花より男子/ユキワリソウ(14)
『牧野』
愛しい男性の声が聞こえる。返事をして側に行きたいのに、ぬかるみにどっぷり嵌まってしまったように、足が動かない。
『来て、くれないの?』
寂しげな、類の表情。行きたいけど、行けないの。思う言葉も、口にできない。
『……やっぱり、司のことが忘れられない?』
――そんなことないっ。
声を出したいのに、何かが喉に引っかかってしまったようにつまってしまう。それまで切ない表情をしていた類は、一変して、堂々とした顔つきになった。
『じゃあ、もういいよ。俺は、静のところに行くから』
そう言って類が背を向けた瞬間――。つくしは、夢の世界から引き戻された。
(今のは、夢……?)
目を大きく見開いて、今の状況を整理する。身体を起こして、つくしは部屋を見回した。
まったく覚えのない空間、である。どこかのホテルに違いないことだけは理解できるのだが。
徐にベッドから抜け出し、部屋に一つしかないドアに手をかける。
かちゃ、と鈍い音をさせながら、つくしはゆっくりとドアを開いた。
「随分ゆっくり寝てたナ」
声が聞こえてほっとするのも束の間、声の主が類ではないことに気づいて、つくしは眉間に皺を寄せた。てっきり、類だと思ったのに。
「もう、昼過ぎだ。何か食うカ?」
「……」
ばさ、と荒々しく新聞をテーブルに置いて、ラウルはつくしに近づく。そうだ、とつくしはようやく事の状況が掴めてきた。
深夜3時過ぎ。つくしは、ここアリランホテルの前に来なくてはならないと思い、足を運んだ。そこでこの男、ラウルに会ったのだ。
散々つくしに関わる男達を侮辱し、そうしてつくしにも暴言を吐いた。
思い出すだけでイライラするのに、何故つくしは今ここにいるのだろう。どうして、帰らなかったのだろうか。
そんなつくしの様子を察してか、ラウルは目を細めて、言いにくそうに口を開く。
「ルイのこと……、覚えてる?」
ラウルの言葉に、はっとした。そうして、頭にある言葉が浮かび上がる。あれは、夢ではなかったのか。
――俺、やっぱり静を忘れられない。
目の前が、闇に覆われる。あれは、実際に言われた言葉だったのだろうか。
頭を押さえて、つくしはその場に座り込んだ。目尻から頬を伝い、涙が床に滴り落ちる。一体、どこからが夢で、どこから先が現実なのか。頭の中がぐちゃぐちゃになって、理解できない。
類の温かい抱擁を、まだ身体は覚えているのに。あの言葉だけが、どうして文字のように頭に浮かぶのだろうか。
愕然と項垂れるつくしを見て、ラウルは口元を怪しく吊り上げた。
その仕草につくしは気づかず、ただただ類を想い、涙していたのであった。
◇ ◇ ◇
「牧野と連絡が取れない?」
あきらが、類の言葉を復唱する。
「携帯の電源、入ってないみたいなんだよね」
ふぅ、と疲れたように、類はため息を溢した。
「……金払ってないとかじゃなくて?」
「電源が入ってないってアナウンスだったよ」
心配そうにあきらが呟いた言葉に、ふ、と口元を綻ばせて類が答える。
「マンションにもいないし。一体、どこに行っちゃったんだろ」
手に持っていた新聞をテーブルに置いて、類はベッドに腰を下ろす。
「この記事、合成とかじゃねぇの?」
テーブルに置かれた新聞を手に取って、あきらが類を向く。類は、黙って俯いていた。
「……んなわけ、ねぇか」
はは、と力なく苦笑して、あきらは新聞を置いた。
「牧野の友達に、連絡取れないかな?」
類が、あきらを見てそう言う。
「優紀ちゃん? 俺、番号知らねぇよ。バイト先に行ってみてもいいけど。それより、総二郎が来るの待てよ。総二郎なら、番号知ってるから。司、総二郎も連れて来るって言ってたんだろ?」
「うん、まぁね」
はぁ、と重く息を漏らして、類はそのままベッドに身体を倒した。つくしに会いたい。つくしの声が聞きたい。つくしを抱き締めたい。
想うと、またため息が出る。婚約したばかりだというのに、こんなに落ち着けないのは何故なのだろう。
やっぱりそれは、つくしだからなのかもしれない。一筋縄ではいかない。それが、つくしだから。そしてそういうつくしを、類は好きになってしまったのだから。
◇ ◇ ◇
「滋」
窓辺に佇む滋の元へ、司は歩み寄る。
「ちょっと、出かけてくる」
「……」
声をかけるが、返事はない。ふぅ、と息を吐いて、司は部屋を出ようと足を向ける。
「どこに行くの?」
そう問われ、一瞬迷ったが、日本、と司は答えた。
「つくしのところ?」
「違う。類のところだ」
「同じじゃないっ」
声を荒げて、滋は司を見る。
「類くんがいるところには、つくしがいるでしょ!? 一体、いつになったら司はあたしを……、あたしだけを見てくれるのよ……っ」
滋は、そう叫んで涙を流す。ゆっくり歩み寄って、司は滋の肩を抱いた。
「あたしとつくしと、どっちが大切なのよ……?」
消えてしまいそうな声を、滋は吐き出した。結婚しても、安心できなくて。一緒にいても、司は滋を通してつくしを見ていることはわかっていた。それでも側にいたかったから、何も言わなかったけれど。
類と婚約したつくしを、いつまでも追いかけて欲しくなかった。
「滋」
司の低い声に、びくっと肩を震わす。
「この先、道明寺財閥が必要としているのは、お前なんだ」
「――…」
それは。決して、滋に対して愛があるわけではない、とはっきり言われたのも同然で。そう、改めて宣言されてしまって。
嘘でもいいから、俺が必要としている、と言ってほしかったのに。
そっと滋から離れ、司はそっと滋の額に唇を寄せた。そうして耳元で、悪い、と囁いてから部屋を出て行く。
そんな司の後ろ姿を、滋はじっと眺めていた。もう、涙も出てこない。
「つ、かさ……」
ゆっくりと、滋は立ち上がる。部屋が、歪んで見える。目の前に映る光景が、すべて水の中にいるように鮮明に映らない。
そのままのおぼつかない足取りで、滋はバスルームへと向かった。
◇ ◇ ◇
「……ねぇ」
つくしはテレビをつけながら新聞を眺めているラウルの側に近寄り、声をかけた。ラウルは、返事をしない。
「あたしの携帯、返してよ」
「誰に連絡スルつもり?」
ばさ、と新聞を畳んで、ラウルはつくしに目を向ける。
「別に、誰に連絡を取るわけでもないけど。携帯は、普通持っとくもんでしょーが」
目を反らして、つくしはそう答えた。この青い瞳に見つめられると、すべてを見透かされてしまいそうで、怖くなる。
「ここにイル間は、俺に従ってもらウ。携帯は渡さナイ」
「な……!?」
なんて勝手な、と思ったが、つくしは言葉に詰まってしまった。昨夜、そういう契約を交わしたのを思い出したからだ。
――アンタの魅力を、俺も見つけタイ。
そう、真剣な瞳で言われた。そんなこと言われても、と戸惑うつくしを尻目に、ラウルは窓際に立ってカーテンの隙間から外を眺めた。
「別に、取って食おうってわけジャない。ただ、アンタの側にいて、それを見つけたいダケだ」
「……帰る」
つくしは、廊下へ繋がるドアに足を向けた。だがそれを制するように、背後からラウルが声をかける。
「逃げるンダ?」
「はぁ!?」
思わず振り向くと、目と鼻の先にラウルがいて驚いた。
「だって、そうダロ? 俺と一緒にイて、婚約者から俺に想いが移るのガ怖いんだ。だから、逃げル」
「そんなわけないでしょ!?」
つくしはかっとなって、声を荒げた。
「安っぽい想いで、類と婚約したわけじゃないわっ。離れていたって、想いは変わらないもの!」
口元を緩めて、ラウルはつくしを見据える。
「じゃ、1週間ここで過ごシテみろよ。アンタのルイに対する想いがどの程度なのカ、試してみようゼ」
「上等よっ。受けて立つわ!」
「交渉成立、だナ」
こうして、まんまとつくしはラウルの思惑に嵌められてしまったのだ。
しまった、とつくしは自分の短気さに呆れてしまったけれど。一度口にしてしまったことを、今更覆すことはできない。
たった1週間。それくらい、何てことはない。自分の気持ちを守り通す自信は、ある。
「じゃ、携帯出せヨ。一度でもルイに連絡を取っタラ、契約違反でアンタの敗けダ」
「と、取らないわよ」
言って、つくしはポケットから携帯を取り出してラウルに渡した。
この男の手の中で動かされていることが、悔しい。だからこそ、見返したい。人を嘲笑っている、この男を。
それからその後。どうしたのか、あまり思い出せない。今朝の出来事だったはずなのに。
「映画の続きでモ見る? 途中デ寝てたみたいだカラ、最後まで見てないダロ?」
「……映画?」
言われて、つくしは少しずつ頭がはっきりしてきた。
そうだ、あれから。興奮して眠れなくなってしまったつくしに、ラウルは映画を見せてくれたのだ。ラウルの友人が作ったという、素人の映画だった。でもストーリーがしっかり構成されていた上に、キャストも全員素人だったらしいのだが、さすがにその道を目指している人だけあって、普段つくしが見ている映画と大差ないほどの出来だった。
そのためか、つくしはすぐにその映画の世界に引き込まれてしまったのは覚えている。内容は、あまり思い出せないのだが。
「途中で、ルイから電話が来たから、内容も、ウロ覚えだろ?」
「電話?」
そう、確かに。映画を見ている最中に、電話が鳴って、出たら類だった。いや、待てよ。
「音、鳴ったっけ?」
つくしは着信音を聞いていない気がして、ラウルにそう訊ねた。何だろう、この妙な違和感は。頭の中にはちゃんと意識として残っているのに、それが断片的でしかない。まるで、足りないパズルのピースを、無理やり繋ぎ合わせたみたいに。
「俺が持ってたンだよ。鳴ったから思わず取って、そのままアンタのところに持ってきたんダ」
「そぅ、だっけ」
音が鳴っていなかった気がしたのは、それのせいだったのか、とつくしは素直にラウルの言葉を受け止めた。つくしとラウルの記憶が一緒なら、きっとそうなのだろう、と。
◇ ◇ ◇
「だめだわ。やっぱり繋がらない……」
携帯を握り締めて、はぁ、と優紀は深く息を吐き出した。そうして徐に、テーブルの上の新聞を手に取る。
『次の相手もやっぱり御曹司!!』
大きく書かれたその見出しから始まる記事を、どうしても優紀は信じられない。
昨日、引っ越しのときにはそんな素振りはさらさら感じられなかったのに。
そのとき、携帯が鳴って、優紀はディスプレイを確認する。はっとして、慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし、つくし!?」
『優紀? ビックリした。どうしたの?』
かけてきたのはつくしの方だが、あまりに勢いのいい優紀に、思わず驚いてしまった。
「どうしたのじゃないわよ。ずっと電話してたのに繋がらないし。何なの、あの記事? 花沢さんとはどうなっちゃったの?」
『あ、えっと……。携帯は、ずっと電源切ってて……。今、電源入れたとこ。で、ラウルのことは関係ないけど、花沢類には、やっぱり静さんを忘れられないって言われちゃったよ』
そんなこと、あるはずがない。類のつくしを見つめる視線は、誰よりも、温かなものだったのだから。
「……何、言ってるのよ、つくし?」
絞り出すように、優紀は声を出す。
「何があったか知らないけど、ケンカしたなら仲直りしなきゃ。このままじゃ、だめだよ。花沢さんがつくしを大切に思ってること、つくしだってわかってるでしょ?」
何とか、つくしの説得を試みる。あれほどつくしを大事にしてくれる人は、きっとこの先現れないだろう。そのくらい、類がつくしを愛しく思っていることは、見ていてわかるから。
『ケンカなんかしてないってば。花沢類が、はっきりあたしにそう言ったの。それは、あたしにはどうしようもないでしょ?』
「だからって、どうして……?」
新聞を見る限り、アーレント社がすごく有名な会社だというのはわかる。
だが、だからといって、何故その息子と会ったりできるのだろう。理解に苦しむ。
『ラウルのこと? だから、そんなんじゃないったら。花沢類のこととラウルのことは……――あ、うん、わかった』
「……つくし、今どこにいるの?」
優紀と話をしている最中だというのに、つくしは優紀ではない、誰かに向かって声をかけた。まさか、とは思うが。
『今? 今、ホテル』
「ホテル?」
一瞬、ラブホテルが浮かんだが、それに気づいたのか、つくしが慌てて否定する。
『やだ、違うよ。ラウルが日本に滞在してる間だけ借りてるホテル』
「……一緒に、いるの?」
『うん』
気を、失ってしまいそうになった。一晩の間に、一体何があったというのだろう。
『でね、ちょっと……。いろいろあって、1週間くらいはここにいるつもり。その間、ちょっと連絡が取れないと思うけど、心配しないで』
付け足されたつくしの言葉に、優紀は眩暈がしそうになる。それからつくしは何かを言って電話を切ったが、優紀にはつくしの言葉は届かなかった。
この状況を、詳しく説明して欲しい。そうでないと、本当におかしくなってしまいそうだった。