花より男子/ユキワリソウ(1)
つくしは、司が『運命の人』だと信じていた。だが司にとってのそれは、つくしではなかったのだろう。
ポストに入っていた、結婚式の招待状。その差出人を見た瞬間、信じてきたものがガラガラと音を立てて崩れていくのがわかった。
「道明寺もさー。言ってくれればいいと思わない?」
とんとん、と包丁を動かしながら、つくしは口を開く。空元気なのが、痛々しいほどに伝わった。
「言いづらかったのかもしれないけどさ。こんなふうに、いきなり招待状とか……」
「無理するなよ」
居間に座っていたはずの類が背後に立っていて、つくしは思わず包丁を止めた。ぽん、と頭に置かれた類の大きな手が、つくしの涙腺を壊す。
「……っ」
ポロポロと溢れる涙を止める術もなく。つくしは、手に力を入れて嗚咽を漏らした。
包丁を握っていた手に、類の手が添えられる。そうして背中に、優しい体温を感じた。
「ここにいるから」
かたん、と包丁を置いて、つくしは類の胸に顔を埋める。そうしてしまえば、もう我慢はできなくて。忍んでいた涙が、声と共に溢れ出した。
『4年後、必ず迎えに来る』。そう言い残してニューヨークへと旅立った司を、つくしはずっと待っていた。
初めの内は来ていた連絡も、時差の関係でなかなか取れなくなり。3ヶ月目には、一切なくなってしまった。
不安で仕方がなくて。でもそれを、口にはできなくて。ずっとずっと、我慢して。
その結果が、滋との結婚である。
涙が出てしまえば、色々な疑問が頭を過るから。だから、泣かないように頑張っていたのに。
類は、そんなつくしの決意も涙腺も簡単に壊して、そうして優しく包み込んでくれる。昔からそうだ。この優しさは、変わらない。
回された力強い類の腕に、今までだって何度助けられたかわからない。いつだって、つくしのピンチには必ず側にいてくれた。司に側にいて欲しいと願った時も、司に言って欲しいと思った言葉も、すべて類がくれた。
どんな時でも、類だけは味方でいてくれた。
この優しさに甘えてしまうのは、ズルいことだとわかっている。わかっているのに、頼らずにはいられなかった。
◇ ◇ ◇
鏡の中の自分と、つくしはそっと手を合わせる。
今日は、司と滋の結婚式。みんなが2人を祝福するためにここに来ているのに、つくしの今の表情は、とても祝いの場に行けるようなものではなくて。
そのまま、こつん、と額を鏡につけた。
(……やっぱり、無理)
きゅ、と唇を締めて、つくしは踵を返す。こんな気持ちのまま、式に参列なんかできない。
「逃げるの?」
どん、と広い胸板にぶつかって。小さなつくしの肩を優しく包んだのは、類の大きな手のひらだった。
「こういう逃げ方は、あんたらしくないんじゃない?」
「……」
自分らしくないのは、重々承知している。それでも、どうしても現実を受け入れられなくて。逃避しようとしている自分を、消すことができなくて。
「側にいるから。ちゃんと、支えててあげる」
類の言葉が、すぅ、と沁み入るように響いた。もう、何度感謝したかわからない。
徐に、つくしは類の胸に身体を委ねる。耳元で静かに響く類の心音が、つくしの気持ちを落ち着かせた。
『道明寺家控え室』と書かれた貼り紙を見て、つくしの心臓が鷲掴みされたように痛んだ。改めて、司が結婚するのだという事実がつくしに伸しかかる。
そんなつくしに気づいたのか、そっと類がつくしの手を握ってきた。見上げれば、ただ黙って優しく類は微笑んでくれる。気持ちが、癒される。
「類、牧野」
控え室に入らんとする総二郎とあきらが、つくしと類に気づいて手を上げた。懐かしい空気に、つくしはほっとする。
「もう司に会った?」
「まだ。今から」
類の質問に答えて、総二郎がドアをノックする。はい、と司の懐かしい声が返ってきて。今更なのに、会いたい気持ちが浮上してきてしまった。
こんな状況でなければきっと素直に喜んでいただろう、司との再会。ずっと、待ち望んでいたはずだった。
ぎぃ、と鈍い音をさせながら、総二郎はドアを開く。暖かな光と共にドアが開かれ、思わずつくしは瞳を背けた。そうして眩しさがなくなるにつれて、部屋の中央にある男の影に気づく。見間違えようのない、愛しい男の姿に。
「よぉ、お前ら。久しぶりだな」
室内から響く声に、どくん、とつくしの心臓が波打つ。思わず手に力が入り、類は繋いだ手がきつくなるのを感じた。
司からは見えないように、徐に身体の後ろに繋いだ手を隠す。
「……牧野も、来てくれたのか」
穏やかな表情で、司はつくしを見つめる。
「招待状、届いたから」
泣きそうになって、つくしは目を逸らした。色々聞きたいことがあったのに、言葉にはできなくて。それだけ言うのが精一杯だった。
「招待状? ……ああ、ババアが出したのか」
はぁ、と頭を掻きながら、司は深く息を吐き出す。
「司、お前……、何で急に?」
つくしに気を遣いながら、総二郎がそっと司に近寄ってそう尋ねる。申し訳なさそうな表情をして、司はつくしを見やった。
「子供ができた」
「―――…」
衝撃的な言葉に、つくしは持っていたバッグを床に落としてしまった。
目の前が、真っ暗になる。
子供ができたということは、つまり司が滋と情交を結ぶ関係だったということだ。一体、いつの間にそういう関係になっていたのだろう。
ずっと連絡をくれなかったのは、それが原因だったからなのか。滋とそうなったから、だからつくしはもういらないという意味だったのか。
次から次に、聞きたいことが頭を過る。でも、言葉にはならなくて。倒れそうになるつくしの肩を、類が両手で支える。それで何とか、つくしは立っていられた。
でも類が両手を離せば、その瞬間に崩れ落ちてしまうだろう。
「子供って、司の……?」
「当たり前だろ」
恐る恐る口を開いたあきらに、さも当然のように司は答えた。
「牧野の、ことは?」
総二郎が、唾を飲む音が聞こえた。思いがけない司からの告白に、総二郎も戸惑いを隠せない。
「……類が、いる」
つくしから視線を外して、司は背を向ける。ぐ、と類の手に力が入ったのがわかった。きっと、司を殴りたいのだと思う。でも手を離せばつくしが立っていられないのがわかって、それができない。
見上げれば、歯痒そうな類の表情がつくしの目に映った。
◇ ◇ ◇
きぃ、とブランコの鉄の軋む音が辺りに響く静かな夕方の公園に、つくしはいた。とても、結婚式に出席する気分にはなれなくて。
「じゃあ、一緒にいるよ」
類が、つくしの手を握り直してそう言った。ううん、と首を振って、つくしはそれを断る。
「親友の結婚式でしょ。花沢類は、ちゃんと出席しなきゃ」
「……じゃ、ロビーで待ってて。終わったら、すぐに来るから」
そう言い残して、類はつくしを置いて結婚式場に足を向けたのだった。
しばらく、つくしは類との約束通りロビーの椅子に腰かけていた。その間、様々な人が道明寺家と大河原家の話をしているのが、つくしの耳に届いて。聞きたくないのに、勝手に耳に流れ込んできて。
それが嫌で、つくしは誰にも告げずに式場を飛び出したのだった。
――子供ができた。
司の言葉が、頭に響く。どうして、つくしではダメだったのか。今日司の隣にいる相手は、何故つくしではなかったのだろうか。
何故、どうして、を言い出せば限りがない。けれど、それでも思わずにはいられなかった。
「みっ、けた……っ」
はぁ、と荒い息遣いを、つくしは耳元で感じた。それと同時に、きつい抱擁を。
「ロビーにいてって、言ったのに」
つくしを抱き締めたまま、類は肩で息をする。いるはずのつくしがいなかったので、きっと心配して周囲を探し回ったのだろう。
いつも冷静な類がこんなに呼吸を乱しているところなんて、初めて見た。
「ご、ごめん……」
どれだけ類に心配をかけてしまったのか。今の類の状態を見れば、それが痛いほど伝わる。考えるより先に、素直に言葉が出ていた。
「勝手に、いなく……なるなよ」
息も切れ切れに、類は言葉を繋げる。類の優しさが、胸に響く。
「戻れる? 戻りたくないなら、このまま一緒に帰ろう」
つくしから離れて、類は優しく問う。戻れば、司と滋に会ってしまう。友達として、おめでとうと言わなければならないのに。会いたくない気持ちの方が、大きくて。
つくしは俯いて、言葉を失くした。ぽん、と大きな類の手が、つくしの頭を撫でる。
「帰ろ」
「……でも」
親友の結婚式なのに。ちゃんと、最後までいなくてはいけないのではないだろうか。司の、一番の親友として。そして、大切な幼馴染みとして。
「あんたは、何も気にしなくていいよ。俺が勝手にしてることだから」
「……」
きゅ、と唇を噛み締め、つくしは立ち上がり類を見つめる。
「あたしなら大丈夫。行こう、花沢類」
本当は、このまま帰りたい。司と滋が一緒にいるところなんて、見たくない。
でも、類にばかり無理をさせるわけにはいかないから。つくしのせいで、親友との間に溝を作らせるわけにはいかないのだから。
◇ ◇ ◇
「つーか、マジで。今回は、牧野に同情するぜ」
「同感」
グラスを手に取って、総二郎とあきらは顔を見合わせた。高砂にいるのは、親友の司と滋だった。ついこの間まで、司の隣にいたのはつくしだったのに。
一体どうして、急にこんなことになってしまったのか。
「あ。類」
総二郎が、披露宴会場に姿を現した類に手を上げる。披露宴といっても式自体は既に終わっているため、辺りは随分と騒がしかった。
「牧野……。大丈夫か、お前?」
類の後ろからひょっこり頭を見せたつくしに気づいて、あきらが声をかける。うん、と笑顔で、つくしは答えたのだが。無理をしているのが、十分に伝わる。この状況で、無理をするなという方が酷なのかもしれない。
「滋さん、すごく道明寺のことを好きだったし。今までこうならなかったのが、不思議なくらい」
招待状が届いた時は、さすがにひどく動揺してしまったが。今、つくしの気持ちはゆったりとしていた。それは、多分きっと。
ちら、と繋いだ手の先を見上げれば、にっこりと微笑む類の姿。類の存在が、つくしを落ち着かせてくれたのだと思う。類がいなければ、きっと立ち直れなかった。
ずっと、類は手を繋いでくれている。今ではそれを自然に、つくしも受け入れていた。この手の支えがあるから、今つくしは立っていられるのだ。
「司」
不意に口を開いた総二郎の言葉に、つくしは振り返る。滋の肩を抱いた司の姿が、そこにあった。
「悪阻がひどいらしくてな。部屋で休ませてくる」
口元を手で押さえ真っ青な顔をした滋を、穏やかな表情で見つめて司は言う。目の当たりにして、落ち着いていたはずの心臓はまた騒ぎ出してしまった。司への想いを、改めて認識してしまう。
友達として、滋に声をかけるべきなのかもしれない。でもどんな些細な言葉でも、今はかけることができなかった。
薄情だと思われるかもしれないが、今口を開けば、きっと涙が溢れてしまうだろうから。
「類、ちょっといいか?」
滋の肩を抱いたまま、司は類を見る。はっとして類の手を離そうとしたつくしの手を、類は離すまいときつく握った。
「行って、花沢類。大丈夫だから」
「でも」
微笑んで、つくしはそう言うが。放っておけるわけがない。今にも崩れ落ちそうなほど、ショックを受けているのがわかるのに。
「俺たちが、ちゃんと監視しとくよ」
「行け、類」
つくしの肩に手を乗せて、総二郎とあきらが類にウインクをする。
この場で、総二郎でもあきらでもなく類を呼ぶということは、きっとつくしに関する大事な話があるからだろう。司も類も大事な親友で、大切な幼馴染みで。司にも、多分考えがあって。
それを聞いて欲しいというのならば、そうしてあげたい。ちゃんと納得のできる理由があるのなら、説明して欲しい。
特に、ずっとつくしを想っていた類にだけは。
司にも、類がどれほどつくしを愛していたかわかっているつもりだ。
だからこそ、類にだけは今のこの状況をきちんと説明すべきだと判断した。
「……」
類は名残惜しむように、不安げな表情で類を見つめるつくしの手を離した。