花より男子/ユキワリソウ(13)
「だ、だめっ」
つくしは、自身の胸の前で思い切りバツを作る。
「……何で?」
それを、じっと類は見ているのだが。
「だ、だって、恥ずかしいじゃん!」
「この間はさせてくれたのに」
「今日は無理っ。恥ずかしくて、死んじゃう!!」
そう言われると、類にはそれ以上、強くは言えなくて。
つくしのことだから、本当に恥ずかしさで死んでしまうかもしれない。普通の人間ならありえないことを、つくしは平気でやってのけてしまうから。
引っ越し作業が終わり、あきらと桜子、そして優紀が帰ったあとも、類はずっとつくしの新居にいた。
そうしてたわいもない話をしたり、時には甘えて引っついてみたり。類は、幸せを感じていたのだが。
「わかったよ」
ふぅ、と息を吐いて、類は穏やかな表情でつくしを見つめる。
好きな女を抱きたい、という衝動に駆られるのは、男として当然の心理だと思うのだが。つくしには、とてもその常識は通用しそうにない。
「じゃあ、もう少しだけ」
つくしの腕を引き寄せて、類は自分の腕の中に捕まえる。
「こうしてて、いい?」
「……」
耳元で、優しく囁かれる。こくん、とつくしは首を縦に動かした。
甘い声と、優しい抱擁。そして、泣きたくなるような切ないキス。
つくしは、類がくれるその全部が大好きなのだが、それ以上進むことが、何故か急に恥ずかしくなってしまって。一度経験しているのに、まるで処女みたいに緊張してしまう。
あの夜の出来事は、全部夢だったのではないか、とさえ思うようになってしまった。
「嫌いに、なる?」
あまりにも、つくしが拒絶してしまうから。だったら類を受け入れてしまえばいいのに、どうしてもそれができなくて。でも、嫌われたくなくて。
「ならないよ」
くす、と笑みを溢して、類はつくしの額に唇を寄せた。
「したくて、一緒にいるわけじゃないから。牧野の笑顔が見たいから、俺は側にいるんだよ」
「……花沢類」
それは、決してつくしを安心させる為に言っている訳ではなくて。類の、本心だというのがわかる。わかるから、余計につくしはツラくなる。
「ごめんね、花沢類。それから、ありがとう」
いつまでも、怖がってしまって。そして、いつも側にいてくれて。類に対する謝罪と感謝の気持ちは増えるだけで、減っていかない。それほど、類は尽くしてくれている。
「またそれ? 聞き飽きたって言ってるのに」
ふ、と類は風の囁きのように微笑う。好きだなぁ、と思う。類といると、とても自然で。安心できる。気持ちが、ゆったりとなる。一緒にいて窮屈な思いをするより、ずっといい。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
つくしを抱き締めていた腕を離して、不意に類は立ち上がる。急に、どうしたというのだろう。
「花沢類?」
不安そうな表情をするつくしの唇にキスを落として、類は悪戯な笑みを見せる。
「俺、あんまり我慢強くないみたいだから」
「え?」
一息、間を空けて。類の言葉の意味がわかり、つくしは顔を真っ赤に染め上げた。そんなつくしを尻目に、玄関のドアはゆっくりと閉まったのだった。
回れ右をして、つくしはドギマギしながら寝室のドアを開ける。
「もー。花沢類ってば、反則っ」
ぼふっと布団に身体を沈めて、つくしは一人呟く。いつ類と暮らしてもいいように、と類の両親から用意してもらったダブルベッドは、引っ越した時には既に備えつけられていた。特に断る理由もなく、つくしはそれを、遠慮なく使わせてもらうことにしたのだ。
ごろん、と寝返りを打って、つくしはポケットに何かが入っていることに気づいた。起き上がり、それをポケットから取り出す。
「……忘れてた」
ポケットから出てきたのは、折りたたみ式の手鏡である。ジュースを買いにコンビニへ出かけた帰りに偶然発見した、以前、つくしに罵声を浴びせた男からもらったものだ。
「確か」
横のスイッチを入れると鏡の部分が光って、暗闇でも姿を見ることができる、といっていた男の言葉を思い出して、つくしはスイッチを入れる。
「へぇ、すごい。はっきり見える」
あんな碌でもない男の持っていたものだから、あまり期待していなかったのだが。思いの外、結構いい品物だったようだ。
「あ、にきび」
じっと鏡を見つめて、つくしはにきびを発見する。
「こっち……に、も……」
鏡を見つめる、つくしの手が止まった。
◇ ◇ ◇
深夜3時。
つくしは、都内アリランホテルの前に来ていた。どうしても、来なければいけない気がして。誰かと、約束をしていたような気になって。
だが、誰と約束をしたのか、どうして来なければならないのかが、わからなくて。
「Hey.」
立ち止まって俯いているつくしに向かって、声がした。
「You are Tukushi?」
「え? あ……、えっと……。い、いえす」
思わず、つくしは答える。そこに立っていたのは、金髪に青い瞳をした、長身の外国人だった。
「I'm sorry for surprising it. I wanted to meet you by all means.」
「……?」
にっこりと微笑んでそう言われるが、つくしには理解できない。あれだけ勉強した英語も、実際には何の役にも立っていない。もっと経験を積むべきだ、とつくづく思った。
「Raul」
その時、ホテルのエレベーターから降りてきた女性が、つくしたちに近づいてくる。そうして、白人の男性と会話をし始めたのだが。目の前で繰り広げられる英会話に、つくしはまったくついていけない。
「牧野つくし……さん?」
呆然としていたつくしは、不意に女性に声をかけられた。
「彼……ラウルが、あなたとゆっくり話がしたいみたいなの。部屋まで、一緒に来てもらえるかしら?」
「え? あの、でも……」
「ねぇ、お願い。こんな時間だし、ここでいつまでも話をしていたら迷惑だわ」
「は、はい」
笑顔でそう言われて、つくしは流されるようにエレベーターに足を運んだ。
予想以上に、豪華な部屋だった。この部屋を見ただけで、きっとこのラウルと呼ばれた男性も、きっとどこかの金持ちの人間なんだと容易に想像できる。
「適当に座って。今、お茶を入れるわ」
部屋に案内されたつくしは、女性に促されてテーブルに添えられている椅子に腰を下ろした。目の前の大きなソファに、ラウルが座っている。じっと見据える青い瞳に吸い込まれそうになって、つくしは思わず視線を反らした。
何故、今つくしはここにいるのだろう。思って、わからなくなってしまった。
そもそも、こんな時間に、どうしてこのホテルに来なければならなかったのか。来なければならない気がしたから。それは、何故なのか。
考えれば考えるほど、わからなくなる。
「はい、どうぞ」
目の前に、いい香りの紅茶が運ばれてきた。女性に目をやると、つくしににっこりと笑顔を向けていた。
「Lia」
ラウルが、そう言って女性を呼んだ。つくしには理解できない会話を尻目に、つくしは目の前に差し出された紅茶を一口、含む。
上品で、落ち着く感じの紅茶だった。香りは甘いのに、口にするとほろ苦くて。どうしてかわからないけれど、類を思い出してしまった。婚約してまだ日が浅いというのに、こんなところにいてもいいのだろうか。
「つくしさん」
不意に声をかけられ、はっとしてつくしはリアと呼ばれた女性を向いた。
「ラウルが、あなたと二人で話がしたいんですって。私、しばらく席を外すわね」
「え!?」
さすがに、見知らぬ男性と二人きりにされてしまうのは困る。思って、つくしは立ち上がった。
「大丈夫よ、隣の部屋にいるわ。何かあったら、大声出してね」
微笑みながら、リアは隣の部屋に姿を消してしまった。
「ツクシ」
呆然とするつくしを、ラウルが呼ぶ。
「ってか、いきなり呼び捨て?」
ちら、とラウルを見るが、ラウルは毅然とした態度を崩さない。
「アンタに、一体どれだけの魅力があるンダ?」
「は?」
妙なイントネーションで、ラウルは話す。
「道明寺・天草・花沢のジュニアが、こぞって骨抜きにされたらしいケド。大したオンナじゃナイね、アンタ」
「……」
拳を握り締めて、つくしはラウルの言葉を聞いていた。今すぐにでも殴りかかりたいのを、何とか堪える。
「その三人だけジャなくて、西門と美作ジュニアもだっケ? 日本の財界も、堕ちタね」
「いい加減にしなさいよ」
ふるふると込み上げる怒りを抑えられなくて、ついにつくしは口を開いた。
「あたしのことを言うのは構わないけど、F4と金さんを侮辱するのはやめてよ! 何にも知らないくせにっ」
「ああ、知らナイね」
ラウルは立ち上がり、つくしに近づく。
「もしかして、夜伽の相手が巧いトカ?」
「――…っ」
思うよりも先に、つくしの手が動いていた。ぱぁん、とラウルの頬がつくしによって叩かれたのである。
「言葉には、気をつけなさいよ。言っていいことと悪いことがあるの、知らないの?」
「じゃあ、聞くケド。アンタの魅力って、ナニ? 顔がイイわけでもなければ、スタイルがいいわけでもナイ。教養があるカト思えば、そうでもない。一体、アンタのナニがそんなにアイツラを惹きつけるンダ?」
「そんなこと……」
あたしに聞かれたって、とつくしは言葉に詰まる。それは、どちらかと言えばつくしの方が聞きたいくらいなのだ。
どんなに距離を置いても、絶対につくしを手放さなかった司。
司と付き合っていることを知っていても、ずっと側で支えてくれた類。
つくしと同じ立場になるために、すべてを捨ててまでもつくしと一緒になりたい、と願った清之介。
本当に、一体つくしの何がよかったのか。
「俺は、決してアンタに惚れてるワケじゃない。でも、興味はアル。アンタの周りにオトコが寄ってくるのは、アンタに魅力があるカラだ。その魅力を、俺も見つけタイ」
言って、ラウルはまっすぐにつくしを見つめた。
◇ ◇ ◇
『どういうことだよ、類!?』
「……司?」
朝早く、類は携帯の音で目を覚ました。そうして出ると、今度は大きな司の怒鳴り声が頭に響く。朝っぱらから、聞きたい声ではない。
『おい、起きてんのか、類!?』
「ん」
まだ起きない頭を、何とか活動させる。
「どうかしたの?」
欠伸をしながら、類はそう訊き返した。
『どうかしたのじゃねぇよ! 何なんだよ、この記事は!?」
「は?」
『早く起きて、新聞見ろ、新聞っ。牧野が、アーレント社の社長の二男と密会してたって記事が載ってる』
「アーレント社?」
それは、アメリカでもトップレベルの大企業の内の一つである。そのアーレント氏の二男と面識があったなんて、まったく知らない。
「どういうこと?」
今一つ、頭が回らない。昨夜は、確かにこの腕の中につくしがいたのに。
一晩寝て、目が覚めたらそんなことになっているなんて。冗談にしては、性質が悪すぎる。
『俺が聞いてんだよ、だから』
類の呟きに、はぁ、と司のため息が聞こえる。
『とにかく、この記事を書いた奴は、即効でクビだな』
それ以前に、道明寺と花沢から圧力がかかっている状態で記事を書く根性もすごいと思うのだが、類はあえて口にはしなかった。
『総二郎拾って、一度日本へ向かう。詳しい話は、それからだ』
それだけ言い残して、司は電話を切った。類は、まだ呆然としていた。眠いからではなく、信じられなくて。
今の状況が、わからない。司はそういう嘘を吐ける男ではないから、きっと本当のことなんだろう。だが、一体どうして。
重い頭を働かせながら、類は部屋を出て行った。
◇ ◇ ◇
「どういうことなの、ラウル?」
ラウルの前に新聞を投げて、リアは口を開く。
『英語で喋れよ。日本語は疲れる』
はぁ、と深いため息を吐いて、ラウルは英語でそう答えた。
『ごまかさないで、ちゃんと答えなさいよ。この記事、あなたが書かせたものでしょ?』
投げた新聞を指しながら、リアがラウルを睨む。
『よくわかったな。さすがはリア』
リアに近寄り、頬に唇を寄せながらラウルは答える。むっとしたようにラウルを振り払い、リアは続けた。
『茶化さないで。一体、何を考えてるの? つくしさんとは、ただ少し話がしたいだけだって言ってたじゃない。それなのに、こんな記事を書かせるなんて……』
『あれ? もしかして、妬いてるの?』
『ラウル!』
まともに答えようとしないラウルに苛立ち、リアは声を荒げる。そして、今まで笑っていたかと思えば、急に真剣な面持ちでラウルはリアを見つめた。
『そんなわけねぇよな。リアは、兄貴一筋だから』
『……』
ふー、と重苦しい息を吐いて、ラウルはリアの前を横切っていく。
『……ツクシのことは、もうしばらく放っておいて。悪いようにはしないから』
そう、少し寂しげに告げて、ラウルは部屋を出て行った。