイが教えてくれたカラ。諦めないことにシタ」
「へ?」
そう言うラウルの表情は、憑き物が取れたかのようにすっきりとしていて。
莉亜への想いを断ち切るのではなく、貫くことを決意したのだ、と言われなくても感じた。
『牧野は、運命の女だからね、俺の』
ぐっとつくしを引き寄せて、類はラウルの前で拳を作った。それに、ラウルも同じように拳を合わせる。
『それなら、リアは俺にとっての運命の女だ。兄貴がいたって、関係ない。俺が、リアを愛しているんだから』
ラウルの言葉に、莉亜はみるみる顔を赤く染め上げる。
つくしは、ぽかん、として二人を見上げていた。
「ツクシ」
名前を呼ばれると同時に、つくしはラウルに引っ張られ、類の腕の中から離れてしまった。そうして、額にラウルの唇が触れる。
「ちょっと」
じろ、と類が睨んでつくしを自分に引き寄せると、今度は類がラウルに引っ張られて。
「!?」
今ほど、間抜けな表情をした類を見たことは、なかったかもしれない。
「じゃぁな、ツクシ」
呆けた類とつくしを尻目に、ラウルは莉亜の肩を抱いて搭乗口に姿を消したのだった。
「……る、るい?」
恐る恐る、つくしは声をかける。すると、がし、と肩を掴まれて。
「牧野」
「は、はい……?」
思わず、畏まって返事をしてしまった。
「消毒、させて」
「ち、ちょっと、花沢類――!?」
類に唇を寄せられて、つくしは暴れ出す。こんな人前で、キスなんかできるはずがない。
だがそんなつくしの羞恥心よりも、類にとっては男にキスされたことの方がショックで。
暴れるつくしを押さえつけ、類は自分の唇を消毒すべく、口付けた。