花より男子/ユキワリソウ(16)


「類っ、あきらっ」

 ばたん、と勢いよく、総二郎はつくしのマンションのドアを開けた。

「どうかした?」

 きょとん、として、類が総二郎を見つめる。

「鏡なかったか、鏡」

 はぁ、と息を切らしながら、総二郎は類につめ寄る。

「鏡?」

「そう。折りたたみ式の手鏡」

「ああ、それなら机の上に……」

「それだ!」

 類の指したテーブルに置かれた鏡に、総二郎は飛びついた。ふぅ、と深呼吸をしてから、たたまれた鏡を開く。一見、何の変哲もない鏡だが。

「……これ、一度分解してもいいか?」

 横のスイッチに手をかけて、総二郎は躊躇いながら口を開いた。
 もしも、本当のこのスイッチが原因なのだとしたら、無暗にスイッチを入れるべきではない。

「分解?」

「その鏡、何なの?」

 あきらと類が、怪訝そうな表情で総二郎を見つめる。

「アーレント氏の息子が、牧野に渡すように指示したものだ」

 総二郎の言葉に、類とあきらは目を見開く。

「さっき、優紀ちゃんが車から降りたとき。前に、牧野を侮辱したって男を捉まえた」

「牧野を、侮辱?」

 静かに、類が呟く。やっぱり、その場に類がいなくてよかった、と総二郎は安堵する。

「この際、それは忘れてくれ。肝心なのは、ここからだ」

 声を低くして、総二郎は続けた。

「その男は、牧野を侮辱するように頼まれたらしい。そして、そのお詫びに、とでも言って、牧野に鏡を渡せってね」

 ぱたん、と総二郎の手の中の鏡を閉じる。そうしてそれを、類に向かって投げた。

「昨日の夕方、偶然牧野に会って鏡を渡したって言ってた。昨日の夜、類が牧野と別れるまで何ともなかったっていうんなら、牧野がおかしくなったのはそれからだ。今まで手元になかった鏡の出現で、牧野がおかしくなったとしたら」

「この鏡に、何かしらの細工が施されているかもしれないってことか」

「あくまで、憶測でしかないけどな」

 総二郎とあきらの会話を、類は黙って聞いていた。そして、ぽつり、とまったく無関係なことを口にする。

「その、牧野と別れるまでって言い方やめてよ、総二郎。ただでさえ落ち込んでるのに、俺」

「は?」

 拗ねたように、類は唇を尖らせて総二郎を見る。

「あのな、類。そういう意味じゃ……」

「そういう意味じゃなくても、今は嫌なんだよ。別の言い方して」

「……」

 呆れて、総二郎は頬を引きつらせる。こんなときに、何という我儘を言うのだろう。
 確かに、婚約して幸せの絶頂にいたときに、婚約者が別の男との密会の記事が出回って地獄のどん底にいる類に、『別れ』という単語は禁句だったかもしれない。

 だがそれにしても、と総二郎とあきらは思う。

(司と、同レベル……)

 はぁ、と二人は深く息を吐く。
 まるで、子供のようだ。類は、もっとレベルの高い男だと思っていたのだが。
 つくしに関わるとこんなに子供染みた男になるということを、総二郎もあきらも知らなかった。

◇ ◇ ◇


「ごめんね、遅くまで」

「いえ。こちらこそ、送って頂いてありがとうございました」

 優紀は、深々と総二郎に頭を下げる。

「でも」

 頭を上げて、優紀は少しだけ頬を染めて総二郎の目を見つめた。

「不謹慎だけど、会えてよかったです」

「……優紀ちゃん」

 ここまで純粋に総二郎を慕ってくれる女の子は、もう現れないかもしれない。そう思うと、尚更。出発前の出来事が、思い出される。



 ――今だけでいいから……。肩、貸して?

 言いながら、声が震えるのが自身でわかった。つくしの肩に頭を埋めて、深く息を吐き出す。
 何故、今更告白してしまったのか。自分でも、わからない。でも、どうしても言わずにはいられなくて。

「……ワリぃ。……サンキュ」

 表情を見られないように顔を背けながら、総二郎はつくしから離れた。
 多分、きっと。今、ものすごく情けない表情をしている。自分でもこういう表情ができたのか、と少し関心を示してしまうほどだ。

「……」

 つくしは、黙って総二郎を見つめていた。胸が詰まって、言葉にならない。締めつけられているかのように、胸が痛い。

 普段、決して人前でこんな表情をしない人だから。
 だから、尚更。どうすればいいのかわからなくて。声をかけてあげることも、抱き締めてあげることもできなくて。何をしても、それはやっぱり、同情にしかならなくて。

「忘れて、今の」

 明るくそう言った総二郎は、いつもの総二郎に戻っていた。

「友達の関係、崩すような真似して……悪かった。もう、二度としない」

「……西門さん」

 どうしてか、わからないけれど。頬を、涙が伝った。総二郎の想いが、響いてくる。つくしの胸に、熱く語りかけてくる。

「今から、おまえに魔法をかけてやるよ」

 とん、と人差し指で、総二郎はつくしの額を突く。

「ま、魔法?」

「そ。今のことを、全部忘れられる魔法。いいから、目ぇ瞑ってな」

「えぇ?」

 嫌そうな表情をしたつくしに、早く、と総二郎は急かす。しぶしぶ、つくしは目を閉じた。

「いいか? 俺がいいって言うまで、絶対に目を開けるなよ」

「はいはい」

 総二郎の言葉に、つくしは面倒そうに頷く。

「……」

 総二郎は、両手でつくしの頬を覆う。びくっとして、つくしは一瞬目を開けてしまいそうになったけれど。
 それでも、今開けてしまえば、もしかしたら総二郎の顔が目の前にあるかもしれない、と思ったら、開けるのが恐くなって。つくしは、きつく目を瞑った。

 つくしの口元に、総二郎の息がかかる。でも決して、つくしの唇に触れようとはしなくて。
 ときどき、わずかに総二郎の唇が掠めるのだが、それ以上、先には進んでこない。息がかかるほどの距離にいるのに、何故か総二郎の心は、とても遠いところにいるようだった。



 そんなことを思い返しながら、総二郎は今、目の前にいる優紀を見つめる。
 結婚を考えたのは、本心からだ。偽りではない。だが、交際をしようと思ったわけではなくて。
 今でも、優紀は総二郎の恋人という位置にいるわけではないのに。それなのに、どうしてこんなにも後ろめたい気持ちになるのだろう。

 そっと、総二郎は優紀の額に唇を寄せる。優紀に対する償いの気持ちから、自然と身体が動いてしまったのかもしれない。

「お休み、優紀ちゃん」

「……おやすみ、なさい」

 切なげな総二郎の表情が、胸に引っかかる。きっとまた、この人は何かを抱えているのだ、と気づいてしまった。でもそれを、探ってはいけない気がして。

 優紀は何も言わず、総二郎の車が走り去っていくのを見送っていた。

◇ ◇ ◇


「お、総二郎」

 あきらが、類の部屋に姿を現した総二郎に気づいて手を挙げる。

「鏡は今、分析中。結構、精密な作りだったらしくてな。明日の朝まではかかるかも」

「そっか」

 あきらの言葉に頷きながら、総二郎はベッドに腰を下ろす。
 窓辺に佇んでバイオリンを弾いている類を見て、総二郎はつくしを想ってしまった。今、どこにいるのか。何を考えているのか。そんなことを思ってしまった自分が、つくづく嫌になる。

「……ねぇ、総二郎」

「あ?」

 バイオリンを弾く手を止めて、類は総二郎を真っ直ぐに見据える。

「そろそろ、教えてくれない?」

「何を?」

「出発前。牧野と、何があったのか」

 目を丸くした総二郎に、類は目を反らさずに聞いた。

「何って……。別に、何もねぇよ」

「隠すなよ。牧野を見てたら、何かあったっていうのは一目瞭然なんだから」

「……」

 真剣な類の瞳に、総二郎は居た堪れなくなる。親友の彼女だから、決して想いを伝えてはいけなかったのに。それでも、どうしても気持ちを伝えたくて。

「――…告白して、抱き締めた」

 表情を変えずに、類は総二郎の言葉を受け止めた。やっぱりか、という思いと、何故、という思いが交錯する。

 いつだったか、随分と前のことではあるが、つくしを抱き締め、キスをしたところを司に見られたときのことを思い出してしまった。あのとき、司はきっとこんな気持ちだったのかもしれない。

「悪かった。でも、お前らの間に割って入るつもりはさらさらねぇし。牧野のことは友達だって、割り切ってるから」

「……うん」

 類の拳に、自然と力が入る。総二郎を、力に任せて殴ってしまえれば楽かもしれない。
 でも、それだけはしたくない。大切な親友だし、総二郎の気持ちも……わかるから。

「ついでだから、俺も言っとくけど」

 それまで口を閉ざしていたあきらが、類を見て言った。

「俺も、牧野に惚れてる。……つっても、結婚するなら牧野がいいってくらい。別に付き合おうとか、そういうことを考えてるわけじゃあない」

「うん……」

 苛立ちを表に出さないように、類は静かにあきらの言葉を胸に飲み込む。ゆっくりと呼吸をしていないと、感情に任せて殴ってしまいそうになるから。

「最初、かなりうぜぇって思ってたのにな。いつの間に、あいつはこんなにでかい存在に変わってたんだか」

 口元に笑みを浮かべて、あきらは言葉を続ける。それは、あきらだけではなく、類や総二郎も同じだった。
 初めは、ただ面倒なだけの女だったのに。気がつけば、つくしを一人の女性として見るようになってしまっていた。
 類たちの歯車が狂い始めたのは、それからかもしれない。思いの外、つくしがいい女になってしまったから。

「類が少しでも手を離せば、俺たちがいつでも掻っ攫えるってこと。ちゃんと、覚えとけよ」

「俺は、手を離すつもりはないよ。もちろん、牧野に離されるつもりもないけどね」

 総二郎の言葉に、類は微笑みながら答える。するとすかさず、あきらが言葉を繋げた。

「あいつの羽を毟って、しっかり掴まえとけよ。でなきゃ、いつだってあいつは飛んでいっちまうからな」

 類と総二郎は顔を見合わせて、深くため息を漏らす。

「トラブルメーカーだからね、牧野は」

「いっつも、俺らに迷惑ばかりかけやがる」

「でも、そこがいいんだろ?」

 ふ、とあきらが笑うと、総二郎もつられたように口元を綻ばせた。

「退屈しねぇよな、あいつといると」

 側にいて、笑っている表情が見られればそれでいい。いつだったか、類はつくしにそう言った。
 でも一度手に入れてしまったら、もう手放せなくなって。たとえ親友だとしても、絶対に譲れない。もう、譲りたくない。司のときのようには、いかせない。
 それが、司と同じように大切な親友だったとしても。

◇ ◇ ◇


『つくしさんに、何をしたの?』

 腕を組みながら、リアはラウルを睨む。

『穏やかじゃねぇな。急に、どうした?』

 本を読みながらソファに座っていたラウルは、本を閉じて立ち上がる。

『とぼけないでっ』

 声を荒げてリアが言うと、ラウルは目を細めて本をテーブルに置いた。そして、ゆっくりとリアに近づく。

『とぼけてなんかいねぇよ。俺は、本当に何もしてない。嘘だと思うんなら、直接つくしに確かめてみるといい』

「……」

 迂闊にボロを出す男でないことは、十分承知している。だがそれでも聞かずにはいられなかった。

 このホテルにつくしが滞在を決めたのは、ラウルとの賭けのため。ラウルが、つくしの魅力を見つけられるかどうか。
 それは、言い換えればラウルがつくしを好きになるかどうか、ということだ。

 仮に、ラウルがつくしを好きになったとしたら、そのときには類の存在が邪魔になる。そうして、このホテルにいたたった1日の間に、つくしが類にふられた。
 こんな都合のいい偶然が、果たして起こるだろうか。リアが、ラウルが一枚噛んでいるに違いない、と思うのは当然かもしれない。

 リアは、つくしのいる部屋のドアを見つめる。つくしのためにも、この状況を何とかしなくては。深く息を吐き出し、リアは唇を噛んだ。

◇ ◇ ◇


「……」

 薄らと、滋は目を開けた。頭が、ガンガンする。手首が、ズキズキする。一体、何があったのだろう。

 もう一度目を閉じて、滋は考える。今まで、何をしていたのだろう。どうしてこんなにも、頭と手が痛いのだろう。
 思って、ふと右手とは違い、左手だけが温かいのを感じた。首を動かして、左手の方を向く。

「つか、さ……?」

 滋の呟きに、大きな司の肩が反応する。

「……滋」

 身体を起こした司は、目を開けている滋を見て安堵の息を漏らした。

「あたし……?」

 首の位置を戻して、滋は天井を見る。少しずつ、意識がはっきりしてきた。

「あたし、死ねなかったのね……」

「……っの、バカ野郎!!」

 声を荒げた司を、驚いた目で滋は見つめた。

「簡単に、そんなこと言うんじゃねぇっ」

 滋の手を握る司の手に、力が入る。目を覚ましてくれてよかった、と心底思う。

「……簡単じゃ、ないよ」

 目を閉じて、滋は呟いた。

「簡単な気持ちで、こんなことできないよ……」

「……」

 言葉を吐き出した滋の目尻から、こめかみを涙が伝った。
 そんなこと、わかっていたのに。つい、声を荒げてしまった。目を覚ました暁には、優しい言葉をかけてあげようと思っていたのに。感情に任せて怒鳴るのは司の悪いところで、直さなければならないところだ。

「……滋」

 首をわずかに動かして、滋は司を見て微笑んだ。

「お前を、幸せにしてやる」

「……」

「俺が、お前を幸せにしてやりたい」

「つ、かさ……」

 驚いて、滋は目を見開いた。今のは、司の口から出た言葉なのか。聞き間違いではないのだろうか。つくしと、勘違いしているだけなのではないか。

「あたし、滋だよ?」

 思わず、そう言ってしまった。細めた目から、涙が溢れ出す。

「わかってる」

「……つくしじゃ、ないんだよ」

「滋に、言ってる」

 力強く、そう言われたことが堪らなく嬉しくて。
 でもこれはきっと、同情でしかない。そのことが、滋の寂しさを倍増させる。同情で側にいられても、同じことの繰り返しにしかならない。もう、同じ過ちは犯したくないから。

「同情は、いらない……」

 嬉しかったけれど。でも、そんな気持ちで一緒にいても、お互いがツラくなるだけだから。だったら、最初から一緒にいなければよかったのだ。でも、それでも。どうしても、司を忘れることができなくて。
 つくしに罪の意識を抱きながら、滋はあの日、司に賭けを申し出た。危険日だと、知っていて。

「俺が、同情なんかする人間に見えるか?」

 静かに、司が呟く。

「……でもあたし、最低な女なの」

「お前は、最高の女だよ」

 滋の言葉に被せるように、司が言った。涙が、止まらない。

「――愛してる」

 そっと囁いて、司は滋に唇を重ねた。