ストーカーキューピット/逢坂と飴玉


 その日は、朝から喉の調子が悪かった。
 おまけに部署外のミスが、回り回って逢坂に託され、夕暮れまでずっと先方で謝罪の言葉を口にし続けた。

「ごほっ」

 エレベーターの箱の中、遠慮がちに咳をして、壁に頭をつける。冷えた無機質の壁が、今日の逢坂には気持ちいい。

 やっとの思いで自分のデスクまで戻ってくれば、未決裁の書類が山積みになっている。今からこの書類に目を通し、部長のところまで持っていかなければならない。

「ごほっ」

 オフィスにはまだちらほらと社員が残っているが、逢坂とは目を合わそうとせず、帰り支度をしているようだ。
 別に、仕事を振ったりしないのだが、と思いながらデスクにつくと、お疲れ、と缶コーヒーが置かれた。

「俺で問題ないのは、全部確認して、上に回したから。そこにあるのは、おまえじゃなきゃだめなやつ」

 神楽坂がそう言って、ぽん、と肩に手を置いてくる。

「悪かったな」

 助かった、と咳き込みながら感謝を伝えれば、眉間に皺を寄せられた。

「なに? 風邪?」

「わからん。どうも調子が悪くてな」

 神楽坂は先日、第一子となる女の子が産まれたばかりだ。風邪だった場合、うつしたらまずいと思い、早く帰れ、と言わんばかりにしっしっと手を振る。

「じゃあ、先に帰るわ。おまえも、ほどほどにな」

「ああ。これ、ありがとな」

 逢坂の気遣いに帰ろうとする神楽坂に、缶コーヒーを上にあげて感謝を述べると、神楽坂は背中越しに手を振って、オフィスをあとにした。

 さて、と逢坂は、未決裁の書類から優先順位をつけていく。翌日に回せるものは翌日に回して、今日はとっとと帰ろう。

「ごほっ」

「あ、あのぅ……」

 デスクの前に、一人女性社員が立っていて、逢坂の顔を伺っている。見覚えがあるその社員は、先月同じ部署に配属された女性だ。
 確か名前は……。

「及川か。どうした?」

「ご迷惑かと思ったんですが、これ……」

 恐る恐る逢坂のデスクに置かれたのは、飴玉が2つ。コロン、と転がったそれに、逢坂は目を丸くする。

「私、咳が出るときって、飴とか口に入れてるとちょっと落ち着くんですよね。それで、もしかしたら飴を食べたら、咳が落ち着くんじゃないかなって思って。いや、あくまで私がそうなだけで、絶対ってわけじゃないんで、確証はないんですけど、でも食べないよりはいいかなーと思って」

「わかった、わかった」

 だだだっと慌てたように言葉を発する汐を、逢坂が呆れたように沈静させる。
 逢坂が、はー、と深く息を吐き出すと、汐は、びくっと肩を震わせて、持っていたカバンをぎゅっと胸に抱いた。

「す、すみませんっ。余計なお世話でした!」

「及川」

 一方的に頭を下げて帰ろうとする汐に声をかけると、ひく、と頬を引くつかせて止まるのに、ありがとう、とお礼の言葉を告げる。

「ありがたくいただく」

「は、はい」

 今度はゆっくりお辞儀をして、まるでロボットのような足取りでオフィスを出た汐は、オフィスから出た瞬間、バタバタと走っていった。
 その様子を見ていた逢坂が、ふ、と口元を緩ませて、机上に置かれた飴を手にする。

 『いちごミルク』と『黒蜜みるく』と包み紙に書かれた飴は、逢坂なら絶対に買わないものだ。喉が痛いとわかっているのに、なぜこんな甘いものをチョイスしたのか。
 そもそも、逢坂に渡すために買ったわけじゃないと察し、笑みが零れる。

 その1つを包み紙から外し口に放ると、普段感じない甘さが、口の中に広がった。喉の痛みに、その甘みがまとわりついて、なかなか、どうしたことか。
 笑いが、込み上げてくる。

 何年も仕事を一緒にしてきたやつらでさえ、今日の逢坂とは目も合わそうとしなかったのに、咳き込む逢坂を放っておけなかったばかりに、怯えながら声をかけてきて、持っていた飴玉を渡してくるなんて。

「甘いな」

 くつくつと、声を上げて笑いそうになるのを堪えながら、汐が出ていったばかりの入り口に視線を送る。
 久しぶりに、興味深い女性がいたもんだ。

 逢坂は口内に広がる甘さを噛み締めながら、デスクの書類に手を伸ばした。


ストーカーキューピット/逢坂と飴玉■END