しゅごキャラ!/帰る場所があるから


『今日、帰れそうにない』

 携帯のメールボックスを開けば、ただ一言。それだけ書かれていた、夫からのメール。
 ぱたん、と携帯を閉じて、亜夢は幾斗のために用意していた食事を片づけ始める。

 ヴァイオリニストとして幾斗が成功し、世界中を飛び回ること。それは長年の幾斗の夢であったし、そういうふうに活躍している幾斗がとても輝いていて。亜夢も、もちろん嬉しかったのだが。

 亜夢が16歳のときに子供ができて、そのまま結婚して。当時音大生だった幾斗と、一緒に暮らすようになった。

「……もっと早く、連絡すればいいのに」

 もう間もなく明日にさしかかろうとしている壁の時計を見ながら、ぼそ、と亜夢は漏らした。幾斗のために食事を用意しておくことも、待っている必要もなかったのに。子供が寝たときに一緒に寝ておけば、こんなにも寂しくなることはなかったのに。

 もう2年近く、夫の顔を見ていない。いや、間接的に活躍している幾斗の姿は、雑誌やテレビで見た。でも、直接会って会話をしたい。どんな些細なことでも、言葉で触れ合いたい。

 昼間、亜夢が仕事に出ているときに着替えを取りに帰ってきて、亜夢が仕事から帰ってくる前に、幾斗もまた仕事に出かける。
 そんなすれ違いの生活を、もう2年も繰り返しているのだ。

 結婚したばかりのことを思うと、途端に寂しくなる。ずっと、幾斗が側にいてくれたことを思うと。胸が、苦しくなる。

「……」

 不意に、涙が頬を伝った。泣きたいわけではないのに。

 幾斗は、亜夢のために、家族のために仕事を頑張ってくれている。わかっているから、今まで頑張ってこれたのに。

 この突如押し寄せた不安は、一体どこから来たのだろう。ツラくて、寂しくて。拭っても乾かない涙は、どうすればいいのか。

「……お母さん?」

 かたん、と音がして振り向けば、眠っている筈の長男・かなでの姿が亜夢の目に映った。

「あ、ごめん。起こしちゃった?」

 慌てて駆け寄れば、奏は亜夢の目元に気づいたように、ふぅ、と息を吐く。

「……泣いてたの?」

 よもや、小学3年の息子に覚られてしまうなんて。ぱっ、と亜夢は自分の目元に手を当てる。

「別にいいよ、隠さなくたって。お母さん、案外泣き虫だから」

「な、泣いてなんか……」

 気恥ずかしくなって、亜夢は奏から目を背ける。こういうところは、本当にイクトの血を受け継いでいると実感する。
 今でも充分子供だが、もっと小さい内から、奏は亜夢の一喜一憂に左右される子供だった。亜夢が嬉しいときにはもちろん一緒に喜び、そして悲しいときには、一緒に泣いて。そういう状況の亜夢を、すぐに発見してくれて。

 幾斗の代わりを務めてくれているのかもしれない、と亜夢は何度も思った。

「お父さん、きっともうすぐ帰って来るよ」

「……うん」

 微笑んでそう言う奏の表情は、幾斗そのもので。亜夢の心は、すごく癒されるのだった。

◇ ◇ ◇


「お母さん、お母さんっ」

 ドンドンっ、と寝室のドアが響く。はっ、と目を覚まし、亜夢はドアを開けた。

「どうしたの?」

「俺、学校行ってくるから」

「え?」

 くる、と後ろを振り向いて壁の時計を見れば、亜夢は顔は一瞬で蒼く染まる。

「じゃ」

 身を翻して歩みを進める奏に、亜夢は声をかけた。

「奏、ご飯は?」

「パン焼いて食べたよ。お母さんは、もう少しゆっくりすれば。今日、休みでしょ? 目が覚めて俺がいないと心配すると思って、声かけただけだから」

「……」

 玄関のドアが開いて、行ってきます、と奏の声が響いた。

 亜夢は、すっかり寝坊してしまったらしい。寝る前に泣いてしまったのも、きっと寝坊した要因の一つかもしれない、と言い訳を並べて、亜夢はリビングへ降りる。
 ちゃんと、奏は自分で使った食器まで洗っていた。しっかりした息子だ、と改めて関心する。

 服を着替え、洗濯機を回してから、亜夢は冷蔵庫を開けて昨夜幾斗のために用意した夕飯を取り出す。それを電子レンジに入れて、温めてからダイニングテーブルの上に置いた。

 いただきます、と手を合わせたところで、玄関のドアが開く音がした。奏が忘れ物をしたのだろう、と思い、亜夢はパタパタとスリッパを鳴らして玄関ホールに向かう。

「奏? 忘れも……」

 そこにいたのは、奏ではなく。ずっと会いたかった、愛しい夫の姿であり。

「ただいま。今日、休みだったんだ?」

「あ、……うん」

 話したいことは山ほどあるはずなのに、本人を目の前にすると何故か言葉にならない。
 呆然とした亜夢に笑顔を見せて、幾斗はリビングへ足を動かす。

「……朝から、随分こってりしたもの食べてんだな?」

 テーブルに上に置かれた食事を見て、幾斗は亜夢に問う。

「あ、えっと。昨夜の、残り」

「え?」

「帰って来るって思ってた、から」

「……」

 そう言う亜夢の表情に、幾斗は胸が締めつけられそうな思いがした。
 大きな掌で、ぽん、と亜夢の頭を撫でてやれば、それだけで亜夢の涙腺は緩んでしまう。

 会いたかった。言葉にして幾斗の胸に飛び込めば、俺も、と返って来て背中に手を回された。会えなかったぶんだけ、もっと幾斗を好きになっている気がする。ずっとずっと、会ってこうして触れたかった。声を、聞きたかった。
 機械を通しての声ではなく、生身の声を。直接、耳元で響かせてもらいたかった。

「……寂しかった?」

「はぁ!?」

 首筋に唇を這わせて、幾斗が問う。なんとなく、亜夢だけが寂しがっていたような口振りである。
 かちん、となって亜夢は幾斗から離れ、自然と流れていた涙を拭う。

「ば、バカじゃん!? そんなわけ……」

「俺は、寂しかった」

 きっぱりと、幾斗は亜夢を見据えて言う。

「あむに、会えなくて」

「……」

 そっと引き寄せられ、額に幾斗の唇の温もりを感じた。

 やっぱり、勝てない。もう、ずっと昔から。幾斗に惚れてしまった瞬間から、この先、きっと幾斗に勝てることはないだろう。

 拭った先から、またも涙が溢れてくる。その涙を吸い取るように、幾斗は亜夢の目尻に唇を寄せた。



 どれくらいの時間、そうしていたのかはわからない。せっかく温めた朝食は、また冷え切ってしまっていた。
 それでも幾斗は、亜夢が泣き止むまで、ずっと亜夢を抱き締めてくれていた。

「……次、いつ行くの?」

 鼻を啜って、亜夢は問う。落ち着いて家にいられる人じゃないことは、充分に理解しているつもりだ。

「夕方には、出る」

「……そっか」

 やっぱり、と思う。いつものことなんだから、と自分に言い聞かせてみるが、それでも乾いたはずの涙が出るのは、何故だろう。

「転職、しようか?」

 亜夢の涙に気づいて、幾斗が声をかける。

「あむにそんな表情をさせてまで、バイオリニストに執着しない」

 頬に手を添えて、幾斗は亜夢を見つめる。

「ば、馬鹿っ。夢だったんでしょ!? それなのに、簡単に辞めるとか……」

「あむ以上に大切なものなんてねぇよ」

 そう言い切る幾斗は。悔しいけれど、カッコいい。

 亜夢だけではなくて、幾斗も。亜夢と同じように、もしかしたらそれ以上に亜夢を大切に想ってくれていて。わかっていたはずなのに、言葉にされるまで気づけなかった。いや。言葉にされて、そういう気持ちを思い出させられた。

「……やっぱりだめだよ。バイオリニストは続けて。簡単に、辞めるとか言わないで」

 甘えたくなるから。最後の言葉は飲み込んで、亜夢は幾斗に伝えた。わかった、と言う代わりに、幾斗は亜夢を抱き寄せる。
 とくん、と幾斗の心臓の音が亜夢に伝わる。側にいる、と実感した。

 そのとき。

 ぐぅ、と亜夢のお腹が鳴って、幾斗は目を丸くした。ぷ、と噴き出せば、亜夢は真っ赤になって幾斗に怒鳴った。

「し、仕方ないじゃん! ご飯、まだだったんだからっ」

 くく、と顔を片手で押さえて、もう片方の手で亜夢の頭を撫でる。無邪気な亜夢の笑顔に安堵しながら、しゅる、とネクタイを緩めて、幾斗はソファに腰を下ろした。

「イクトも、ご飯食べる?」

 冷めた食事を電子レンジに入れて、亜夢は幾斗に問う。幾斗は立ち上がり、シャツのボタンを外しながら亜夢に近づいて、言った。

「あむが食べたい」

 言葉に、亜夢の顔が一瞬にして赤く染まる。

「い、今、朝……」

「愛し合うのに、時間なんか関係ないだろ?」

 そう言って亜夢を引き寄せ、幾斗は目尻に口づける。

「だめ?」

「……」

 切ない目で訴えられると。亜夢は、何も言えなくなってしまって。断る理由なんか、何もない。
 亜夢の身体も、幾斗を欲しているのがわかっていたから。

◇ ◇ ◇


 がちゃ、と玄関のドアを開けて、奏はいつもない靴が目に入った。父親の靴、である。
 帰っているのか、と奏は軽く息を吐いてリビングに足を向けた。

「あ、お帰り」

 奏の姿に気付いて、亜夢が声をかける。ただいま、と返事をして、奏はランドセルを幾斗の座るソファに投げた。

「家なんて、とっくに忘れてるかと思ってた」

「言うようになったじゃねぇか」

 まるでケンカを売るように、奏は幾斗に言った。口元に笑みを浮かべて、幾斗は答える。

「あんまり、お母さんを悲しませるなよ」

「お前に言われるまでもない」

 そんなことは、重々承知している。待っている間、どんなに亜夢が寂しい思いをしているのか。会いたい、という言葉を、決して電話口では言わないように心がけているのか。痛いほど、それは伝わっている。

「何の話?」

 奏の前にオレンジジュースを置いて、亜夢が奏に笑顔を見せる。何でもないよ、と奏が言うと、訝しげな表情をして、亜夢は台所へ姿を消した。

「ま、でも」

 オレンジジュースを口に含みながら、奏が口を開く。

「お母さんが笑ってるから、いいけどね」

 最近、泣いた表情しか見ていなかったから。涙を、我慢している表情しか。

「だけど」

 どん、とオレンジジュースの入ったコップをテーブルの上に置いて、奏は幾斗を睨んで声を潜める。

「キスマークは、もっと見えないところにつけろよ」

「見えるところじゃないと、マーキングの意味がないだろ?」

 さっき、オレンジジュースをテーブルに置いたとき。ちら、と桃色の髪の隙間から、首筋にほんのり色づいた朱色の痣が目に留まった。
 幾斗がつけたそれだとすぐにわかるほど、キレイなキスマーク。

 少しだけ頬を紅潮させた奏を尻目に幾斗は立ち上がり、洗いものをしている亜夢の後ろから彼女を抱き締めた。ひゃ、と小さく叫んで、亜夢は身を縮ませる。

「奏に、弟妹を作ってあげようか?」

「……っ」

 言葉の意味を理解し、亜夢の顔は瞬時に赤く染まる。

「いらねーよ。泣き虫は、お母さんだけで十分」

「ちょ……、泣き虫じゃないしっ」

 真っ赤になって反論する亜夢に、呆れたように奏は笑みを漏らす。はは、と幾斗の笑い声が、家に響いた。

 まったく、いつまで新婚気分でいるつもりだろう。昔から、この二人の仲睦まじさは変わらない。きっとこれから先も、変わることはないだろう。

 何年離れて暮らしていても、この二人には切っても切れない絆がある。だから亜夢も待っていられるし、幾斗も安心して仕事ができるのだと思う。

 目には見えない二人だけの赤い糸が、繋がっている。いつも亜夢を放っておいて泣かせてばかりいる幾斗は、正直言って許せない。でも幾斗といるときの亜夢の表情は、誰といるときよりも幸せそうで。
 そんな表情を見ていたら、こういう愛の形もあるのかな、と思ってしまう。

 もうすぐ、幾斗はまた出かけてしまう。それを、亜夢は笑顔で見送る。そうして待っている間、また涙を我慢して生活していくのだ。次に、幾斗と会うときまで。


しゅごキャラ!/帰る場所があるから■END