花より男子/ユキワリソウ(12)
「そぅ……。西門さん、戻ってきてたんだ」
熱い紅茶を口に含ませて、優紀がそう呟いた。
「今回のは、一時帰国だから。優紀にも誰にも会わないって言ってた。多分、西門さんの家族も知らないと思うよ」
慌てて、つくしはそう付け足す。
類との婚約、そして婚約をした際に出回った、つくしに対する中傷記事。その事態の収束を図る為にF4が類の家に集ったことを、包み隠さずつくしは優紀に話した。
だが、優紀の落ち込んだ表情を見て、さすがに総二郎のことは伏せておくべきだった、と後悔する。
「それにしても、いつの間に花沢さんと婚約なんてことになったの? あたし、全然知らなかったから。ビックリしちゃった」
途端に、優紀はつくしに笑顔を見せる。無理をしている、というのが滲み出ているが。
あえて、言わない方がいいと思い、つくしは斗吾に会ったことや、あきらに相談したことを掻い摘んで話した。額に、ではあるが、あきらにキスされてしまったことは言えない。
「でもよかった。やっぱり、ジェットコースターみたいな恋より、メリーゴーラウンドの方が落ち着けるよ」
優紀の例え話だ。司との恋は、まるでジェットコースターみたいに一気に駆け抜けていた。でも類との恋は、ゆっくりと、ぐるぐる回るメリーゴーラウンドのようだ、と言いたいのだろう。
「花沢類は、どっちかっていうとコーヒーカップに近いかも」
ときどき、ありえないほど加速して、つくしを驚かせる。同じ速度のメリーゴーラウンドよりも、表現的には合っているかもしれない。
「そう?」
首を傾げて、優紀はつくしを見る。どっちでもいいけどね、とつくしは目の前にあるグァバジュースに添えられているストローに口をつけた。
「でも、なんか久しぶりにゆっくりしてる気がする。身体も、心も。最近、ずっと滅入ってたから」
司を待ち続けていた日々に終止符が打たれ、あれよあれよという間に類との婚約が決まって。
司との恋がどうというより、つくしの人生そのものがジェットコースターのように過ぎている。
「あのー、すみません」
つくしと優紀の座るテーブルに、一人の男性が近づいて声をかけてきた。
「もしかして、牧野つくしさん?」
好奇心満載、という表情で、男はつくしを見る。
「そうですけど」
「ああ、やっぱり?」
つくしの言葉を聞いて、男の目が輝き始めた。
「一度、話してみたかったんだよね。どうやって、何人もの御曹司を誑かしたのか?」
(――…な!?)
表情は、常に笑みが耐えないが。聞かれていることは、相当つくしを貶している。さも、当然の質問のように。
「忘れてる人が多いみたいだけど。以前、代議士の御曹司とも噂になってたよね?」
にっこりと、悪魔のような微笑みとは到底思えない笑みを、つくしに向ける。怒りで、手が震える。
「優紀、帰ろう」
立ち上がり、つくしは男の顔を見ないようにレジへ向かう。
「ひょっとしたら、残りのF4の二人も、既に牧野サンの毒牙にかかってたりして?」
本当に、悪気はないのか。表情からは、まったく悪意を感じられない。でも、つくしに向けている言葉は、明らかにつくしを中傷するものだ。
殴りたい気持ちを必死で押し込めて、つくしは優紀と共に店を出て行った。
◇ ◇ ◇
「むっかつくーっ!!」
グローブを片手に嵌め、つくしは思い切りパンチングマシーンのミット目がけて殴りつけた。ばぁん、と勢いよく、ミットがポケットに格納される。思い切り殴ったのに、少しも気持ちが晴れない。
「何だったんだろうね、さっきの人?」
側で見ていた優紀が、ぼそっと呟く。その言葉に反応して、つくしはグローブを外した。
「知らないわよ。あそこが店の中じゃなかったら、とっくに殴ってるっつの」
これ以上、騒ぎは起こしたくなくて。思わず出そうになった拳を、つくしは引っ込めたのだ。
「お店の外でも、殴っちゃだめよ。花沢さんに迷惑がかかるから」
優紀に言われて、う、と言葉に詰まる。
そうだ。今のつくしの立場上、つくしが問題を起こせば、当然類も責任を問われてしまう。だとすれば、こうしてゲームセンターでストレスを発散するしかない、ということだ。
はぁ、とつくしは思い切りため息を吐く。まさか、ここまで周囲の風当たりが冷たいとは思わなかった。
大して可愛くもない一般庶民のつくしが、道明寺財閥の御曹司と付き合っていたり、そうして別れたかと思えば、今度は花沢物産の跡取りと婚約を発表して。世間が面白くないのも、頷ける。
だからといって、確かに告白はされたかもしれないが、まったく交際をしていなかった天草清之介のことまで言われるとは思わなかった。
やっぱり、何度思い出しても腹が立つ。
「でも……。大丈夫、つくし?」
怒りの治まらないつくしを、心配そうに優紀が覗き込む。
「大丈夫って、何が?」
「明日から、大学でしょ? 高校のときも、結構風当たりがキツかったみたいだけど。大学になったら、もっとキツくなるんじゃないの?」
優紀の言っていることは、的を射ている気がする。春休みの間に婚約発表をして、その間はずっと類に守られていた。でも、一歩大学に足を踏み入れてしまえば、四方八方、敵だらけなのだ。四六時中、類が一緒にいるわけではない。
「ま、何とかなるでしょ」
優紀を心配させないように、つくしは持ち前の明るさでガッツポーズを見せた。
◇ ◇ ◇
「ふざけんじゃないっつぅのーーーっ!!」
大学の裏庭で、つくしは空を仰いでそう叫んだ。肩で大きく息をして、はぁ、とその場に座り込む。
大学までの道のり、そして大学に入ってから入学式の間中ずっと、つくしは周りから好奇の目で見られていた。暴れたいのを我慢して、つくしは今、溜まったストレスを発散したのだ。
だが、大声を出しただけでは、どうも散らしきれなくて。これから、あんな目でずっと見られて学園生活を送らなければならないのかと思うと、虫唾が走る。
「どうしたの、大きな声出して?」
ふわっと包み込むように、つくしは後ろから類に抱き締められた。イライラしていた気持ちが、一瞬にして落ち着く。類だけが持つ、独特の空気のおかげで。
「誰かに、何か言われた?」
耳元で囁かれて、思わず、ドキっとする。類の腕から逃れるように、つくしは慌てて離れた。
「な、何も言われないよ。大丈夫。は、花沢類、今日は大学来てたんだね? ていうか、やっぱりだけど、大学って高校よりも広くて、すっかり迷っちゃいそう。迷うと言えばさ、花沢類の家も広いから、案内がないと迷いそうになるんだよね」
ペラペラと喋り出すつくしを見て、類が、ぷ、と噴き出した。
「あんたって、相変わらず」
「な、何……?」
「緊張すると、よくしゃべる」
「!」
類の言葉に、つくしは真っ赤になる。
「可愛いね」
更につくしを煽って、類は笑顔を向ける。こんなたわいのないやり取りでさえ、今は愛しい。
こうして見つめているだけなのは、今も昔も変わらないのに。変わったのは、つくしの立場。親友の彼女から、自分の婚約者に変わった。それが何よりも嬉しくて、思うだけで幸せな気分になれる。
穏やかな表情で、類はつくしを見つめている。その視線に気づくと、つくしは赤らめた頬をもっと赤くし、顔を背けた。その照れ隠しの仕種も、類にとっては可愛くて仕方かない。
「今日、バイト?」
優しく、まるで吐息を漏らすように類が聞く。
「う、うん」
薄茶のビー玉の瞳に見つめられると、まっすぐに前を見れなくなる。
「何時まで? 迎えに行くよ」
「え? い、いいよ」
首を振って、つくしは類の申し出を断る。
「俺が会いたいんだ。迎えに行かせて?」
切なそうに言われてしまっては、つくしには断ることなどできない。
朱に染まった顔を見られないように視線を下に落として、つくしはバイトが終わる時刻を告げた。
◇ ◇ ◇
「引っ越さない?」
「は?」
類に家まで送ってもらう途中の車の中で、つくしは不意にそう言われた。
「今、何て?」
確認するように、つくしは聞く。
「だから、引っ越ししない?」
「……」
答えは、一緒だった。唖然として、つくしは何も言えなくなってしまった。
「父さんと母さんが。できれば一緒に住んでほしいけど、嫌なら、もっとセキュリティがしっかりしたマンションに引っ越してほしいって」
類の婚約者という立場になったことで、つくしの安否を心配した類の両親が言い出したことである。でもそれは、類の願いでもあった。
「む、無理っ。今のバイト代だけじゃ、今以上の家賃なんか払えないってば」
「こっちで払うよ」
言うと思った、とつくしは予想通りの答えが返ってきたことに、開いた口が塞がらなくなる。
「花沢類、あのね」
「牧野」
つくしの言葉を遮って、類はつくしを見つめる。信号は、赤だ。
「俺の心配を少しでも減らすために、言うこと聞いて?」
ズルい、と思う。そんな表情をして言われたら、素直に頷かないつくしが悪いような気がしてくる。
黙り込んでしまったつくしの頭を撫でて、そっと肩を引き寄せる。信号が青になっても、類は片手で運転を始めて、つくしを離さなかった。
「あんたの性格じゃ、そんなことはできないよね」
「……ごめん」
素直に好きな人に甘える、可愛い女には一生なれないと思う。後ろからついて行くのではなく、常に隣に立っていないと気がすまないのがつくしである。
そういうつくしだから、類も好きになったのだが。たまには素直に言うことを聞いてほしい、とも思っていた。
「父さんが、マンションを買ってくれたんだ。その一室を、あんたに貸すよ。ちゃんと家賃は貰うから。もちろん、今の家賃と同じでいい。それなら問題ないでしょ?」
「ありがとう、花沢類」
本当に、この人は。つくしのことを、とても理解してくれている。つくしに負担がかからないように、つくしが借りやすいように。本当ならもらわなくてもいい家賃をもらう、とまで言ってくれる。
「だから、あんたのごめんとありがとうは聞き飽きたって」
くす、と笑んで、類は信号の合間につくしに唇を寄せる。りんごみたいに真っ赤に頬を染めるつくしを見ているのが、楽しくて。
静とパリで暮らしていたときも、最初の頃は幸せだったけれど。こんなに穏やかな幸せは、初めてだった。
◇ ◇ ◇
「ふぅ」
洋服をタンスに収納し終えて、つくしは息を吐く。部屋中を見回して、何だか楽しくなった。これから、ここで生活をするのだ。
家賃は同じだけれど、部屋の広さは倍以上になって。申し訳ないな、という気持ちが芽生える。
「牧野、終わった?」
類が、そう言いながらつくしの様子を伺う。
「うん。こっちは終わり」
立ち上がって、つくしは類のいる方へ足を向ける。
「俺、ここで一緒に暮らしてもいいって親に言われてるんだけど?」
にこにこしながら、類がそう言う。え、と戸惑って、つくしは返事に困る。婚約はしたものの、まだ一緒に暮らす勇気はない。恥ずかしくて、暮らせない。
「その内、一緒に暮らそ」
言って、類はつくしの額に口付ける。ほっとして、つくしは胸を撫で下ろした。
いつも、こうやってつくしは類の優しさに甘えてしまっている。類が望んでいることの、半分も叶えてあげられないのに。
「せんぱーい。お茶にしましょう?」
リビングから、桜子の声が聞こえる。慌てて、つくしはリビングへ足を向けた。ふぅ、と息を吐いて、類もそのあとについて行く。
「ごめんね、手伝わせて」
引っ越しの手伝いに来ていた、あきらと桜子、そして優紀に向かってつくしは声をかける。
「いいよ、暇してたし」
「ここきれいだったから、掃除する必要もなかったけど」
あきらと優紀が、声を揃えて言った。
「てか、ジュースなくなりそうじゃん。あたし、ちょっと買ってくるよ」
机の上に置いてあった財布を取って、つくしは玄関に向かう。
「あ、俺も……」
「いいって。花沢類は、座ってて」
類の申し出を断って、つくしは足早に出て行った。
「少しでも一緒にいたいって男心、先輩には一生わからないかも」
ぼそっと呟いた桜子の言葉に、全員、納得してしまった。
◇ ◇ ◇
「ありがとうございましたー」
買い物をすませ、つくしは急いで家に帰ろうと足を動かした。コンビニを出て数メートルの場所で、つくしはある男とすれ違ったのだが。
「……」
一瞬立ち止まり、考える。どこかで見たことがあるのだが。振り向いて、つくしは男の後ろ姿をじっと見つめた。
「あ!」
思い出して、つくしは男に走り寄る。そして、男の服の裾を引っ張った。
つくしに引っ張られた反動で、いて、と呻き声を漏らして、男は少し身体を後ろに反らしてつくしを向く。
「あ、牧野つくし」
先日、つくしを貶したことなど忘れたように、男は平然としている。
「偶然だね。何? 俺に用事?」
男の声に、つくしは拳を震わせる。何気ない話をしているだけでイライラする人は、久しぶりだ。
「あんた、この間あたしに何を言ったか、忘れたの?」
「覚えてるよ。何? もしかして、謝って欲しいの?」
「……」
「嫌だよ、俺。謝らないよ」
まったく、悪いことはしていない、とでも言いたげな男に、つくしの怒りが沸々と湧き起こる。類のことなど忘れて、本当に殴ってしまいそうだ。
「ああ、そうだ。じゃあ、これあげるよ」
男はそう言って、ポケットから折りたたみ式の手鏡を取り出した。
「横にスイッチがあるんだけど、このスイッチを入れると鏡の部分が光って、暗い場所でも問題なし」
言いながら、男は手鏡のスイッチの説明をする。それからまた折りたたんで、つくしの手に握らせた。
「お詫びのつもり。それで許して」
じゃ、と言い残して、男は一目散に逃げ出した。呆気にとられ、つくしは男を追うこともできずに見送ってしまった。手の中に握らされた手鏡を見て、つくしは深くため息を吐く。
「こんな物で騙された……」
はぁ、と肩を落として、つくしは重い足取りを家に向けたのだった。