しゅごキャラ!/いてくれてありがとう


「初潮が来たの? よかったじゃない」

 歌唄は、手に取ったグラスをテーブルの上に置きながらそう言った。

「ちっともよくないよ……」

 はぁ、と深くため息を吐いて、亜夢はオレンジジュースの入ったグラスを取る。

「せっかくお茶してるときに、そういう表情はやめなさい」

「う……。ごめん」

 歌唄の言う通り、だと思った。

 亜夢は学校帰りに、歌唄と会う約束をしていた。本当は買い物に行く予定だったのだが、亜夢の体調がよくなかったので喫茶店でおしゃべりをすることになったのである。

「生理痛、重いの?」

「うん、たぶん。死にそうなほどお腹痛いし、頭クラクラする」

 蒼い顔をして、亜夢は言った。ふぅ、と息を吐いて、歌唄は亜夢を見る。

「あたしもね、生理痛、かなりひどかったのよ」

 俯いて、歌唄は話し出した。

「あたしの初潮の面倒ってね、イクトが見たの。イクトもそんなに詳しくはなかったのに、一生懸命あたしを支えてくれた」

「……」

 幸せそうに幾斗との思い出を語る歌唄を見ていると、正直、少し妬ける。
 いつだって、歌唄には幾斗という支えがあって、歌唄を守ってくれていた。だから歌唄は、あんなにも幾斗のことが好きだったのかもしれない。
 兄妹の壁を乗り越え、存在がないと生きていけないほどに。歌唄にとって幾斗の存在は、生きていくための心の糧だったのだろう。

「あたしね、生理痛がひどくて、一晩中布団に包まって泣いていたことがあったの。でも、それにイクトが気づいてくれて。次の日から、寝るときはずっと手を握っていてくれた」

 自分の掌を見つめながら、歌唄は少しだけ頬を赤らめた。

「たったそれだけなのに、気持ちが随分と楽になって。そうしたら、生理痛も和らいだのよ」

「そう、なんだ……」

 ずきん、と心臓が痛み、亜夢の心に靄がかかる。
 羨ましくて嫉ましい気持ちが、亜夢を占領する。瞬間、下腹部が鋭利な刃物で刺されたように痛んだ。
 しかしそれを表情に出さずに、亜夢は極めて平静を装う。

「好きな人の手って、魔法の手なのよね。側にいるって実感するだけで、痛みが飛んでいってしまうもの」

 幾斗のことを語る歌唄は、本当にきれいで。どれほど幾斗のことを想っていたのかが、直に伝わってくる。
 それに、亜夢の心はひどく痛んだ。
 何故心がこんなにも胸が痛むのか、亜夢にはわからなかったけれど。



「うー……。マジ、キツい……」

 喫茶店で歌唄と別れ、帰路に着きながら亜夢は一人で呟いた。
 ふぅ、と重く息を吐いて、近くの公園に入る。そうして一番近くのベンチに腰を下ろした。

(――…あ)

 不意に、亜夢の耳に切ないヴァイオリンの旋律が響いてきた。誰が弾いているのかなんて、その旋律だけでもわかる。こんなに優しく胸に響く音を奏でるのは、幾斗以外にはいない。

 目を瞑り、亜夢はその旋律に聴き入った。子守唄のように、心地いい。生理痛の痛みが、どこかへ飛んで行ってしまいそうだ。

 幾斗の夢は、やっぱりヴァイオリニストになることなのだろうか。幾斗の実父は有名なヴァイオリニストだった、と以前、歌唄が言っていた。血は争えない、ということなのか。

 亜夢は徐に立ち上がってヴァイオリンの音色のする方へ足を向けた。
 幾斗は、以前と同じ場所でヴァイオリンを弾いている。その姿には、やはり見惚れてしまう。

「……くしゅんっ」

 亜夢のくしゃみで、幾斗はヴァイオリンを弾いている手を止めた。
 亜夢の姿を確認し、ふ、と微笑む。その表情に、思わず亜夢は、ドキっとしてしまった。

(あー、もうっ)

 幾斗にときめいてしまったのを否定するかのように、亜夢は目を瞑って顔を横に振る。雑念を、散らすために。

「!?」

 目を開けると、至近距離に幾斗の顔があって。また、亜夢の心臓が騒ぎ出してしまった。

(な、何……!?)

 高鳴る心臓を抑えるのに、亜夢は必死だった。幾斗との距離が縮む度、亜夢の心臓は張り裂けそうになる。

(だ、だめ……!!)

 こつん、と幾斗の額が亜夢の額に当たった。お互いの顔の距離が、相当近い。

「あー。お前、やっぱ熱あるわ」

「……へ?」

「赤い顔してたから、エロいことでも考えてんのかと思ったけど。お前、エロガキだし」

「はぁ!?」

 言われた言葉に亜夢は反論しようとしたが、瞬間、眩暈がしてその場に膝をついてしまった。

「ほら。立てるか?」

 幾斗は、そう言って手を差し出す。

 ――寝るときはずっと手を握っていてくれた。

 歌唄の言葉が、亜夢の頭を過る。ドキドキしながら、亜夢はその手を握った。

(……温かい)

 人の手がこんなに温かいなんて、知らなかった。男の人の手は、もっとゴツゴツしていると思っていた。でも、幾斗の手は違う。
 女の人みたいに、細い。

「抱っこしてやろうか?」

「し、しなくていいし!」

 立ち上がり、それでも少しよろめく亜夢の顔を覗き込みながら幾斗が言った。その言葉に、亜夢は赤面する。

 噎ぶように笑いながら、幾斗は亜夢の手を引いてくれた。思いがけず幾斗の手を握ることができて、亜夢は内心、とても嬉しかった。

 好きな人の手かどうかは別にして、幾斗の手は、本当に魔法の手のように亜夢の痛みを吹き飛ばしてくれた。
 幾斗の手を握っていると、心が落ち着く。歌唄の言っていた言葉が、よくわかる。これが好きな人だったら、尚更なのだろう。

 掌の先の幾斗を、亜夢は後ろから見つめていた。頬が火照るのは熱のせいだ、と思いながら。

◇ ◇ ◇


「ふー……」

 1週間程度続いた月経もようやく終わり、亜夢は久しぶりにゆっくりと湯船に浸かることができた。
 心身ともにさっぱりして、亜夢の機嫌は上々だった。

 自室のベランダから外を眺め、一人の青年の姿が脳裏に浮かぶ。そうして徐に、亜夢は自分の掌を見つめた。

 ――好きな人の手って、魔法の手なのよね。

 歌唄にそう言われて、亜夢は幾斗と手を繋ぎたい、と思った。そしてそれが叶って、亜夢は歌唄の言葉が本当だったと実感していた。

 幾斗の手を握っているだけで、不思議と生理痛が少し和らいで。心までもが穏やかになった。
 好きな人の手というのは、本当に魔法の手なのかもしれない。

(……あれ?)

 思いながら、亜夢は違和感を感じた。

(好きな人って……、イクト!?)

 そんなこと、あるわけがない。あっていいはずがないのだ。
 亜夢が、幾斗を好きだなんて。

「ありえないから、そんなこと!」

「何がありえないって?」

「!?」

 奇妙な事実を否定したくて思わず叫ぶと、幾斗が空から降ってきた。

「な、なな……、なんでここに!?」

「ちょっと通りかかった」

 考えていたことを覚られたくなくて、亜夢は幾斗に背中を向けて叫んだ。表情を見られてしまうと、亜夢が考えていたことがばれてしまうかもしれない、と思って。

 そんな亜夢に、幾斗はそっと近づいて声をかける。

「……つーか、おまえ。そんな格好でベランダに出るなよ。襲われるぞ」

 幾斗の言葉に、亜夢ははっとする。風呂上がりにバスタオル1枚を巻いたままの姿で、今までいたのだ。
 慌てて自身の肩を抱き、その場に座り込む。

「な、何しに来たんだよ!?」

 顔を真っ赤に染め上げて、それでも幾斗と目を合わさないように背を向けたまま、亜夢は聞いた。

「何って……。別に」

「は?」

 幾斗の言葉に、亜夢は思わず幾斗を向いて呆れた表情をする。

「きゃっ!?」

 不意に、亜夢の体が宙に浮いた。幾斗がお姫さま抱っこをして、亜夢を部屋に運んでくれる。

「お、降ろしてよ!」

「今降ろすから。暴れるなって」

 両足をバタつかせながら亜夢が言えば、平然と幾斗は言葉を返した。そうしてゆっくりと、亜夢をベッドに降ろす。

「あ、あり……がと」

 俯いて、亜夢は素直にそう言った。ふ、と口元に笑みを浮かべて、幾斗は亜夢を見つめている。

「じゃあな、あむ」

「え?」

 さっと身を翻し、幾斗はベランダへ足を向けた。

「結局、何しに来たのよ」

 意味もわからないまま、亜夢は訝しげな表情をして幾斗を見やった。
 しばらく立ち止まり、そして幾斗は一言だけ亜夢に言葉を投げる。

「元気そうで、安心した」

「え?」

 それだけを言い残し、幾斗は颯爽と去って行った。果たして、今の言葉の意味は。

 考えて、亜夢は一つの答えを見つける。
 先日会ったとき、亜夢は生理痛で眩暈を起こしてフラフラしていた。きっと、亜夢の体調が気になって様子を見に来たのだろう。
 幾斗らしいと言えば、幾斗らしい。

 思いながら、亜夢の顔に笑みが零れた。不器用で、優しい黒猫。心配していたのなら、素直にそう言えばいいのに。

 でもきっと、そんな不器用なところも。

「……」

 思いかけて、亜夢は首を横に振った。

(だから、違うって!)

 一人で百面相をしながら、亜夢は必死に幾斗への想いを否定し続けた。
 好きなのは唯世、と何度も自分に言い聞かせながら。


しゅごキャラ!/いてくれてありがとう■END