花より男子/ユキワリソウ(15)
「じゃあ、婚約解消ってのは誤報なんだな?」
「当たり前でしょ。ていうか、何それ? 誰がそんなこと言ってるの?」
総二郎の確認に、うんざりしたように類が答える。相当、機嫌が悪そうだ。
「だよなぁ、やっぱ。昨日は、そんな素振りまったくなかったし」
あきらの言葉にも、類は、はぁ、とため息を吐くばかり。つくしに確認を取ろうにも、肝心のつくしは電話には出ないし、マンションにもいない。完全に、行方を晦ましているのだ。
「総二郎、牧野の友達に連絡取れない?」
類が、苛立ちを抑えられない面持ちで総二郎を見る。
「取れないこともないけど……。ま、状況が状況だからな」
はぁ、と息を吐いて、総二郎は携帯を手に取った。2年は戻らないと格好つけていなくなったくせに、こんなにすぐ連絡を取るのはすごく惨めな気がする。
だが、状況が状況だから、と自分に言い聞かせて、優紀の携帯を鳴らした。
「あ、優紀ちゃん?」
『西門さん……。日本に、いるんですか?』
「うん、呼び出されちゃった。今、大丈夫?」
『え? 大丈夫ですけど……。つくしのこと、ですよね?』
「うん、そう」
『あたしも、聞きたいことがあるんです、花沢さんに。会わせてもらえますか?』
「うん、そのつもり。じゃ、今から類の家に来てくれる?」
『わかりました。すぐに伺います』
「よろしく」
携帯を切って、総二郎は類を向く。
「今から来るって」
多分、優紀もそろそろ連絡が来る頃だろう、と思っていたのかもしれない。それが総二郎にせよ、誰にせよ。きっと、つくしのことを聞かれるだろう、と。少しの会話で、そういうふうに感じた。
「司、ニューヨークではアーレント社の動きって何かなかったの?」
類の問いに、司は答えない。見ると、心ここにあらず、という感じで。
「……司?」
再度、類が司の顔を覗き込む。
「え、あ。な、何だ?」
はっとしたように、慌てて司は類を見た。
出がけの滋の表情が頭に焼きついて、離れない。また、泣かせてしまった。泣かせないように、と思っているのに、どうしても泣かせてしまう。そんなつもりは、まったくないのに。
「大丈夫? あっちでも、いろいろ大変なんでしょ? 少し休めば?」
「ああ……。いや、悪い。大丈夫だ」
滋には悪いが、今はつくしのことを考えよう。滋を傷つけてまでも、わざわざ日本まで来たのだから。
そのとき、司の携帯が鳴り響いた。ディスプレイに表示されている名前は、西田である。
『坊ちゃん、滋お嬢さまが……』
司の目の色が変わったのを、その場にいた全員が気づいた。
◇ ◇ ◇
「滋さん、が……?」
総二郎の言葉を聞いて、優紀は倒れそうになる。
「うん。今まで司も一緒だったんだけど、ニューヨークに飛んで帰ったよ。正に、字の如く。本当に、飛んで帰ったんだけどね」
空気を和まそうと笑顔でそう言うが、優紀の顔は真っ青になったまま、回復しない。
バスルームから、かれこれ2時間以上水の音が止まない、と気になった使用人がバスルームを覗いたところ、浴槽に身を委ねるようにして気を失っている滋を発見したらしい。左手は、真っ赤に染まった浴槽の中に落ちていて。
「優紀ちゃん、ちょっとあっちに座ろうか?」
そう言いながら総二郎が優紀に触れると、途端に優紀は腰を抜かしたようにその場に座り込んでしまった。
「……ぅして、滋さん、が?」
カタカタと小刻みに肩を震わせて、目尻に涙を溜めている。少しでも気を抜けば、きっとその溜まっている涙は溢れ出すであろう。
「滋のことは、また司から連絡が来るから。だからそれまでに、俺らは俺らで、牧野のことを何とかしないと」
はっとして顔を上げれば、ね、と総二郎の笑顔が見えた。
そうだ。滋のことは心配だが、ここで手を拱いていても仕方がない。今は、できることをしなければならないのだ。解決しなければならない問題が、あるのだから。
総二郎の手を借りて、優紀は立ち上がる。そして類とあきらのところまで歩いて、椅子に腰を下ろした。ふぅ、と深く息を吐いて、気持ちを切り替える。
優紀の表情が変わったのを見て、総二郎は口元に笑みを浮かべた。
さすが、というべきか。つくしの友達だけある。決してこれは、貶しているわけではなく。総二郎なりの、敬いの気持ちから来る思いだった。
「早速で悪いんだけど……」
「その前に、教えてください」
類が話を聞こうとすると、それを制して優紀が口を開いた。
「花沢さん、静さんのことがまだ好きなんですか?」
「は?」
一体、何の脈絡があるのか、と怪訝そうな表情で、類は優紀を見る。
いつもそうだが、つくし以外の人間に対して、あまり優しい態度は見せない。優紀の名前を知っているのかさえ、未だに不明である。
「答えてください」
まっすぐに、優紀は類の目を見据える。はぁ、とため息を吐いて、類は答えた。
「そんなわけないでしょ。好きは好きだけど、そういう好きじゃない。俺がこの先、守っていきたいって思ってる女は、牧野だけだよ」
その類の言葉に、優紀はほっと胸を撫で下ろす。つくしの言葉を信用していなかったわけではないが、類がたった1日で心変わりするようにも思えなかったのだ。
だが、これではっきりしたことは、つくしが嘘を吐いているということである。話をした限りでは、決してつくしが嘘を言っているようには感じなかった。それに、つくしは不器用だから、簡単に嘘なんか言えない人間だということは、親友である優紀が一番わかっているつもりだ。
でも、それでも優紀には信じられなかった。類が、静のことを忘れられない、と言われたと口にした、つくしの言葉が。
「さっき、つくしから連絡があって、その時につくしが言ってたんです」
口を開くと、類とあきら、そして総二郎は一斉に優紀を見た。
「花沢さんに、静さんのことが忘れられないって言われたって」
優紀の言葉に、類は愕然とした。
◇ ◇ ◇
「滋!! ……っと」
勢いよくドアを開けると、中にいた医師が、睨むように司を見たので、慌てて口元に手を添えた。そうして走ってきたために乱れた呼吸を整えながら、徐にベッドに横たわる滋に近づく。
滋の枕元で、滋の母・琴乃が泣いている。
それを宥めるように寄り添っているのは、滋の父・亘だ。
夫婦というものは、こうでなければならないのに。司が滋と手を取り合うことなんて、一度もなかった。結婚してからの行動を振り返り、司は強く拳を握る。
「出血が思ったより多く、昏睡状態に陥っています。命に別状はないようなので、2、3日もすれば目を覚ますでしょう」
医師はそれだけ司に告げると、軽く会釈をして、三人の看護士と共に部屋を出て行った。
ぴ、ぴ、という機械音が、静かな部屋に谺する。生きているのに、まるで死んでいるかのような顔の青白さに、司はぞっとした。
「司くん」
亘の声にはっとして、司は亘に目をやった。
「君は、滋を何だと思っているんだね?」
「それは……」
道明寺財閥にとって、必要な女です。そう答える前に、亘に制される。
「財閥がどうの、と聞いているんじゃあない。君がどう思っているのか、聞きたいんだ」
「……」
言葉に詰まってしまって、司は何も言えなかった。
すべてを家庭のせいにして、つくしを捨てて滋を選んだ。それなのに、今また司はこの惨状を財閥のせいにしようとしている。
他の誰でもない、司自身が招いた結果なのに。
◇ ◇ ◇
「本当に、牧野がそんなことを?」
驚きのあまり言葉が出ない類を尻目に、あきらが優紀に確認する。力強く、優紀は頷いた。
「あたしも、信じられなくて。でも、つくしは嘘を吐ける子じゃないから。だから、余計に」
わからなくなって、と優紀は俯いた。膝の上に作った拳に、自然と力が入る。その拳の力を緩めるように、総二郎がそっと手を重ねた。
「牧野から連絡が来たって、本当?」
「はい。あたし、今朝新聞を見てから、ずっと気になってて、つくしに電話してたんです。でも、つくしの携帯は、ずっと電源が入ってなくて繋がらなくて……。そしたら、つくしの方から連絡があったんです」
優紀の言葉に、ふー、と類は息を吐き出して目を瞑る。優紀には連絡をしているのに、何故類には連絡をしてこないのであろう。
もし優紀の言っていることが本当だとしたら、どうしてつくしはそんな勘違いをしてしまったのだろうか。
引っ越しが終わって、あきらたちが帰ったあとのことを考える。静の話題など、微塵もなかった。
一体、どこをどうしてそんなことを思ったのだろう。
「牧野は、今どこに?」
「あ……、えっと……。その……」
重苦しい口を開いて、類が優紀を見る。さすがに、アーレント氏の息子と一緒にいる、とは言いづらくて。優紀は、つい口籠もってしまった。
それから言葉を発せなくなってしまって、下を向く。だが押し黙ってしまった優紀を見て、全員がそれを察した。
「昨夜、引っ越しが終わったあと、俺らは先に帰ったけど、類はしばらくいたんだろ?」
「うん。11時過ぎには帰ったけどね」
「ってことは、そのあとか」
類とあきら、そして総二郎は、互いに顔を見合わせてから、思いついたように立ち上がる。
「牧野のマンションに……」
「そうだな」
「行こうぜ」
類の言葉に、二人は頷く。その光景を、優紀は不安そうな表情で見つめていた。
◇ ◇ ◇
「はい、これ」
「……何ですか?」
リアから手渡された紙袋を、つくしは訝しげに受け取る。
「着替えよ。足りないものがあれば、また買ってくるわ」
「え? い、いいですよ、もったいないっ」
つくしは慌てて、それをリアに返そうとする。
「買ってきたんだから、使ってくれなきゃ。そっちの方が、よっぽどもったいないわ」
だがそれを、リアは優しく制する。椿や静と、少し似ているかもしれない。雰囲気や、仕草。やっぱりこのリアという女性も、どこかのお嬢さまなのかもしれない、とつくしは思ってしまった。
「……本当に、1週間ここにいるつもり?」
不安げな面持ちで、リアはつくしを見る。口元に笑みを浮かべて、つくしは大きく頷いた。
「売られたケンカは、ちゃんと買います。逃げ出したりなんかしません」
はっきりと、つくしはリアにそう言う。今までだって、そうだったから。
あれだけ侮辱されて売られたケンカを、買わないわけにはいかない。たとえ、どんなに理不尽なことだとしても。
「それならいいけど。花沢さん、心配するんじゃないかしら? ちゃんと、連絡したの?」
類の名前を出され、つくしは、びく、と肩を震わせる。
「花沢類のことは……、もういいんです」
「え?」
つくしの言葉に、リアは目を丸くする。
「他に、好きな人がいるって言われちゃったから」
はは、と力なく微笑いながら、つくしはリアを見た。驚いた表情のまま、リアはつくしを見つめている。
「それ、誰に言われたの?」
「花沢類ですよ」
声を落として、つくしは答える。あまり、類のことは思い出したくない。
「それ、本当に花沢さんに言われたの? 本当に、花沢さん本人だった?」
「リアさん?」
何度も確認するリアに、つくしは首を傾げた。
◇ ◇ ◇
「――…あっ。と、止まって! 止まって下さいっ」
優紀の言葉に、類は慌ててブレーキを踏んだ。
「すみませんっ。あたし、ここで降ります。後で、必ずつくしの家に行きますから、先に行ってて下さいっ」
「え? ち、ちょっと、優紀ちゃん!?」
何を思い立ったのかわからないが、優紀はそう言って、総二郎の言葉も聞かずに車のドアを開けて走って行った。
「総二郎、どうするの? 降りる?」
後部座席に座る総二郎に視線を移して、類が言った。迷っていると、背中を押すようにあきらも口を開く。
「行けよ、総二郎。姫には騎士が必要、だろ?」
何が起こるか、わからないのだから。
あきらの言葉を汲んで、総二郎は車を降りた。ドアが閉まる音と同時に、類はアクセルを踏む。
総二郎は類の車を見送って、優紀が走り出した方へと足を向けた。優紀は、見知らぬ男と話をしている。そっと近寄って、総二郎は耳を傾けた。
「あなた、この間、つくしを侮辱した人よね?」
優紀の言葉に、総二郎は反応する。
「あ、あー……。牧野つくしの友達?」
「そうよ。あたし、あなたに一言文句をいいた……」
「ちょーっとストップ」
言いかけた優紀の口を右手で塞いで、総二郎は男を見据える。
「に、西門さん!?」
てっきり、類の車で行ってしまったと思っていたのに。
「おまえが、牧野を侮辱したの?」
そう言う総二郎の口元は微笑っているが、目は真剣そのもので。つくしを侮辱した、という男に、心底腹が立っている様子だ。
「ここに司と類がいなかったことを、感謝するんだな」
ぼき、と指の関節を鳴らしながら、総二郎はゆっくりと男に近づく。
「ち、ちょっと待てよ。俺は、頼まれただけなん……」
そこまで言ってから、はっとして男は口を塞ぐ。だが、男の言葉はしっかりと総二郎と優紀の耳に届いてしまった。
「頼まれた?」
「誰に?」
優紀と総二郎は、互いに顔を見合わせて、男に問う。
「そ、それは……、その……」
男は吃って、逃げ腰になる。だが、総二郎がそうはさせない。
「今すぐ死ぬか?」
「が、外国人ですっ」
総二郎の悪魔のような囁きに、男が途端に口を割った。
「外国……? アメリカ人か?」
総二郎と優紀の中に、一人の人物が浮かび上がる。
「え? わかんないけど。白人だった、気がする」
「そいつに、牧野を侮辱しろって言われたのか?」
総二郎の問いに、一度男は頷くが、思い出したように言葉を追加した。
「……ああ。あと、鏡」
「鏡?」
「そう。鏡を渡してくれって」
アーレント氏の息子が、この男につくしを侮辱させ、そして鏡を渡させた。
何とも不可解な行動に、総二郎は頭を悩ませる。
「その鏡、何か特殊なもんなのか?」
普通に考えたら、そうである。何の変哲もない鏡を、わざわざつくしに渡す方がおかしい。アメリカでそういう風習があるとは、聞いたこともない。
「え? 知らないけど……。横のスイッチを押したら鏡の部分が光って、暗闇でもしっかり顔を確認できる奴だったぜ」
「スイッチ……?」
もしかしたら、そのスイッチが鍵なのかもしれない、と総二郎は思う。だがそのスイッチ一つで、一体つくしに何ができるのだろう。
考えを巡らしながら、総二郎は優紀と共につくしのマンションへ向かった。
◇ ◇ ◇
「……」
深く息を吐いて、司は滋の顔を思い浮かべていた。
――君は、滋を何だと思っているんだね?
亘の言葉が、頭から離れない。目を瞑り、司は唇を噛み締める。
幸せにしてやりたい、と思っている。それは本心だ。でも、つくしのことを忘れられない。それも、本当の気持ちなのだ。
「俺は、どうすればよかったんだ……?」
家を、道明寺財閥を捨てて、すべてをなげうってつくしと一緒になればよかったのだろうか。そうすれば、すべてが丸く収まったのか。
いや、そうではない。そうすることができなかったから、ずっと苦しんで、悩んできたのだ。
つくしを、傷つけて。自分の手で幸せにしてやれないのなら、せめて類の側にいて欲しい、と。つくしを、類に押しつけることしかできなくて。
「……っ、くそ」
ごん、と壁に司の拳が当たる。壁と拳の隙間から、わずかに鮮血が流れ落ちた。痛みは、感じない。
「虫唾が、走る……っ」
自分に。不甲斐なさすぎる、自身に。
一体、どれだけ滋は我慢していたのだろう。どれだけ、滋を傷つけていたのだろう。
滋との思い出の中で、笑っている滋は少なかった。いつも、不安そうで。空元気だけで立っていた。傷ついている心を押し込めて、いつも笑顔で司と接していた。傷ついていないはずはなかったのに。
「しげる――…」
今は。どうか、無事に目が覚めて欲しい、と願う。そうして今度は、ちゃんと滋と向き合えるように。つくしを、思い出に変えておかなければならない。
つくしは類を選んで、司は滋を選んだ。それが、現状なのだから。