しゅごキャラ!/木の実は本へ落つ


「……ねぇ、イクト?」

「ん?」

「……」

 顔を見れば、何も言えなくなって。結局、何でもない、と言って亜夢は俯いてしまうのだ。

「……」

 幾斗は、繋いだ亜夢の手をきつく握り締めた。
 不安にさせているのは、重々承知している。でも、言い出せなくて。
 刻一刻と、その日は迫っているのに。誰よりも先に、亜夢に言わなければならないのに。

 ぴた、と歩みをやめて、幾斗は亜夢を振り返る。そうして繋いでいた手を離し、まっすぐに亜夢を見据えた。
 真剣な、その眼差しが。亜夢にとって、きっと喜ばしくないだろう台詞を言われることを彷彿させた。

「――別れよう」

 そもそも、付き合っていたのか、と亜夢はとんちんかんなことを思ってしまった。

 付き合おう、と言葉にしていなくても。それまでの亜夢と幾斗は、傍から見れば確かに恋人同士だった。
 休みの日には会って、触れ合って、キスをして。愛の営みも、もちろんあった。

 幾斗の言う別れとは、それを全部やめる、というそういう意味で。

 何故だろう。現実味が、湧かない。

「な、んで……?」

 口を開けば、自身が震えているのがわかった。
 頭は理解していないのに、心が理解している。幾斗の言葉を、受け入れたくない、と。そう、言っている。

「別に。ただ、飽きただけ」

「……」

 くら、と眩暈がして。亜夢は、その場に倒れるように座り込んだ。
 それを、いつもなら支えてくれる幾斗は、ただ見ていただけで。手を、差し伸べてもくれない。

「あ、飽きたって……。何よ、それ……っ」

 きっ、と幾斗を見上げれば、冷たい視線が待っていた。こんな幾斗は、知らない。亜夢の知っている幾斗ではない。

 亜夢の知っている、亜夢が好きになった幾斗は。いつも、優しい瞳をしていた。穏やかに、見守るように亜夢を見つめていた。
 こんな、煩わしいものを見るような瞳を、亜夢に向けたことはなかった。

「言葉通りの意味。最初は、ただ珍しくて。それで一緒にいたけど。おまえ、普通の女と変わらねぇし」

「……」

「じゃあな」

「……」

 何も、言えなくて。幾斗の後ろ姿を見送る亜夢の視界が、揺れる。
 頬を濡らして、地面に落ちていく涙が。幾斗を追いかけろ、と。そう、言っている気がした。

「――何で、なのよぉ……っ!?」

 亜夢の叫び声が、幾斗のいない虚無の空間に寂しく響いた。

◇ ◇ ◇


「……はぁ」

 あれから、早1週間。当然のことながら、幾斗からの連絡はない。
 泣き腫らした瞳で学校に通っても、毎日であればもう誰も不思議に思わなくなっていた。

「あーむち♪」

「わっ」

 後ろからややに抱きつかれ、亜夢はその腕で首を絞められた。

「今からガーディアン会議だって♪」

「え? でも、あたし……」

「ほらほら、早くぅ」

 出席する気にはなれない、という言葉さえ言わせてもらえず。亜夢は、ややに引きずられるようにロイヤルガーデンに連れていかれた。

「連れてきたよー♪」

 ロイヤルガーデンに、ややの嬉しそうな声が響く。はぁ、とため息を吐けば、懐かしい声が亜夢の耳に届いた。

「久方ぶりですね、日奈森さん」

 ばっ、と顔を上げれば、相変わらず清ました表情の海里がそこにいて。自然と、亜夢の顔に笑みが溢れた。

「ひっさしぶりじゃん! どうしたの、急に?」

「姉に呼ばれて。それで、せっかくなのでこちらまで足を運ばせていただきました」

 中指で眼鏡を上げながら、海里は亜夢に笑顔を向ける。

「ところで。随分とあなたらしくもない、泣き腫らした目をしているのですね?」

「……あ」

 目元を押さえ、亜夢は俯く。また、思い出してしまった。
 その亜夢の表情に、ロイヤルガーデンにいた他のメンバーも、揃って口を閉ざしてしまう。



「だー、もぉ!! やや、こんな空気耐えられなーい!」

 しばらくした後、我慢ならなくなったややが大声を張り上げた。そうして、きっ、と亜夢を見据える。

「ちゃんと話して。じゃなきゃ、何もわかんないよ。ややたちは、いつだってあむちの味方だから」

「……やや」

「一人で悩むなんて、あむらしいけど」

「もう少し、僕たちを頼ってくれてもいいんだよ?」

「りま……。なぎひこ……」

 友人たちの熱い心遣いが、緩んでいた亜夢の涙腺を尚更緩ませて。涙が、頬を伝った。

「……って言っても、実はもう、知ってるんだけどね」

 唯世の言葉に、え、と亜夢は目を丸くした。

「イクト兄さんのこと、でしょ? 僕、頼まれたから。イクト兄さんに」

「……頼まれた?」

「うん。あむをふったから、あとはよろしくって」

「……」

 それは、どういう意味なのだろうか。
 亜夢をふっておいて、何故わざわざ唯世に亜夢のことを頼んだりするのだろう。
 幾斗の言動が、理解できない。

 きゅ、と唇を噛み締めた亜夢に、唯世は言葉を続ける。

「もちろん、断ったよ。イクト兄さんを好きなあむちゃんとは、一緒にいられないって」

「……」

 唯世の言葉を、亜夢は黙って聞いていた。もしかしたら唯世は、幾斗が亜夢をふった本当の理由を知っているのかもしれない。
 そう思ったが、聞く勇気もなくて。ごめん、と謝ることしかできなかった。

「謝らないでよ。謝られたら、余計に惨めになるから」

「……ごめん」

 何に対してなのか、わからないけれど。それでもやっぱり、詫びの言葉しか浮かばなくて。

「うじうじうじうじ、面倒臭いなぁ」

 ぽん、と背中を押されて、亜夢は振り向いた。

「イクトがどう思ってようと、おまえはイクトを好きなんだろ? だったら、もう一度当たってみりゃいいじゃねぇか。もしそれで砕けたら、俺たちが破片を拾って、またくっつけてやるから」

「……空海」

 じわ、とまた目頭が熱くなるのがわかった。
 すると、それまで黙って話を聴いていた海里が、ふいに口を開く。

「木の実は本へ落つ」

「は……?」

 言葉の意味がわからなくて、亜夢は目を丸くした。

「諺ですよ。実は、生った木の根本に落ちる。物事は、みんなその元に帰るということの例えから生まれた言葉です」

 亜夢は、黙って海里に目を澄ました。今のは、亜夢にとって鍵になる言葉かもしれない。

「日奈森さんを木の実に例えるのなら、月詠幾斗はその実が生っていた木。あなたが帰る場所は、月詠幾斗の元に他ならない。無論、僕に言われるまでもないでしょうけど」

 かちゃ、と音を立てて、亜夢の心の扉が開かれた。
 あんな一方的な別れを納得できないのなら、納得できるまで聞けばいいのだ。
 どうしたって、亜夢が幾斗を好きだという事実は消えないのだから。納得のできない別れに、無理に納得する必要はない。

「うん。あたし、行ってくるっ」

 笑顔で、亜夢はみんなに手を振り。行ってらっしゃい、とみんなも笑顔で亜夢に手を振ったのだった。

◇ ◇ ◇


「みーっけ」

 はぁ、と肩で息をしながら、亜夢は公園の片隅でヴァイオリンを弾く幾斗に人差し指を向けた。

「……あむ」

 驚いた目をして、幾斗はヴァイオリンを弾く手を止める。

「何しに来た?」

 ふい、と視線を反らして、幾斗は亜夢に背を向ける。そうしてベンチに置いてあるケースに、ヴァイオリンを片づけ始めた。
 すると、どん、と体当たり的に、背中に温もりを感じて。考えなくても、それが亜夢のものだとわかる。

「――告白、しに来た」

 亜夢は幾斗から離れて、じっとその背中を見つめた。

「イクトがあたしをどう思ってたって、あたしはイクトが好きなの。もしあたしに飽きたっていうんなら、またイクトが退屈しないような女になってあげる。イクトがあたし以外の女の子を見れないほど、あたしに溺れさせてあげる」

 背中越しには、幾斗の表情はわからないけれど。亜夢の、精一杯の想いは伝えられた。

「……それだけ、伝えたかったの」

 満足したように、亜夢は微笑んで。それから、幾斗に背中を向けて歩みを進めた。
 たとえ、幾斗が本当に亜夢に飽きたのだとしたら、また見ていて飽きない女になる。もし違う理由だとしても、それを二人で乗り越えていきたい。幾斗の側に、いたいから。

「……ごめん」

 言葉とともに感じる幾斗の優しい抱擁に、亜夢は胸が締めつけられそうになった。
 熱い吐息が、亜夢の耳元で響いて。感極まって、亜夢の視界が揺れた。

「愛してる……」

 その囁きで、亜夢に飽きたというのが偽りだったことが十分に理解できる。何か、理由があってのことだと。

 幾斗の腕の中で、亜夢は溢れる涙を止めることができなかった。



 幾斗が触れる手が以前よりも熱く感じるのは、しばらく触れていなかった反動なのか。それ以上に、亜夢が幾斗を欲しがっていたからなのか。

 理由は、定かではないけれど。
 今日ほど、幾斗と抱き合っていることを幸せだと感じたことはなかったかもしれない。

 熱い情交を結んだ二人は、しばらくその余韻に浸っていた。
 目を開けて、幾斗がいる。そのことが、何よりも幸せで。
 瞳を閉じて、開ける度。亜夢は、何度も泣きたくなる気持ちを抑えていた。

 そうして何度目かの後、幾斗と視線がぶつかって。恥ずかしそうに微笑めば、額に唇が寄せられた。

「……ずっと前から、考えてたことがあって」

 ぽつり、と幾斗が口を開いた。

「あむに、言わないと……って、そう思ってたんだけど。顔を見たら、どうしても言えなくて」

 歯痒そうに、幾斗は眉を顰める。

「守ってやることができないのなら、せめて唯世に任せておけば俺も安心できると思って……。でも、無駄に傷つけただけだった。本当に、ごめんな」

「……いいよ、もう」

 微笑んで、亜夢は幾斗の広い胸板に口づける。そうして、少しだけ吸う力を強めてそこに花を咲かせた。

「あたしのもの……、だよね?」

「……ああ」

 念を押すように言った亜夢を、幾斗はきつく抱き締めて。ようやく、決意したかのように口を割った。

「俺は、留学する」

「……」

 何となく、理解していたのだと思う。幾斗が、亜夢から離れることを。
 だからこそ、自然とその言葉を受け入れることができたのかもしれない。

「どぅ、して……?」

 涙を堪えて、亜夢は幾斗の胸に顔を埋めた。今顔を見れば、きっと涙が溢れてしまうから。

「子供なんだよな、俺も」

「……」

 今のはきっと、バイオリニストになる夢を捨てられない、という意味だと思う。いつか、幾斗は言っていたから。
 それを、反対なんて――できるはずがない。

「待ってても、いい……?」

 不安げに顔を上げた亜夢の潤んだ眼元に、幾斗は唇を落とした。

「待ってて、俺のこと。必ず、迎えに来るから」

「……うん」

 いつか、夢が叶ったとき。そのときは、二度と離さない。
 固く、結んだ指先を。絶対に離したりしない、と。その誓いだけを残して、幾斗は旅立つ。
 でもその旅立ちを、エピローグにはしたくないから。いつか、また巡り合うためのプロローグのようなものだ、と。

 その思いがあるからこそ、亜夢は何年でも待てる。待ち続けることができるのだ。幾斗がオーケストラの舞台に立つ、その日まで。


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