花より男子/ユキワリソウ(11)
『ごめんなさいね。そういうことだから』
「はい。ご迷惑をおかけして、すみませんでした」
電話を切って、つくしは深くため息を吐く。
つくしは、意を決して類の婚約者となった。それが災いし、つくしのアパートだけでなく、バイト先や友人の家にまで、報道陣がつめ寄っているらしい。今の電話は、当分、バイトには来ないで欲しい、との連絡だった。
「らしくない、な」
ぽつり、とつくしは呟く。昼間だというのに、カーテンを閉め切って、電気を点けている。
玄関の外からは、ざわざわと声が聞こえる。つくしが出てくるのを、今か今かと待ち侘びているのだ。
一人、部屋に座っていると。自然と、涙が込み上げてくる。自分で選んだ道なのに。こうなることは、必然だった。それなのに、こうして落ち込んで、部屋の中で蹲っているなんて。
「道明寺が見たら、怒られそう」
ふふ、と口元が綻ぶと同時、涙が頬を伝った。頑張ると決めたのに。類の婚約者になると決意した時に、何があっても頑張ろうと思ったのに。もう、躓いてしまいそうだ。
類の両親が優しいから、錯覚を起こしてしまっていた。でも、間違いなく類も社長の息子には違いないのだ。一般庶民のつくしとの婚約を、世間がすんなり受け入れるはずがない。
それも、もともと類の親友である司とも交際していた女だ。世間の反感を買うのも、当然かもしれない。つくしを中傷する記事も、仕方がないと諦められる。でも、類が側にいないのが……ツラい。
そのとき。コンコン、と玄関をノックする音が聞こえた。あれ、と耳を澄ませば、先ほどまで騒いでいた報道陣の声は聞こえなくなっていて。
「牧野。俺」
聞こえたのは、愛しい男の声。慌てて、つくしは玄関の鍵を開ける。
「ごめん、遅くなって」
中に入って鍵をかけると、類はつくしを抱き締める。ほっとして、涙が出そうになった。
「いろいろ、手間取っちゃって。でも、もう大丈夫だから」
つくしの髪を撫でながら、安心させるように類が言う。類の腕の中にいると、さっきまでの不安が一気に吹き飛んでしまう。言葉はなくても、安心する。
「とりあえず、俺の家に行こ? ここにいるよりは安全だから」
つくしの目尻に溜まった涙を拭い、類は微笑んでそう言った。
◇ ◇ ◇
待ち侘びていた携帯が鳴って、類は、やっと繋がった、と安堵の息を吐く。
「司、新聞……見た?」
開口一番、類はそう訊いた。朝6時からずっと連絡を取っていて、ようやく司から連絡が来たのは10時前だった。
『ああ。散々だったな』
電話の向こうで、ばさ、と音がする。多分、今も新聞を広げているのだろう。
「それで、頼みがあるんだけど」
『わかってる。こっちからも、圧力をかけておく』
新聞社が、これ以上つくしを中傷する記事を書かないように。花沢だけでなく、道明寺からも同時に圧力をかけておけば、より一層安心できる。
「頼りにしてるよ、司」
『気持ち悪いこと言うな、類』
自然と、笑みが溢れる。つくしの事を想って、殴ったこともあったけれど。やっぱり、一番の親友で、信頼できる仲間だ、と互いに実感する。
『昼過ぎに、日本に着くようにジェットを飛ばす。類、家にいろよ』
「え? うん、わかった。でも、どうして急に?」
司が忙しい人間だということは、誰もが知っている。その司が急を要して日本へ来るのには、何かしらの理由があるはずだ、と思い、類は問う。
『ちゃんと、顔を見て言いたいことがあってよ』
「殴られるのはごめんだよ?」
『馬鹿。俺が殴るかよ』
その司の言葉ほど、信用できないものはない。
「出産、いつなの?」
話題を変えるように、類が声を和らげる。さすがに、新婚の司に、こう暗い話ばかりをしていては申し訳ない。
『あー。実は、な。――…流産したんだ、滋』
「え?」
『いろいろ、立て続けにパーティとか重なってよ。忙しくて、俺に余裕がなかったんだ。滋が体調を崩してたことに、まったく気づいてやれなかった』
つくしのことならあんなにわかるのに、と類は思った。つくしを理解できていなくても、細かい体調の変化にはすぐに気づいていたように思える。その細かい気遣いが、滋に向けられることはなかったのだ。
『腹が痛ぇって滋が倒れたときは、もう手遅れだった。最低だよ、俺は。女一人、幸せにしてやることさえできねぇ』
「司……」
弱々しい司の声が、電話越しでは尚更弱々しく感じる。
決死の覚悟で賭けをして、それに負けてつくしと別れを決意したというのに。その負けた原因である子供を、まさか流産していたなんて。
滋が妊娠していたことは世間では知らされていなかったため、流産したという情報も、当然類には届いていなかった。
『悪ぃな、暗い話ばっかでよ。もっと、楽しい話をしてやりたいんだが』
「他人に気を遣うなんて、司らしくないじゃん。もっと、俺さま的な発言しなよ」
類なりの、精一杯の思いやりだった。それを察したように、司の口調が柔らかくなる。
『サンキュ、類。おまえが牧野の側にいてくれて……、本当に感謝してる』
司が、今もどれだけつくしを想っているのか。第三者が聞いても理解できるほどの愛を、司はつくしに注いでいる。それはきっと、滋にも痛いほど伝わっていただろう。流産の原因は、連日の疲れだけではないような気がする。
「司に感謝される覚えはないよ」
類と一緒にいれば、つくしは幸せになれる。司は、そう確信していた。司と交際している間、そして交際する前からつくしを影ながら支えてきた、類が側にいるならば。
何より、司が最も信頼している、一番の親友なのだから。
◇ ◇ ◇
「つくしさん!」
花沢邸の玄関を開けると、すぐに雅が走り寄ってきてつくしの手を取った。
「ごめんなさいね、大変なことに巻き込んでしまって」
「いえ。あたしが、自分で蒔いた種ですから」
雅の謝罪の言葉に、つくしは慌てて首を振る。
「自分で蒔いた種なのに、自分で摘めなくて。花沢類に、迷惑ばかりかけて。本当に、すみません」
深々と下げる頭を、雅がやめさせる。
「謝ることはないわ。類さんがつくしさんを守るのは、婚約者として当然のことだもの」
「お義母さま……」
優しい雅の言葉に、涙が出そうになる。司の母・楓もここまで優しかったなら、つくしは司と別れずにすんだのだろうか、と類に対して失礼なことを、思ってしまった。想像でも、してはいけないことなのに。
「ま・き・の」
声が聞こえて、つくしは声のした方を向いた。うそ……、と呟いて、口元を手で覆う。
「ひさびさの、F4勢揃いって感じ?」
呆けるつくしに悪戯な視線を送り、総二郎がそう言う。総二郎が旅立つ前日、愛を告白されて抱き締められた。
おかげで、その翌日はまっすぐに総二郎を見ることができなかったけれど。今なら、はっきりと見ることができる。類と正式に婚約した、今なら。
「今朝の報道を見て、駆けつけてくれたんだぜ?」
そう言って、あきらが微笑む。
「総二郎がどこにいるかわからなかったから、ちょっと時間がかかっちまったけどな」
総二郎を小突きながら、司が言った。まるで、高校生の頃に戻ったみたいに。懐かしい雰囲気に、自ずと涙が溢れ出す。
司の結婚式で一度は集まったものの、あのときはつくしが正常ではなくて。まともに、F4の再開を喜んでなどいられなかった。
でも今は、素直に喜べる。司がニューヨークに旅立ってから、実に1年振りのF4を。
ふー、とコーヒーを覚ましながら、つくしはカップに口をつける。目の前では、F4がざっくばらんに寛いでいる。優しいコーヒーの香りとその光景が、つくしの心を癒してくれるようだった。
「総二郎、今どこらへんにいるんだ?」
あきらが、総二郎に視線を向けて訊く。
「秘密」
人差し指を立て、口元に寄せて総二郎は答える。
「トルコで拾った」
「あっ。司、てめぇ……!」
さらっと司が言うと、総二郎は司を殴る素振りを見せた。
「俺たちにくらい、どこにいるか教えとけ。また何かあったときに、捜すのが面倒だ」
瞬間、つくしの背筋に悪寒が走った。何となく、今回の騒ぎだけではすまない、何かが起こりそうな。そんな気がする。
身震いしたつくしに気づき、類はつくしの隣に座って肩を抱き寄せた。ちゃんと、護るから。類の空気が、そう言ってくれている。
「あれ? つーか……」
そんな類とつくしの様子を見た総二郎が、怪訝な表情をしてじっと二人を見つめる。
「……何?」
不機嫌そうに、類が総二郎を睨んだ。
「牧野、鉄パン脱いだ?」
総二郎に図星を指されて、ぎく、とつくしは狼狽し始める。その言動が、総二郎の言葉を肯定しているなんて、本人は気づきもしない。
「ば、馬鹿じゃないの!? いきなり、何言い出すのよ!? だ、大体、西門さんて、いっつもそんなことばっかり言って。もう少し、違うことに神経使ったら? 茶道の家元になるんでしょ? そんなんじゃ、西門流も先が思いやられるわね」
ペラペラと、次から次へ言葉が出てくる。その慌て振りに、全員がため息を吐く。
「そっか。あの牧野も、とうとう脱いじまったか」
あきらが、しみじみとつくしを見て呟く。
「よくわかったな、総二郎?」
「俺を甘く見るなよ? 処女かそうじゃないかくらい分かる」
司の質問に、総二郎は得意顔で答える。
「牧野、わかりやすい」
ぼそっと類に言われて、つくしの顔はみるみる真っ赤に染まった。わかり易すぎ、と言われても、つくしにはどうすることもできなくて。類と関係を持ったことがF3にバレてしまった。そのことが、この上なく恥ずかしい。しかも、まだ1度だけだというのに。
「類と、したのか」
司の呟きに、一斉に司を見やる。司は、複雑な表情を浮かべていた。
「悪い。この手の話題、やっぱ俺にはまだキツい」
立ち上がり、司は類の部屋から出て行ってしまった。いきなり類に殴りかからなかっただけ、司も大人になったように思える。
お互い、嫌いになって別れたわけではないから、余計にツラい。嫌いになれたら、どれだけ幸せかわからない。でも、そうはできなくて。
新しい幸せを、つくしは見つけたけれど。司は、たぐり寄せた幸せさえも、逃してしまったのだ。
「俺のせいだな、悪い」
はぁ、と総二郎が深くため息を吐く。
「総二郎のせいじゃないよ。遅かれ早かれ、いずれはわかることだし」
つくしを抱き寄せる腕に力を込めて、類が言う。まるで、つくしは放さない、と言わんばかりに。
「ま、婚約したんだし。当然の流れだよな」
類の言葉に、あきらが付け加える。婚約から結婚という流れの中で、そういう行為は必然であり。司も、滋とそうなったわけだから子供ができたのだ。
そう、全員が思ったのを察して、類が思い出したように口を開いた。
「……大河原滋、流産したみたいだよ」
類が平然と言った言葉に、全員驚いて目を丸くした。
◇ ◇ ◇
「じゃ、トルコで総二郎捨てて、俺もそのままニューヨークに戻るわ」
「またな」
言いながら、司と総二郎は、つくしと類、そしてあきらに手を振ってジェットに乗り込もうとする。
「――…」
「司?」
立ち止まった司の顔を、総二郎が覗き込んだ。
「悪ぃ。ちょっと」
振り返り、司は小走りに駆け寄ってつくしの前に立つ。いつになく、真剣な表情だ。
「ちゃんと、顔見て言わなきゃって思って来たんだが。実際、見ると……どうも、言葉に詰まってな」
司が言いたいことがわからず、つくしは首を傾げる。一呼吸置いて、司はまっすぐにつくしを見据えた。
「おめでとう、牧野」
「……道明寺」
たった、一言だけれど。その一言も、司にしてみれば精一杯なのだろう。自分以外との恋を、応援なんてしたくない。でも手を離してしまったのは、他ならぬ司自身だから。
そうして、その手を拾い上げたのは類だ。つくしの相手として、これ以上の人間はいないと思える、大切な親友である。
司の気遣いに、つくしは溢れる涙を止められなかった。あんなに我儘で自由奔放だった司も、大人になったんだな、と感慨深くなる。
初めて、自分が幸せにしてあげたいと思った、大切な人。離れて過ごすようになってからも、その気持ちは変わらなくて。
でも、不安でいっぱいの毎日を過ごしていた。そんなつくしを、類はいつも側で励ましてくれた。支えて、くれた。
類だけではない。総二郎やあきらも、つくしを大切に思ってくれていて。いつも、気にかけてくれていた。
こんなにもたくさんの人たちに支えられ、励まされていたことに、つくしは改めて賞賛の意を讃えたくなった。
「類」
司は類を向いて、声をかける。
「俺が言えた義理じゃねぇが。牧野のこと、泣かすなよ」
「当然でしょ」
拳を握り、互いの目線の高さでそれを合わせる。そうしてつくしには聞こえないように、司はそっと類に耳打ちした。
「何かあれば、いつでも言ってこい。牧野のためなら、人殺しだって何だってやってやる」
「司が言うと、本当にしそうで怖いよ」
「俺は、本気だぜ?」
ははは、と声に出して、二人は笑い出す。男と男の友情は、なんて素晴らしいのだろう、とつくしは思ってしまった。この友情に、一時はヒビを入れてしまったことを、本当に申し訳なく思う。
でも今は。一人の女を奪い合った、恋敵として。互いに認め合った大切なつくしを、幸せにしてやりたい。
それは、類と司、共通の願いだった。