花より男子/ユキワリソウ(17)


「わかったぜ、類」

 ばたん、とけたたましい音をさせながら、総二郎とあきらが類の部屋に姿を現した。

「類、起きろよ。わかったんだよ、鏡のこと」

 総二郎の言葉に一瞬だけ目を開けるが、どうにも瞼が重くて、またすぐに閉じてしまった。

「おい、る……」

「聞いてる。そのまま続けて」

 目は瞑ったまま、眉間に皺を寄せて類の口が開いた。はぁ、とため息を吐いて、総二郎は話し出す。

「この鏡、スイッチを入れると、深夜3時、都内アリランホテルっていう文字が、5秒毎に0.03秒だけ表示されるようになってる」

「……」

 総二郎の言葉に、今まで眠っていた類の頭が一瞬にして覚める。
 がばっと起き上がり、総二郎に目をやった。

「それって」

「いわゆる、サブリミナルって奴だな」

 類の脳裏に浮かんだ言葉を、あきらが続ける。

「牧野はこの文字を見て、深夜3時にアリランに行かなければならないと思い込み、時間通りに出向いた。それを運よく……つーか、狙ってだと思うけど、フォーカスされたってとこだろうな」

 頭を掻きながら、総二郎が自分の推理した答えを述べた。
 だがそれは、総二郎だけが辿り着いた答えではなく、あきらと、そして聞いたばかりの類でさえも浮かんだ答えなのだ。

「じゃ、牧野が俺にふられたって思い込んでるのも」

「十中八九、植えつけられたんだろ、アーレント氏の息子に」

 ようやく、合点がいった。辻褄の合わなかった、優紀の話にも。

 理由は不明だが、とにかくつくしは、自分の足でアリランホテルに出向き、アーレント氏の息子、ラウルと会った。そうして今も、ラウルと一緒にいるのだろう。類にふられたと思い込みながら。

 そのとき、類の携帯が鳴った。ディスプレイに表示されているのは、司の名前だ。

「もしもし、司?」

『おお、類か?』

「うん。どうかした?」

『いや……。一応、報告しとこうと思って。滋、目を覚ました』

「本当?」

 司の言葉に、一先ず類はほっとした。

『ああ、ついさっき。で、俺は当分、日本には行けそうにねぇから。こっちで何かできることがあれば、連絡してくれ』

「了解」

 つくしのことはもちろんだが、滋のことも気がかりではあった。未遂で済んで、無事に目を覚ましてくれて、本当によかった、と安堵する。

『……類』

 少しだけ声のトーンを落として、司が類の名前を呼ぶ。何、と類は、司の言葉を待った。

『牧野は……、俺の中で、やっぱり最高の女だ。牧野以上の女は、きっとこれから先も現れないと思う』

「……」

 類は、司の言葉を黙って聞いていた。

『でも俺が、今一番幸せにしてやりたいと思うのは、滋なんだ。……これは、同情だと思うか?』

「……わからない。けど、同情から始まる恋愛も、あると思うよ」

『そっか』

 安心したように呟いて、司は電話を切った。
 わからない、とは言ったけれど。間違いなく、司のそれは同情だと思う。今この状況でそう思えるのは、司のせいで滋が自殺を図ったという罪悪感からではないだろうか。

「司、何て?」

 電話を切ったのを見計らって、総二郎が類に尋ねる。

「大河原、目を覚ましたって」

「そうか……!」

 類の言葉に、あきらと総二郎に笑みが溢れた。これでようやく、司も落ち着けるかもしれない。

「んじゃ、滋のことはもう心配いらないとして、あとは牧野だな。早速、アリランに向かうか?」

 総二郎がそう言った瞬間、ドアがノックされた。

「類さま。お客様がお見えです」

 ドアの向こうから、使用人の声がする。

「客?」

 類に客なんて、一体誰だろう。思いながら、類はドアを開けた。

「玄関でお待ち頂いておりますが。お通ししてもよろしいですか?」

「いや、行くからいいよ」

 どうせ、今から出かけようと思っていたのだから。類の後に、総二郎とあきらも続いて部屋を出た。

◇ ◇ ◇


「……わかんねぇナ」

 ぼーっとテレビを見ていたつくしに目をやりながら、ラウルは呟いた。何がよ、と面倒そうに、つくしはラウルに視線を移す。

「アンタの魅力。どこがいいのか、全然理解できナイ」

「じゃあ、さっさとあたしを解放してよ」

「期限まで、まだあるからな」

 言って、ラウルは立ち上がり、つくしの座るソファに近寄る。そうして後ろから、つくしを抱き締めた。

「ち、ちょっと……」

「やっぱり、夜伽の相手が巧いんじゃナイの?」

「な……!?」

 ラウルの言葉に、つくしの顔が一瞬にして赤く染まる。ラウルの腕から逃れようと暴れるつくしを押さえつけ、ラウルは無理矢理、その唇を奪った。
 つくしは驚きのあまり、目を見開いて。思わず、ラウルの唇を噛んでしまった。

「……っ」

 つくしに噛まれた瞬間、痛みで慌ててラウルはつくしから離れた。肩で呼吸をするように息を乱して、挑むような面持ちで、つくしはラウルを睨む。

「……上等」

 ふ、と口元に薄ら笑いを浮かべ、手の甲で、そっと唇を拭う。そこには、わずかに鮮血がついた。それを見て、更に妖しくラウルは苦笑する。

「アンタのその目、すげーそそル」

 噛まれた箇所を舌で舐め、ラウルはつくしの上に覆い被さった。

「その目が苦痛に歪むところを、見てみタイ」

「ふ、ざけんな……っ」

 ぎり、と歯を軋ませて、つくしはラウルを睨みつける。
 だがそんなつくしのささやかな抵抗などものともせずに、ラウルはつくしの首筋に顔を埋めた。ぴり、とわずかに電気が走ったような痛みがつくしを襲う。

 必死に暴れるつくしの両手を片手で縛り、両足の上に跨って、ラウルはつくしの暴れる隙をなくしていく。そうしてゆっくりと、つくしのブラウスのボタンに手をかけた。

「や、やめてよっ。ふざけないで!!」

「ふざけてなんか、ナイ」

「……!?」

 一瞬だけ見せた、ラウルの寂しげな表情。つくしは、思わず抵抗するのを忘れてしまった。

「There is no time……」

「……え?」

 消え入りそうな声で、ラウルはそう呟いた。言葉の意味を考えるより先に、ただ、いつもと違う様子のラウルが気になって。この状況だというのに、何故か抵抗することができなくて。

 いつも、つくしの前では毅然としていて、その姿勢を崩さなかったラウルが。今は、とても弱々しくて。自分でも馬鹿だと思うけれど、放っておけない衝動に駆られてしまう。一体、どれだけお人好しなんだ、と自分で自分が嫌になる。

「あなたは、あたしを……誰と重ねようとしているの?」

 理屈なんか、ない。ただ、そう思ってしまった。ラウルの寂しげな表情が、誰かを想ってのことだと。そう、直感してしまったのだ。

◇ ◇ ◇


 玄関で類を待っていたのは、見知らぬ女性だった。高い位置で団子を結い、すらっとした体系のキャリアウーマンのような女性。

「初めまして。高科莉亜たかしなりあと申します」

「……どうも」

 類に対して会釈する、その莉亜という女性に、類は素っ気ない態度で答える。

「もう少し、愛想よくしろよ」

「類は、社交性の勉強をした方がいいかもな」

 笑いながら、あきらと総二郎がそう言った。
 正直、つくし以外の人間のことはどうでもいい、と思う自分がいる。昔は、他人のことなど気にもならなかった、あの類が。
 今では、つくしだけではあるが、心を開いて、安らげる場所を見つけたのだ。

 それも、あくまでつくしの前でだけのこと。相変わらず、他の人間に対しては冷たい態度しか取れない。

「突然の来訪を、お許し下さい。どうしても、花沢類さんにお伝えしたいことがあって」

「いいけど。俺、今から出かけるから。手短に」

「……アリランホテル、ですか?」

 莉亜の言葉に、三人は目を見開いた。

「ルームナンバー1495。そこに、つくしさんはいます」

 まっすぐに類を見据えて、莉亜はそう言った。ただただ、目を丸くしたまま、三人は莉亜を見ている。この女性は、一体。

「正直……、ラウルがこんなことをするとは思っていなくて。つくしさんにも花沢さんにも、多大なご迷惑をおかけしてしまったこと、ラウルに代わって謝ります。本当に、すみませんでした」

 深々と、莉亜は類に向かって頭を下げる。

「……どうして、あんたが謝るんだ?」

 目を細めて、類が莉亜を見た。顔を上げて、少し申し訳ないような面持ちで、莉亜は答える。

「今回の騒動の原因は……、多分、私にありますから」

 俯いて、唇を噛み締める。

「どういうことか、説明してくれる?」

 総二郎の問いに、莉亜は何も言わずに頷いた。

◇ ◇ ◇


「莉亜、さん……?」

 ラウルの言葉に、つくしは目を丸くした。

「そう。リアは……兄貴の、婚約者。そして、俺の初恋のオンナ……」

 初恋、という響きに、どき、とする。つくしにとっての初恋の相手は、類だ。司と付き合っているときでも、やっぱり類だけは特別で。
 片想いをしていた間、類はずっと静を想っていて。それが別に、悪いことだとは思わないけれど。報われない恋をしていたのは、確かだ。静のことで落ち込んでいる類を見るのは、忍びなくて。でも側で支えていたくて。
 そんな想いを抱きながら非常階段に通ったことを、思い出してしまった。

「リアを……、忘れたかった……」

 弱々しく言葉を繋ぐラウルは。子供のように、誰かに縋ることができなくて。ただ、その身を丸くして。一人、我慢することしかできなかったのだ、と感じた。

「御曹司を手玉に取ってるアンタなら、もしかしたら俺の中からリアを消してくれるんジャないかと……。そう、思っタ」

「……手玉、ね」

 別に、御曹司を手玉に取っていたつもりはないのだが。
 いろいろな噂があったため、そう思われても仕方がないのかもしれない、とつくしは、あえて気にしないようにした。

「でも、やっぱりダメなんだ……。リアじゃないと……。リアしか、いらナイ……」

「……」

 本当に。呆れるほど、ラウルは莉亜を慕っているのだと。莉亜への切ない想いが、ひしひしと伝わってくる。

 諦めなければならないのに、どうしてもそれができなくて。代わりの恋を、探そうとした。
 でもやっぱり、それは結局、代わりでしかなくて。本当の愛には、敵わなかった。

「愛してるンだ、リアを……。狂おしいほど……」

 毅然としていた背中が、今はとても小さくて。頼りないものに見えて。放って、おけなくて。

 蹲るラウルを、つくしはそっと抱き寄せた。

「You're warm……」

「え?」

 つくしの腕の中で、ラウルがそう呟いた。顔色を伺おうと思わず離れようとしたつくしの背中に、ラウルは手を回す。

「アンタ、温かい……。こうしてるト、落ち着く……」

「……」

 心臓の音を聴くように、ラウルはつくしに身を寄せた。目を閉じて、トクン、トクン、と波打つつくしの鼓動を聴いていると。不意に、眠気がラウルを襲ってきて。

「……ラウル?」

 ついには、つくしの腕の中で、ラウルは眠ってしまった。思わず、くす、と笑みが漏れる。

「こうしてると、可愛いんだけどな」

 少しだけラウルの身体をずらして、つくしは自分の膝の上にラウルの頭を置く。そうして、そっと髪に触れた。

 好きなのに。好きで好きで仕方がなのに、想いが届かなくて。想い人は、自分の兄との結婚が決まっている。どうにかして忘れたいのに、そうしようと思えば思うほど、想いは募っていって。

 つくしにも似たような経験があるから。ラウルの気持ちは、わかる。静を想っていた類を、ずっと好きだったから。諦めなければ、と思いながらも、やっぱり側にいたくて。やっと手に届いたと思った矢先、類は離れていってしまって。

「上手く、いかないね」

「牧野っ!」

 ぼそ、とつくしが呟いた瞬間。つくしを呼ぶ声と共に、部屋のドアが開かれた。

「は、花沢類……!?」

 驚いて目を丸くするつくしの膝の上に、類は気づく。むっとして、類はつくしの腕を引いて立ち上がらせた。

「わ……っ」

 つくしが立ち上がった弾みで、ラウルの頭は床に叩きつけられてしまう。ごん、という音がして、ラウルは目を覚ました。

『……あれ? もう連れてきちゃったんだ?』

 ラウルは打ちつけたであろう頭を擦りながら、莉亜が連れてきたであろう類たちの存在に気づいて、口元に笑みを浮かべた。

 先日の莉亜の様子から、類達を連れてくるだろうことは予想していた。だから尚更、早くにケリをつけてしまいたかったのだが。

『どういうつもりだよ? 牧野を、勝手に連れ出したりして』

 つくしを腕に抱いて、類はラウルを睨んだ。

『ここに来たのはツクシだぜ? 俺が直接、手を下したわけじゃない』

『サブリミナルっていう、卑怯な手を使ってるのに?』

 総二郎の言葉に、ぴく、とラウルは反応する。

「サブリミナル……?」

 莉亜が、目を丸くしてラウルを見た。

『そこまでバレてんのか……。やれやれ、仕方ねぇな』

 くっくっ、とラウルは笑う。つくしは、早口で聞き取れない目の前で繰り広げられる英語の会話を、黙って聞いていた。

◇ ◇ ◇


「滋……っ」

 司と共にジェット機に乗り込まんとする滋に、亘と琴乃が駆け寄ってきた。

「パパ、ママ……」

「一体どこに行くというんだ、そんな身体なのに!?」

 はぁ、と肩で息をして、亘は滋の手を掴む。

「こんな身体だから、行きたいの。――日本に」

「滋……」

「お願い、許して。もう、無茶はしないって約束するから」

 琴乃が、そっと亘の手を滋から離すように握る。

「滋が、決めたことなのよね?」

「うん」

 まっすぐに琴乃を見つめて、滋は頷く。

「じゃあ、行ってらっしゃい。気をつけてね」

「うん。ありがとう」

 微笑んで、滋は司と一緒にジェット機に乗り込んだ。堅く、手を繋ぎあったまま。