花より男子/ユキワリソウ(18)


「つまり、騙されてたってこと、あたし?」

 つくしの言葉に、類は黙って頷く。

「だいたい、単純すぎんだよ、おまえは。深夜3時に、こんなところにのこのこ一人で出向くなんて」

 総二郎が、冷たく言い放つ。

「だ、だって、約束してた……気がしたんだもん」

 気がした、というのは、今知らされた事実である。今の今まで、約束していた、と思っていたのだから。

「にしたって、来ねぇよ、普通は」

 面白くなさそうに、あきらもそう言う。う、と言葉を詰まらせて、つくしは身を縮めた。
 そんなつくしを見て、ふぅ、と微笑んでから、類はつくしの頭に手を乗せる。

「無事でよかったよ」

「……花沢類」

 いつもと変わりない、類の笑顔。

 ――俺、やっぱり静を忘れられない。

 あの、言葉は……? 不安と疑問が、つくしの頭を駆け巡る。

「どうした?」

 ビー玉の瞳に映ったつくしは、不安そうな表情をしていた。

「だって、その……。静さんの、こと……」

 俯いて言ったつくしに、類は大きくため息を吐いた。

「静が、何?」

 珍しく冷たい視線を、類はつくしに向ける。

「忘れられないって、そう言ったのに……。どうして、あたしに優しくするの……?」

「じゃあ、冷たくすればいいの?」

 刺すような類の言葉が、つくしに降ってきた。自然と、目尻に涙が浮かんでくる。それを舐め取るように、類はそこへ唇を寄せた。

「俺が好きなのは、牧野だけだよ」

「え?」

「静のことは、大切な幼馴染み。それ以上の気持ちはないよ」

「だ、だって……」

「映画だヨ」

 つくしの言葉を遮るように、ラウルがそう言った。

「見せただロ、映画。あれのせいダ」

 面倒そうに、ラウルはつくしを見る。そのラウルの言葉に繋げるように、あきらが閃いたように口を開いた。

「その映画にも、サブリミナルが使われてたってわけか」

「That's right」

 人差し指を立てて、ラウルは口元に笑みを浮かべた。

『映画の中盤で、ルイから電話がかかってくる。その内容は、昔のオンナを忘れられない、というもの。ツクシって単純だから、あっさり引っかかってくれたよ。それにしても、F4って fool four の略かと思ってたけど。案外、冴えてるのもいたんだな』

 くっくっ、とラウルは微笑する。それからゆっくりと、莉亜に近づいた。

『タイムリミット。これ以上、ツクシを利用するのは無理みたいだ』

 両手を挙げて言った後、ラウルは切なげに目を細めた。

『ごめん、リア。俺……、リアを忘れられそうにない』

『……もしかして、つくしさんに会いたいから、通訳のために一緒に日本に来てくれって言ったのも』

『そ。ただ単に、リアと一緒にいたかったから。兄貴のそばから離して、リアと一緒に過ごしたかった』

 しゃべれるはずの日本語を、しゃべれない、と偽ってまで。そうまでして、莉亜と過ごしたかった。
 切ない目で言われたら、出かかっていた怒りを出せなくなってしまう。ここまでラウルを追いつめてしまったのは、自分なのだ、と。莉亜は、自己嫌悪に陥ってしまいそうになった。

『ラウル、あたし……!』

 正面からラウルを見つめて、莉亜は、あら、とふとラウルの口元に目をやった。

『ここ、どうしたの?』

 そっと、ラウルの唇に手を触れる。見れば、噛み切ったであろう傷跡が、そこに残っていた。
 ああ、と失笑して、ラウルは類に視線を移した。

『噛まれたんだよ。――ツクシに』

「噛まれた?」

 ラウルの言葉に、類とあきら、そして総二郎は目を見開いた。それからゆっくりと、つくしを見る。

「な、何……?」

 三人に見られて、つくしは少したじろいでしまった。

「あいつの唇、噛んだの?」

 自分の唇を指しながら、類はつくしに冷ややかな目を向ける。

「え? 噛ん……」

 言われて、はっとしてしまった。

「ち、違うのっ。い、いや、確かに噛んだのはあたしだけど、不可抗力っていうか、あたしの意思でそうなったわけじゃあ……!」

 ペラペラと言葉を繋げるつくしの唇を、類は自分のそれで塞いだ。驚いて目を丸くするつくしの耳元に唇を寄せて、消毒、と呟けば、それだけでつくしの頬は、りんごよりも赤く染まってしまうのだった。

◇ ◇ ◇


「つーか、何で誰もいねぇんだよ」

 ちっ、と舌打ちをして、司は類のベッドに腰を下ろした。隣に座るように、滋に手招きをする。

「ね、司……?」

 不安そうに口を開きながら、滋は司の隣に座った。

「わざと……、じゃ、ないよね……?」

「何が?」

 躊躇いながら、滋は言葉を発する。今、きっとこの世で一番醜いのは、自分かもしれない。言葉を吐き出しながら、滋はそう思ってしまった。

「あたしを、つくしに会わせたくなくて……。わざと、みんなに家にいないようにって仕向けたわけじゃ、ないよね?」

 滋の言葉に、明らかに司は不機嫌な顔付きになる。それがわかって、滋は思わず謝罪した。

「ごめん……。嫌なこと言ってるって、自分でもわかってる。でも、止まらないの。不安な気持ちが消えないの。我儘言って日本まで連れてきてもらったのに、本当にごめん」

 そっと滋の肩を、司は引き寄せた。こんなに優しくしてくれるのに。どうして、不安な気持ちは拭い去れないのだろう。



「一度でいいから、抱いてほしいの」

 あの日。滋は、自己満足のためだけに、司にそう言った。言えば、司が悩むことは目に見えていたのに。
それなのに、道明寺財閥とつくしとの間で苦しむ司を、見ていられなくて。解決の糸口になれば、と思って口にした言葉だった。

「滋、俺は……」

「わかってる」

 司の言葉を制して、滋は寂しそうな目で司を見つめた。

「司がつくしを想ってるってことは、百も承知よ。でも、それでも。あたしが司を想ってる気持ちは、隠しようがないもの」

「……滋」

 握った拳に、自ずと力が入るのがわかった。つくしを諦められたら、どんなに楽だろう、と。何度も、そう思った。一度は類に譲ってもらったつくしを、類に返すことができたのなら、と。

 司とつくしが付き合っているそばで、いつもつくしを支えてくれていた類。類のつくしを見つめる目は、明らかに他の誰とも違っていた。
 だからこそ手放してしまえば、もう戻ってはこない。そう、確信していた。類が、二度もつくしを手放すはずはない、と。

「だから、さ。一度でいいの。あたしとヤってみて……、それで、司の人生を決めればいいじゃない?」

「俺の、人生を……?」

 滋の言葉に、司は首を傾げる。

「そ。たった1回、それでもし子供ができたら、それって、あたしと司の相性、最高ってことじゃない? 司にとって、あたしは運命の女ってことになるでしょ? だから、そのときはあたしと結婚するの。でも、もしできなかったら、そのときは……」

 きゅ、と唇を噛み締めて、滋は、はぁ、と息を吐き出す。そうして、潤んだ瞳で司を見た。

「そのときは、道明寺財閥も何もかも捨てて。つくしと、二人だけで生きていけばいいじゃない」

「……」

「そんなに悩んでる司……、らしく、ないよ」

 涙が、滋の頬を伝った。司を、励ますために。落ち込んでいる司を、見ていたくなくて。滋にとっても、勇気のいった台詞であったろうと思う。

 これで、二度目だ。
 司は、肩を震わせて泣く滋を見て、いつかの滋の別荘での出来事を思い返していた。

◇ ◇ ◇


『私、知ってたの。ラウルの気持ち』

 ぽつり、と莉亜は口を開いた。

『知ってて……、知らないふりをしてた。自分のために』

 目を閉じれば、溜まりきれなくなった涙が、次から次へと溢れ出てきた。
 それはまるで、ラウルの莉亜への想いを受け止められない、と語っているようで。莉亜の言葉を半分も理解できないつくしが見ていても、誰かを想っての涙である、と。そう直感して、胸が痛くなった。

『自分の、じゃなくて、兄貴のためだろ?』

 指でそっと莉亜の涙を拭ってやりながら、ラウルが寂しげに呟く。

『それも……、少なからずあったかもしれない。でもやっぱり、何よりも自分のためよ。悩みたくなかったし、苦しみたくなかった』

「……」

 類は、黙って二人の会話を聴いていた。何となく、他人事のように思えなくて。

 莉亜をつくしに例えるのなら、ラウルの兄は司で、ラウルは類だ。ずっと、そばで二人を見ていて。諦めなければならないのに、それができなくて。
 類は、それでもいいから、とつくしのそばにいたけれど。ラウルは、それさえも我慢できなくて。つくしを利用して、莉亜を忘れようとした。そんなに簡単に、想いは変わらないのに。どうすればいいのか、わからなくて。

『あなたを追い込んでしまったのは……、やっぱり、私なのよね?』

『それは違う』

 確認するように言った莉亜の言葉を、ラウルはきっぱりと否定した。

『リアと兄貴のことは認めてる。それに波風を立てるつもりはなかった。だから、リアを忘れようと思ったんだ。義姉として、向き合えるように。でも、ただそばにいたんじゃ、そう簡単には割り切れなくて』

 ふぅ、と息を吐いて、ラウルはつくしを見やった。

『そんなとき、ちょうど……、花沢物産の一人息子が婚約したという記事を見た。相手は、道明寺財閥の後継者の元婚約者』

 そっと守るように、類がつくしの手を握る。不思議そうに類を見上げるも、つくしは何も言わなかった。

『御曹司を渡り歩いてる女って、正直興味が湧いた。それから、ツクシのことを調べて。F4のことや代議士の息子のことも、それから知った』

 本当に、勝手に。それほど上位にいる男たちが惚れる女なら、莉亜のことを忘れさせてくれるかもしれない、と。そう思い込んで、今回のことを計画したのだ、とラウルは語った。



 類は、ベランダから夜空を仰いでいた。振り返れば、つくしは莉亜と笑顔で談笑している。ようやく、落ち着いた。思うと、自然に安堵の息が漏れた。

『随分と以前から、ツクシを愛していたみたいだな?』

 類に近づいて、ラウルはそう問うた。

『親友の彼女なのに、諦めようとは思わなかったのか?』

『思ったさ』

 ふ、と笑って、類は答える。

『でも、そんなに簡単に諦められるくらいなら、最初から惚れてなんかないよ』

『違いねぇ、な』

 類の言葉に、ラウルも口元を緩ませた。

『リアを、愛しているんだ』

「……」

 まるでひとりごとのように、ラウルは口を開く。切ない莉亜への想いが、夜風の乗って類に伝わってくる。
 狂おしいほどに、莉亜を愛して。離れていくのがわかっているからこそ、離したくなくて。そばに、いてほしくて。

『俺は、あいつの笑顔を守りたかったんだ』

『え?』

 ふいに口を開いた類に、ラウルは耳を傾けた。

『牧野の笑顔を守りたくて、側にいた。たとえ報われない恋だとわかっていても、離れたくなくて。あいつの笑顔が見られるなら、恋人としてじゃなくてもいいからそばにいたかった』

『ルイ……』

『自己満足の結果、だよ。その結果に、牧野がついて来てくれたんだ。司にふられて落ち込んでる牧野の傷心につけ込んで、ね』

 口元の端をわずかに吊り上げて、類はそう語った。
 半ば自虐的にそ言う類は、もしかすると。ずっと、不安だったのかもしれない、とラウルは思ってしまった。ただの勢いで、つくしが婚約したのではないか、と。放っておけば、簡単につくしはいなくなってしまうのではないか。そういう不安が、見え隠れしている。

『ツクシは、単純だけど。簡単に流される女じゃない気がする。そんなこと、ルイが一番知ってると思ってたけどな?』

「……」

 そうだ。それは、よくわかっているつもり、だった。それを、何故この男に言われて、今更のように気づかされてしまったのだろう。

『女に溺れて、理解力が鈍くなった? 今のあんたが花沢を継いだら、あっという間に吸収できるだろうな』

 くっくっ、と嘲笑するようなラウルに、類はイラっとするが。
 つくしと関わると、自分でもわかるほどおかしくなる。つくしの一顰一笑に左右されて、同じように自然とそうなって。

 本当に、自分でも笑えてくる。つくしと出会うまで、他人のことはどうでもいい、と他人に関わらないようにしてきたのに。

 つくしと出会ってから、類は変わった。そう、よく総二郎やあきらに言われていた。
 それは、自分でも何となく気づいていた面であった。つくしが笑っていると、嬉しくて。自ずと、類にも笑みが漏れるようになって。
 一緒にいるのが、楽しくて。その笑顔を見たいがために、そばにいた。ただ漠然と、笑っている表情を見たい、と思っていただけだったのに。好きだと自覚したら、ますますその想いがはっきりしてきて。

 自分にも、こんなに人間らしい一面があったんだ、と関心するほどだった。

『ルイが……、ルイたちがツクシに惚れる気持ちが、少しだけわかったよ』

『やめてよ。これ以上、ライバルは増やしたくない』

『俺は、リア一筋だ。そうじゃなくて、何となく。ツクシは、目には見えない光を持ってる気がしたんだ』

『……光?』

 ラウルの言葉に、類は首を傾げる。

『そ。どんな暗闇にいても、必ず照らして道を教えてくれる。そういう、光。今の俺に、最も必要なものだった』

『そういう、ことね』

 それなら、類にも納得できる。暗闇だった類の心に光を射してくれたのは、紛れもなくつくしだから。
 類だけではなく、きっと司の心にも。そうして、ラウルにも同じように、光の手を差し伸べてくれたのだろう。

『だから、感謝してる。経路はどうあれ、ツクシは俺の道を照らしてくれたから』

 そう言って、ラウルは類に握手を求めるように手を出した。その手を、迷うことなく握り締める。

『明日、ニューヨークへ戻るよ。それから……、俺が言えた義理じゃないけど。ツクシを、幸せにしてやって』

『本当、大きなお世話だよ。言われなくても、そのつもりだし』

 ぷ、とどちらからともなく吹き出して、二人は笑ってしまった。
 同志――。そう呼ぶに相応しい人物かもしれない、と互いに思いながら。

◇ ◇ ◇


「思い込み?」

「そ」

 運転中の類の顔を覗き込みながら、つくしは訝しげな表情をする。

「花沢類に、静さんを忘れられないって言われたって思い込んでたってこと!?」

 つくしは自分自身に言い聞かせるように、問うた。

「そういうこと」

「った」

 中指で額を弾かれて、つくしは総二郎を睨む。

「そんな簡単に……、思い込めるものなの?」

 驚愕の事実に、つくしは息を呑む。

「それが、サブリミナルの怖ろしいところだよ」

 呆れたような表情で、類はつくしを見つめた。

「記憶に植えつける、っていうのかな。ある出来事が、まるでさもそうであったかのような事象だと錯覚させるんだ」

 人差し指で、とんとん、と頭を突きながら、あきらはそう説明する。

「牧野の場合、それを更にラウルによって確信づけられたから、尚のこと、信じ込んじまったってとこだろうな」

「……」

 ぶる、とつくしは身震いしてしまう。
 だからといって、そういとも簡単に人の記憶を操作することができるなんて。一歩間違えれば、犯罪の域に達する行為である。

「例の記事……、ほら、牧野とラウルが密会してたってヤツ。あれも、ラウルが書かせたものらしいじゃん? アーレント社がバックについてたら、そりゃ道明寺だって怖かねぇわな」

 はは、と乾いた笑みを洩らしながら、総二郎は言った。
 つくしは、その記事の存在さえ、知らなかったのだ。すべてが、ラウルによって仕組まれたものだった。それが、堪らなく悔しくて。つくしは、きゅ、と唇を噛み締めた。

「ところで、さ」

 ちら、と類はつくしの顔色を伺うように覗き込む。

「な、何……?」

 いつも、見つめられていたはずなのに。何日か会わなかっただけで、こんなにも久しぶりに感じるなんて。
 薄茶のビー玉の瞳に、胸が躍る。

「ラウルとは、キスだけ?」

「……は?」

「だから。それ以上のことは、してない?」

「す、するわけないでしょ!?」

 顔を真っ赤に染め上げて言うつくしに、ひとまず類は、ほっと胸を撫で下ろす。だがまたすぐに目を細めて、つくしを少し睨んだ。

「本当、油断も隙もって感じだよね。アンタが俺を心配させるのは、天才的かもしれない」

「……どーゆー意味よ」

 むっ、として、つくしも負けじと類を睨む。

「総二郎のことにしたって、牧野は全然教えてくれなかったでしょ。俺が、どんな気持ちでいたかなんて、知りもしないで」

 拗ねたように唇を尖らせて、類はそう言った。

「だ、だって……。西門さんのことは、あたしだってどうしていいかわからなかったんだもん。あんな……、少しでも動けば唇が触れ合える距離にいて、それであんなに切なそうな表情されたら、誰だって――…」

「ちょーっとストップ」

 総二郎が、慌ててつくしの言葉を遮る。そうしてつくしにだけ一笑して見せた。

「つくしちゃん? 何でもかんでも包み隠さずしゃべるのは、時として罪になる。しっかり、頭に刻んどけよ?」

「……は?」

 言われた言葉を理解して、はっとしてしまった。

「少しでも動けば、唇が触れ合える距離……ね」

 冷ややかな類の瞳に、つくしは今ほど、自分の口を呪ったことはなかった。