花より男子/キスがその答え


「西門さんち?」

「そ」

「……」

 類の運転する車の助手席で、つくしは訝しげに首を傾げていた。そんなつくしを、類は時折、笑顔で見つめている。

 スピード狂だった類も、いつからか安全運転になり。つくしも、安心して助手席に座るようになっていた。
 司と別れたわけではないけれど、忙しい司と連絡を取ることは極めて難しく。つくしが寂しさを感じ始めた頃、必ずと言っていいほど側にいてくれたのは。

 ちら、とつくしは類に視線を向けた。

「何?」

「う、ううん」

 目が合って、思わずパッと目を背ける。

 つくしが寂しい思いをせずにいるのは、いつも類が側にいてくれたからだ。クリスマスも誕生日も、それから今日、大晦日も。いつだって、類が……いや、類だけではない。総二郎とあきらも、つくしの寂しさを紛らわそうと構ってくれていた。いつも、誰かがつくしの側にいてくれた。

「今日、西門さんちで何かあるの?」

「何かって?」

「え? いや、別に……」

 大概、みんなで集まるのはあきらの家だ。それが今日に限っては総二郎の家に向かっているというのだから、何かあるのだろうと思っても不思議ではない。

 ふぅ、と息を吐いて、つくしは座席に身体を預けた。類にしゃべる気がないのなら、これ以上聞いても無駄かもしれない。そう思った矢先、ぽん、と類の大きな手がつくしの頭を覆った。

「着付けだよ」

「着付け?」

「うん。初詣に行こうと思って」

「初詣……って、二人で?」

「うん。だめ?」

「だ、だめって……」

 そう言ってニコッと笑顔を向けられたつくしの頬が、わずかに赤く染まる。天使のような微笑みでそう聞かれて、だめなんて言えるわけがなく。つくしは頬を赤く染めたまま、類から視線を外して俯いた。
 変わらない類の端整な顔立ちが、そんなつくしを横目に見つめている。クスッと笑んで、類は口を開いた。

「みんなで、だよ」

「え?」

「総二郎とあきらと、それから牧野の友達」

「友達って、もしかして優紀?」

「うん。たぶん、そんな名前の子」

 そんな名前の子……って、と思わずガクッと肩を落としそうになり、つくしは呆れたように類を見つめた。

 司と遠距離恋愛を始めて、約2年。以前告白されたことがあるにせよ、今はそんな様子は微塵も感じられなくて。そんな類だから、きっとつくしも安心して側にいられるのかもしれない。

「着いたよ」

 車が停まると同時、類がシートベルトを外す。そうして車から降りて助手席に回り、ドアを開けた。

「あ、ありがと」

「うん」

 類にエスコートされるように、つくしは総二郎の家に足を踏み入れるのだった。

◇ ◇ ◇


「道明寺が?」

「そーいうこと」

「ぅぐ……」

 総二郎にギュッと帯を締められて、思わずつくしは呻き声を上げた。

「もっと色気のある声出せっての」

 呆れたようにハーッと息を吐き出して、総二郎は少しだけ帯を緩めてやる。つくしは全身鏡に映った自身を見ながら、あのね、と口を開いた。

「色気なんて、あたしには無理だっつの」

「思わず抱き締めたくなるような声出せば、このまま抱いてやるのに」

「ぎゃっ!」

 帯を締め終えた総二郎が、そう言って後ろからつくしを抱き竦める。

「ち、ちょっと、にし……」

「終わった?」

 コンコン、とノックをしながら、襖に凭れて戯れる二人を見つめていたのは。
 つくしは、サーッと血の気が引く思いがした。

「ああ、今終わったとこだ」

「じゃあ行こうよ。混むのはイヤ」

 さらっと言った総二郎の言葉に頷くでもなく、つくしに視線を送るでもなく。類は、そのまま踵を返して行ってしまった。

「あーりゃ、相当イカってんな」

 クックッと笑いながら、総二郎はつくしを放す。

「わ、笑い事じゃないわよ!」

 ワナワナと身体を震わせながら、つくしは総二郎を睨んだ。

「知ってんでしょ!? 類って、怒らせるとシツコイんだから! この間だって……」

「何で?」

「は?」

 前例を出そうと言いかけたつくしを、総二郎が真顔で遮る。

「どうして、俺と牧野が抱き合ってて、類が怒るワケ?」

「そ、それは……」

「うん? 言ってみ?」

「……」

 総二郎は少しだけ吊り上がらせていた目を、今度は細めた。そうして優しくつくしを見つめている。

 ――どうして、俺と牧野が抱き合ってて、類が怒るワケ?

 どうしてって、どうしてだろう? 問われて、つくし自身わからなくなってしまった。

 類は、つくしの恋人ではない。つくしが誰と抱き合っていたって、類には関係ないのだ。それなのに、どうしてだろう。関係ないはずなのに、関係ないと思った刹那、地獄に落ちたように目の前が真っ暗になってしまった。救いの手がないと、立ち上がることさえ儘ならないかのように。

「ワリ」

 くしゃり、と頭を撫でられ、瞬間、つくしの両目から大粒の涙が溢れ落ちた。

「泣かせるつもりじゃなかった」

「……」

 それは、つくしも同じだった。総二郎の目の前で、泣くつもりなんてなかった。

「繋がったか?」

「え?」

 す、と涙を拭ってやりながら、総二郎は呟いた。

「類が怒った理由と、牧野が泣いた理由」

「理由……?」

「自分の気持ちに素直になれ」

「……自分の、気持ち」

 胸に手を当て、つくしはゆっくりと目を閉じるのだった。

◇ ◇ ◇


「混んでんなー」

「時間が時間だからな。仕方ねぇだろ」

 はぁ、とため息を吐いて座席に身体を預けた総二郎を横目に、あきらが腕時計で時間を確認してそう言った。

「あ。じゃあ歩きます? ここからなら、歩けない距離じゃないですよね?」

「でも、車が……」

「あー、それいいね」

 優紀の提案に意見しようとしたあきらを遮って、総二郎は後部座席のドアを開けた。

「おいで、優紀ちゃん」

「あ、はい」

「ちょっと待てよ、総二郎」

 手を差し出されて、優紀は慌ててそれを握り車から降りる。訝しげに、あきらもそんな二人につられて車から降りた。

「え? みんな降りるの?」

 それまで賑やかだった車内が、途端に不機嫌な類と二人きりにさせられてしまう。思ったつくしがシートベルトを外そうと手をかけると、大きな類の手がそれを制した。

「俺ら先に行ってるから。牧野と類は、車停めてからゆっくり来いよ」

「え!? ち、ちょっと、西門さん……っ」

 つくしの呼びかけも空しく、ドアはバタンと音を立てて閉められてしまった。渋滞で進まない類の車の横を、ヒラヒラと手を振りながら三人は歩いていく。
 やられたー、とつくしが眉間に皺を寄せた瞬間、類に覆われた手が、きゅ、とキツくなった。

「あ、あの……。類?」

「牧野は、総二郎が好きなの?」

「はい?」

 恐る恐る口を開いたつくしを、類がまっすぐな瞳で見つめる。

「る……」

「俺は、司だからおまえを譲った」

 以前にも、聞いた覚えがある。あれはたしか、清之介に招待されたパーティのあとだ。
 清之介に結婚を申し込まれて、その場にいた司が清之介を殴って。騒ぎになるから、と言って類と一緒にパーティを抜け出したあと。類から、同じ台詞を聞いた。

「総二郎のこと、好きなの?」

 動かない車の中、ゆっくりとつくしは首を振る。

「……ううん。好きは好きだけど、友達としてだよ。そういう好きじゃない」

「そっか」

「うん」

 つくしの手を覆う類の手に、わずかに力が入った。つくしの心臓が、早鐘を打つ。
 類は、つくしにとって初恋の人である。つくしが類に想いを寄せていたとき、類は静を好きだった。司と両想いになって付き合い始めた頃、類に告白された。もう2年も前の話だ。いつも類との想いは擦れ違うばかりで、重なり合うことはない。

 それでも今、類のこの温かい手のひらは、つくしを想っている気がする。変わらず愛してるよ、と言われているような気になって。決して言われているわけではないのに、つくしは目頭が熱くなるのを堪えられなかった。

 ズズ、と鼻を啜り、つくしは鞄からハンカチを取り出そうと類の手の下に置かれた手を退かそうとする。だが類はつくしの手を放そうとはせず、逆に自身に引き寄せた。

「る……」

 声をかけようと類を見たつくしの唇に、類のそれが触れる。え、とつくしは大きく目を見開いた。

「ごめん。泣かせたかったわけじゃないんだ」

「……」

 類の肩越しに、車の外が見える。反対車線も渋滞していて、帰りもきっと混むだろうな、などとのんびり考えている場合ではなくて。

「る、類」

「しばらく、車動かないから。大丈夫だよ」

「そ、そっか」

 納得しそうになって、じゃなくて、と思わず突っ込みたくなるのを何とか堪える。どうして今、類の腕の中にいるのか。何故、その前に。キス、されたのか。
 頭の中が疑問符だらけで、どうにかなりそうだ。

「総二郎と抱き合ってるのを見たとき」

「え?」

「気が狂いそうだった」

「……」

 つくしを抱き締める類の手に、自然と力が入る。類の口から紡がれる言葉を、つくしは黙って聞いていた。

「司なら我慢できる。司は、ずっと牧野を好きだったから。でも、総二郎はダメ。総二郎を好きになるくらいなら、俺を好きになってよ。俺の方が、先に牧野を好きになったんだから」

「な、何よそれ」

 その類の言葉に、つくしは思わず吹き出した。

「あのね、先に好きになったからとか後から好きになったとか、そんなの関係ないでしょ。好きになっちゃったら、どうしようもないんだから」

 類はつくしを少しだけ離して、コツンと額を合わせる。そうして少しだけ、ムッとしたような顔付きになった。

「だから、総二郎と付き合うの?」

「だから、違うっつの」

 呆れたように、つくしは類の頬をペチンと叩く。

「西門さんと付き合うとか、ありえないっつーの」

「だって、さっき……」

 頬に添えられたつくしの手に、類は自身の手を重ねる。そうして表情を暗くして呟いた。

「あれは、だから……。ああ、もう面倒臭い」

 はぁ、と大きくため息を吐いて、つくしは類を見つめる。

「西門さんと付き合うくらいなら、類と付き合うよ。あたし――」

 刹那、ゴーン、と除夜の鐘が鳴り響き始めた。それと同時に、着付けをされながら総二郎に言われた台詞がつくしの頭を過る。

 ――クリスマスに誕生日、それから今日。どうして類がおまえと過ごしてたか知ってるか?
 ――え?
 ――司に頼まれたんだよ。おまえの気持ちをハッキリさせてやってほしいって。

 司はきっと、見抜いていたのだ。つくしの本心に。

「俺、牧野が好きだよ」

 いつかの記憶が蘇ってくる。あのときの情景が思い浮かんだつくしは、類の頬に添えている手を慌てて離すのだった。

「牧野……」

「ち、違うのっ。今のは、その……!」

「……」

 不意に手を振り払われた類は、寂しげな瞳でつくしを見つめていた。
 ズキンと心が痛むのに、何を言っても言い訳にしかならないような気がして、結局つくしは口を噤んでしまう。たとえ言い訳だとしても、何も言わないよりマシかもしれないのに。

「ごめん」

「え?」

「忘れて、今の」

 次に向けられた笑顔は、いつものものに戻っていたけれど。つくしは、震えが止まらなかった。一瞬だけ見せた、あの傷ついた表情。あれだけつくしを大切にしてくれた類を、傷つけてしまった。
 誰よりも……、司よりも大切な類を。

 類はまたいつもの表情で、進まない車のハンドルを握る。そんな類の横顔を見て、つくしはゴクリと唾を飲み込んだ。そうして、よし、と心の中で自身に声をかける。

「類!」

「え?」

 振り向いた類の胸倉を掴むと、つくしは勢いよく自身に引き寄せた。もう少し色気のあるキスはできないものかと思うけれど、こればかりは仕方がない。震えた唇が、ゆっくりと類から離れていく。こんなに面喰らった表情の類を見たのは、初めてかもしれない。
 それが不思議で堪らなくて、つくしは思わず、ふふ、と口元を綻ばせた。

「不思議だね」

「それは、俺の台詞でしょ」

「うん?」

「キスは好きな人としなきゃ、ってあれはどうしたの?」

「……だから、したんだよ」

「え?」

 ニコッと微笑んで、つくしはハンドルに添えてある類の手を取る。

「西門さんとはできない。でも、類とはできる」

「……」

「意味、わかるよね?」

 恥ずかしくて、心臓が異常なほどに波打っていた。つくしの脳裏に浮かぶ司が、つくしに笑顔を向けている。頑張れと応援してくれている。総二郎の話を聞いて、司の気持ちがつくしにも伝わったから。

「わからないよ、はっきり言ってくれなきゃ」

「……うそつき」

「嘘じゃないよ。俺、頭悪いから」

「よく言う……。英才教育を受けてきたお坊ちゃんのクセに」

「それとこれとは別だよ。人の心まで見透かせるような勉強はしてきてないから」

「……」

「言って、牧野?」

「……」

 絶対に、わかっていて言わせたいだけなのだろう。意地悪だとわかっているのに、天使のような微笑みが文句を言わせてくれなくて。

 すぅ、と大きく息を吸い込んで、つくしは類の耳元へ唇を寄せた。

「……すき」

 震えるつくしの吐息が、類に声を運んでくる。スキというたった2文字だけれど、つくしにはとても勇気がいったことだろう。それでも、どうしても言葉にしてほしくて。
 ようやく聞けたつくしの本心に、類は満足そうに微笑むのだった。


花より男子/キスがその答え■END